深泥

蛙鳴未明

深泥

 台風一過、さんさんと輝く太陽とつやめくアスファルトに見守られ、二人の少年が瓦礫の山々の間を駆け回っている。あっちの山を覗き込んだかと思うとこっちの山へ駆け寄って、さながら春の野を飛ぶ蜜蜂のよう。そうして鈍く光るナットや半分に割れた鏡といった"宝物"を見つけると、二人顔を見合わせて向日葵ひまわりのように笑うのだ。


 そうして二人がだんだん重く大きくなっていく"宝箱"――こと宝袋を引きずり回っているうちに、ふと、流れてきた一片の雲が太陽に被さった。ちょうどその時、少年の片方がある瓦礫の山の陰を覗き込む。途端に彼は目を輝かせて振り返り、宝箱を重そうに引きずる相方にぴょんぴょん飛び跳ねながら手招きして、相方が来るのを待ちきれず山の陰に走り込む。


 穴。そこには穴があった。アスファルトの真ん中にぽっかり開いた傷。そう大きくはないけ れど、小さくもない、中途半端な大きさのその穴の、ちょうど少年達の背丈ぐらいの深さに茶色い水面が揺れている。


 わあ凄い、と少年が思わず"宝箱"から手を離す。ずしりと音を立ててそれが歪んだ。もう一人の少年も同意の声をあげ、手近な木の棒を拾い上げて一歩、二歩穴の縁に近付いた。腕を伸ばし、縁から垂れ下がるアスファルトを突っつく。それはいとも簡単に崩れ落ち、どぼん、と大きな音を立てて泥水を跳ね散らかす。後ろへ跳んで飛沫を避けて、二人の少年がまた穴を覗くと、黒いアスファルトの角が、泥水の上にのぞいていた。


 じわり、と角が沈む。ぐじゅり、じゅるり、そんなありきたりな音もなく、黒くつやめく角は静かにゆっくりと泥色の中へ吸い込まれていき、少年達がその様子に釘付けになっているなか、遂に一片の黒も残さず消え去った。


 二人は顔を見合せた。その目の中に渦巻くのは何か?棒をくるりと一回ひとまわし。少年は恐る恐る穴の縁に寄り、再びアスファルトを突っついた。ぼろぼろり、と崩れ落ち、小さな飛沫を幾多散らばすアスファルト。穴の中がレーズンケーキのようになったのも束の間、レーズン達はあっという間に沈んでなくなり、穴の中は茶色一色。あとには波紋しか残らない。


 棒が、アスファルトを突いた、叩いた、ほじくった。その度に散らばる黒い粒々。むき出しになった土も水に誘われ次第に崩れ、穴はだんだん大きくなっていく。


 やがて響く少年の声――細い声。


 もうやめようよ。


 我に返って手を止めるもう一人。中途半端な大きさだった穴は、気付けばもう大きな穴になっていた。穴の底で土の欠片が泥水と一緒に渦巻いている。泥水に溶かされ泥となって沈んでいく。


 少年は、ぞくりと背筋を寒くした。空を見るといつの間にかすっかり曇りになっていた。身体が熱い。額を拭い、穴に背を向けようとしたその時、足元の"宝箱"に足を引っ掛けた。


 あ、と少年は声を上げる。友の体がぐらり傾き手に持つ棒が空を切る。"宝箱"が穴へと歪む。アスファルトがぼろり崩れる。少年は咄嗟に穴に向かって飛び出した。


 泥が跳ね飛び少年の顔を打った。彼はひんやりとしたものが顔を滑るのを感じつつ、両手の中のものをまさぐって感触を確かめる。両目を開けて、彼は安堵の表情を浮かべた。


 腕の中、しっかり抱えられた宝の袋。


 か細い声に、少年は顔を上げた。緩んでいた頬がゴムのように劣化する。友の口が、泥を吐いて小さく動いた。


 た・す・け・て


 泥の中瞬き黒い澄んだ宝石が二つ、少年を見た。ずるり、とその目線が一段下がる。宝石が恐怖の色に染まって揺れ動き、主の手に力を込めた。ずぶり、と手が肘の辺りまで泥に沈み、更にまた目線が下がった。真珠のような涙が泥に溶かされる。友の口が動く。


 たすけて、たすけて、たすけて……


 唯一自由な左手が、震えながら少年に伸びる。


 少年は動かなかった。動けなかったのだろうか。ともかく彼は宝の袋をぎゅっと抱きしめて、身じろぎ一つせずに趣味の悪いチョコレートのようになった友を見つめる。左手が、落ちた。がちゃぎいぎいと、宝の袋から音が出る。それを見下ろして、少年は初めて自分の腕が痛いのに気づいた。力をゆるめる。袋の口が開く。鏡の破片が少年を見返した。灰色のナット、折れ曲がった針金。中にあるのは、中にあるのは――


「うわあああ!!」


 袋が大きく弧を描く。こぼれた鈍色が尾を引いて。泥が盛大にはねとんだ。ガラクタが散らばってきらりきらり、星のように輝いた。


 少年は走る。不規則な息。水滴が彼の頬を伝って風の彼方へ飛んでいく。見上げると、雨。空が灰色に滲んでいた。


 どれだけ走ったか。少年は我が家へ辿り着く。門柱に身をもたせ、血の味の呼吸を繰り返す。9mm弾のような大粒の雨は彼の身体をすぐ冷やし、冷やしきった。肩を震わせながら来た方に振り返る。浅い川のようになった道路。アスファルトの水底に、何かが転がっていた。目を凝らす。誰かが見返す。鏡、鏡だった。なぜここにあるのだろう。ぼんやりと彼が思っているうちに、それは一回転、二回転、切り揉みしながら水流にさらわれていく。それはただ流れる落ち葉のようにも見え――その光景を最後に少年の視界は暗転した。


 ※ ※ ※


 数日後、少年は病室で椅子に座っていた。小さな古い病院の、小さな古いベッドに寝る小さな病人を見つめていた。いや、けが人と言うべきか。彼は頭の上半分を包帯でぐるぐる巻きにされていた。下半分を覆うマスクは、曇ったり澄んだりを繰り返している。


 丸椅子が軋む。包帯を見つめる椅子の主が、手に力を込めたせいだ。あの日投げたガラクタが詰まった袋――それが彼の脳裏でしきりに点滅していた。


 違う、そんなはずない


 口の中で呟くが、そんなはずしかないことは彼自身が一番よく分かっていた。あの時、泥の中に血は混ざっていなかった。その後混ざったとすればあの袋のせいだ。


 違う


 半ば機械的につぶやく。半ば機械的に否定する。


 投げた後は泥が跳ねる音しか聞こえなかった。きっとこいつには当たってない。僕のせいじゃない。


「――僕のせいじゃ、ないんだ」


 夕日が頬を撫でた。ふと、視界の端で何かが動いた気がした。反射的に目をやって、それが指だと気付く。ベッドの上で力なく伸びていたはずの指が、ひくり、ぴくりと動いている。はっ、と患者の顔を見た。まぶたが震えている。小刻みに……そしてだんだん大きく――それは瞬きとなり、そして止まった。ぼんやりとした目が、ゆるりと動き、少年の目を捉えた。椅子から立ち上がり、ベッドの方に身を傾けていた少年は瞬きをして、それから引きつったような笑みを浮かべた。


 ヨカッタ……


 空虚な声が空気を揺らす。少年は一歩、二歩歩み寄り、”友”の顔を覗き込む。


 大丈夫?


 聞くと、”友”は瞬きしてしわがれた幾つかの音を返してきたが、少年はそれが何か分からなかった。曖昧に微笑んで言う。


 覚え……てる?


 帰ってきた素早い幾度かの瞬きを、少年は「不可解」の意味だと理解した。


 そっか――


 良かった、の声を噛み殺し、彼は上がりかけた”友”の手をそっと押さえる。


 まだ寝ててよ。


 口調がキツかったかもしれないと言葉を付け足す。


 あんま無理しないでね。


 ”友”の目が閉じ、間もなく彼は眠りに落ちた。その穏やかな寝顔を見ながら、少年は指の絆創膏をいじる。唇に歯が立って血がにじんだ。鉄臭い味を転がしながら、彼はこのイラつきの根本をたどる。目の前の人に対するものではない。自分に対する――そう、後悔。彼は、母の腕の中うすぼんやりとした意識の中で「泥に沈んだ友達」のことを口走ったのを後悔していた。言わなければ、こうしてやきもきすることも無かったのだ。


 覚えてないとは言っているけれど……


 もし――もし、ひょんな事で彼が思いだそうものなら――少年は『罪人』のレッテルを貼られることになるだろう。彼の行動になんの法的問題も無かったとしても。


 少年は手のひらに爪を立て、ベッドを見た。穏やかな寝顔。無防備な寝顔。無防備――無抵抗――


 彼の胆を冷たい風が撫でた。じわり、脂汗が吹き出る。


 もしも、もしもしたら、どうなる?


 少年の問いに誰かが答える。


 君は無罪だ。


 少年はベッドに近付いた。


 でも、どうすればバレないようにできる?


 彼の指の絆創膏が酸素マスクから繋がるチューブをなぞる。


 ちょっと押さえて、そのまましばらく待てばいい。大丈夫、バレやしない。


 少年は瞬きして酸素マスクに覆われた顔を見た。


 やれよ


 誰かが囁く。でも――という反論より早くまた声がする。


 やらなきゃ、ボクは罪人だ


 少年の目が激しく泳ぐ。呼吸が荒い。白くなり、透明になりを繰り返す酸素マスク。少年はぎゅっと目をつぶり、指に力を加えた。虫を潰すかのような気持ち悪い感触が彼を襲う――と、その時だった。指の間びくりと大きくチューブが跳ねた。思わず手を離し目を開く。最初に視界に飛び込んだのは白。危険な白。それから不自然に突っ張り震える手。


 目の前で、友が白目を向いて痙攣していた。


 少年は咄嗟にナースコールを掴み真ん中のボタンを押そうとして――そして止まった。


 呼ばなければどうなる?


 友は目の前でなおも痙攣し続けている。明らかに普通じゃない。医者を呼ばなければきっと――でも、さっきまでそれを望んでいたじゃないか?それに、これなら――これなら、バレない。


 少年はぞくり、と背筋を震わせた。


 今、何を思った?今、自分は何を望んだ?


 そして少年は気付く。


 するかしないかじゃない、バレるか、バレないか、それだけじゃないか。


 少年はベッドが軋む音で我に返った。友の痙攣はいよいよ激しくなっている。少年はナースコールを見つめた。汗でじっとりと濡れたそれは、今にも手から零れ落ちそうだ。彼はそれをしっかりと握り直し、ボタンの上に指を置く。指を外した。また指を置き、再び外す。震える手指が奇っ怪な運動を繰り返す。少年の呼吸が荒く、大きく――荒く大きく――荒く大きく――荒く荒く――短く荒く――そして――


 ※ ※ ※


 小さな古い病院だった。監視カメラはついていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深泥 蛙鳴未明 @ttyy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ