真冬の海で死んだ姉を思う

終電宇宙

第1話

「私にとって仕事は娯楽みたいなものだから」と姉はよく言っていたものだった。僕を含めて家族はみんなその言葉に騙されていた。受話器越しから聞こえる姉の声はいつも明るかったから、姉が精神的に追い込まれていたことに気付きもしなかった。

 

 僕は今、海にいる。姉が一人暮らししていた町の海だ。冬の寒い風を受けながら僕は歩いた。誰もいない砂浜は荒れ気味の波の音だけが聞こえていて、空はどこまでも灰色の雲が続いていた。


 姉は去年ここで自殺した。「自分という存在が社会の異物に思えて仕方ありませんでした」という遺書を残して姉は去った。僕にはその遺書の意味がよくわからなかった。わからないから、理解しようと努力した。姉はどんな気持ちでこの海の中を進んでいったんだろう。姉が死んでから、僕はそんなことにばかり考えるようになっていた。


 一年たっても、頭の中のいろいろな疑問に答えは出てこなかった。考えてみれば当たり前だ。答えを知っている人は姉しかいなくて、その姉はもう死んでしまったんだから。


 僕はもう姉のことを忘れたいと思っていた。そのために今日、ここに来た。今日この場所で、僕は姉との記憶を断ち切るのだ。僕は靴を脱いで海に一歩足を踏み入れた。一歩。また一歩。海に踏み込んでいく毎に姉の心と自分の心が一体化していくような気持ちになった。僕は少しずつ海の中へ進みながら、心の中で言った。姉ちゃん。姉ちゃんが死んだせいで、僕のこの一年はめちゃくちゃになりました。姉ちゃんのせいです。姉ちゃんが死んだことがすべての元凶です。姉ちゃんなんて嫌いです。もう、忘れさせてください。そう祈った瞬間、足を滑らせて、僕の体はすべて海の中へと沈んでいった。


 海水に浸かった頭の中で僕はなおも祈った、忘れたい。忘れたい。忘れたい。忘れたい。海水が入ったみたいで鼻の奥がツンと痛んだ。ふと、何かが僕の耳に触れた。それはおそらく何かの海藻だったんだろうと思う。けれど、その時の僕にはそれが誰かの手であるように思えてならなかった。姉ちゃん。と心の中で呟くと、耳元でごめんねと女の人の声がした。僕はそれに驚いて、とっさに目を開けて立ち上がった。

「姉ちゃん?」

と僕は言った。もちろん誰もいなかった。周りには砂浜とどこまでも続く冬の海が広がっているだけだった。僕は悲しくなってその場で泣いた。姉に会いたい。どうしても会いたい。


 海から上がって、僕はずぶ濡れのまま砂浜に座った。寒さに震えながら正常じゃない頭の中で、僕はとことん悲しむ覚悟を決めた。忘れられないのだから仕方ない。僕は立ち上がって、そのまま駅を目指して歩き出した。とりあえず今は、家に帰って自分のベッドで心ゆくまで泣きたかった。

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