第29話 登山

 街の船着場から船を出し、湖を横断して対岸の山に着くのはおおよそ二時間ほどかかるそうだ。


 シエラは船の上から湖を覗いてみる。船が進む力で波を立てているが、そのたった波すらも透明度が高い綺麗な水だ。

 船を出した当初は湖の底まで見えて小魚たちが泳いでいるのがはっきりと見えたが、水深が深くなるごとにどんどんと湖の中は薄暗くなっていく。

 しかしゴミの類いが浮いているわけではない。単純に光が届かないほど深いから暗くなっているだけなのだろう。


「綺麗な湖ですね」

「そうでしょう。この湖はレスイの自慢なのですよ。定期的にボランティアが集まって掃除をしたり、湖を汚さないように注意書きを書いたりして、何百年もこの綺麗な光景を守り続けてきたんです。この湖は女神の加護を受けている、なんて噂もありますからね」


 シエラがこぼした言葉に男性が解説をしてくれた。

 この景色が何百年と変わらない思うとすごいものだ。昔も人もシエラと同じこの景色を見ていたのだろうか。


「女神の加護?」

「ああ、はい。この国は他宗教な国なので、その土地によって信仰されている女神が違うのはご存知でしょう。ここでは湖の女神が信仰されているんですよ」


 カルロが首を傾げるとすかさず男性が口を開いて説明した。


「もしかして噴水の近くに立っていた女性の像がレスイで信仰されている女神さまなのでしょうか?」

「ええ。あの像はなんでも何十年か前に建てられたものだそうですよ。私がまだ子供のころだったかな」


 男性は船を運転しながら頷いた。

 たしかシエラたちのいたハビスカでは土の女神が信仰されていたはずだ。街中にはいくつか女神像も建てられている。

 しかし施設で育ったシエラは、全国のいろんなところから集まってきた職員たちの話を聞いてきたので特別どこかの女神に対する信仰心が強いわけではない。いろんな女神さまがいるのだなーと思ったくらいだ。


「街でなにか災害などが起きたりした時はあの女神像に湖の水をかけて、街のみんなで祈りを捧げるんです」

「へぇ……」


 同じ国とはいえ、街によって信仰する女神や文化の違いにシエラは驚きつつも頷いた。


 シエラが昔職員や本を読んで知った他の女神は湖、土を除いてあと四神だ。

 主に王都で信仰されているという太陽の女神。他に炎の女神に風の女神、そして木の女神。

 これらの女神は各地で信仰されているそうだが、シエラのようにとくに信仰心が強くない人もいる。そういった者にはあまり関係のない話だ。


「もう少しで着きます」


 男性の言葉に顔をあげた。街から見えていた山がもう目の前にまで迫っていた。


「これ……山頂につくまでどれくらい時間がかかるんでしょう……?」


 改めて見てみると相当な高さのある山だ。魔獣がうじゃうじゃ闊歩していることを含めると、戦闘に時間がとられて一日で登りきれないかもしれない。


「二日……いや、魔獣の様子を見ながらならもう少しかかるかもね。けどそれを見越して準備もしてきたし心配しなくても大丈夫だよ」

「そう、ですよね。魔獣がいるなら少なくとも食材には困らないでしょうし」


 今回の薬草採取は日帰り冒険ではない。それくらいわかっていたので、カルロの言葉に頷いた。魔獣と戦いながら何日もかけて山を登るのは少ししんどそうだが、これもいい経験になるだろう。


「この山には船着場がないのでできるだけ近くに止めます」

「お願いします」


 男性は漁船で行ける水深のギリギリまで山に近づいてくれた。

 カルロが先に岩場に飛び移り、シエラも船から降りた。


「!」


 木々の隙間を吹き抜けてシエラの髪を揺らした風は生ぬるい。Aランク魔獣がうじゃうじゃといると聞いていたが、周囲に魔獣の気配はなく、むしろ妙な静けさだ。どこか不気味な雰囲気にシエラは鳥肌を立てた。


「なんだか妙だな」


 カルロも同じ気持ちらしく、周囲を見渡している。しかし人はもちろん魔獣の姿もない。岩場の先に木々が鬱蒼と覆い茂っているだけだ。


「わ、私はここで失礼ますね。約束通りここまで連れてきましたから」

「ありがとうございます」

「腕に自信のある冒険者なんでしょうが……気をくださいね」


 いつ出てくるかわからない魔獣に怯えているのか、それとも山から漂う不気味な雰囲気を肌で感じ取ったのか、男性はそう言うと街の方へと船を方向転換させて走り去っていった。


「……あれ、そういえば帰りはどうするんです?」


 船ごと帰られてはシエラたちが湖を渡る手段がなくなる。男性の後ろ姿を見送ってそのことに気がついたシエラが口を開いた。


「遠回りにはなるけど帰りは歩いて帰ろうか」

「そうですね。歩いて帰るのかぁ……」


 魔獣と戦い、薬草を採取してからまた歩いて街まで戻ることを考えると少し億劫に感じるがしかたがない。

 シエラは覚悟を決めると木々の覆い茂る森の中に入っていった。

 カルロとともに魔獣に警戒しながら森の中を進んでいく。


「魔獣がいませんね」

「そうだね。いくらなんでもおかしいな」


 シエラの言葉にカルロは頷いた。

 魔獣にも冬眠するものもいる。だから今の時期は冬眠していていないのかも、とも思ったが、この山に住むすべての魔獣が同時に冬眠に入るとは思えない。

 と、なるとなぜ魔獣がいないのかが疑問になる。


「Aランクの魔獣がうじゃうじゃいるっていうのはただの噂だったんでしょうか?」

「いや、それはないだろうね。実際にこの山にはAランク魔獣がたくさん生息しているとギルド組合にも報告が上がっていて、ギルド職員もそれを確認している。だから本当なら魔獣がいる、はずなんだけど……」

「数が少ないどころか一体もいませんね」


 シエラたちはもうすでに山の八合ほどの位置まで移動していた。しかしまだ魔獣とは一度も鉢合わせていない。

 魔獣たちがシエラの気配に気がついて隠れたとかではなく、本当にどこにも魔獣がいないのだ。気配すらどこにもない。


「冒険者に魔獣が討伐された、とも考えにくいな。たくさんいるAランク魔獣を太刀打ちできる冒険者は少ないだろう。なによりこんな不便なところまで来て、クエストの討伐対象でもない上級の魔獣を倒す意味がないから」


 経験を積むために魔獣と戦う冒険者は少なくない。しかし、いくら経験を積むためだとしてもカルロの言う通り、わざわざこんなところまで来る必要性はないだろう。レベルアップのためなら近場の森に入った方が魔獣と簡単に出会えるし、たとえ怪我をしたとしても近場なら帰りも楽だ。


「もしかして……山頂にいるという鳥の魔獣が関係しているのかもしれないね」

「屋台の店主さんが言ってた、冒険者が見たと言う大きな鳥の魔獣ですか」

「ああ。魔獣は人ほど知性は高くはないけど、本能的に自分より格上の相手とは戦わないことが多いんだ。それこそランクが高ければ高いほど性格は慎重な傾向にある。だからもしかしたらSランクの魔獣を恐れてこの山から逃げ出したのかもしれない」


 カルロの言葉に唸り声をあげる。

 Aランクの魔獣が逃げ出すのは相当なことだ。もしカルロの立てた仮説が本当だとしたら、山頂にいる魔獣は本気で危険かもしれない。

 シエラは思わず唾を飲み込んだ。


「……まぁ、大丈夫だよ。もしオレたちでも敵わないような相手だと思ったら一度撤退すればいい。油断は大敵だけど、気楽に行こう」

「はい!」


 カルロは気を遣ってくれたのだろうか。シエラを見てにっこりと笑ったので、その笑顔を見たら少し気が楽になった気がする。

 少なくとも筋肉の緊張は解けた。

 緊張と周囲を強く警戒していたせいで固まり始めていた体を少しストレッチしてまた歩き出した。

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