第13話 第13章
真美の母親が美沙であるというイメージは突然湧いたものではない。真美と一緒にいることがこの上ない時間ではあったが、それは至福の悦びという気持ちの裏に、不安が募ってくる時間であることは、最初から分かっていた気がする。
その不安がどこからやってくるのか、最初は分からなかった。不安というものは、募ってくるものだが、最初から意識しているとしていないでは雲泥の差である。
意識はしていなかったが、真美に対して他の女性を好きになった時のように、手放しに喜びだけを感じられるわけではないことは分かっていた気がした。それがどこから来るのか分かるとすれば、そこに多少なりとも不安が見えてくるのは分かっていた。
人を好きになって不安に思うということは、
――相手に誰か決まった人がいるのではないか?
という思いか、
――俺が好きになってはいけない相手ではないか――
という思いがよぎった時である。
後者は、相手から嫌われるかも知れないという思いも含んでいる。自分が好きになっても、相手が自分のことを嫌いであっても好きになってはいけないわけではないが、敏夫の場合は、その思いも含んで考えてしまう。
前者の主導権は、相手にあり、後者の主導権は、こっちにあると思っている。そういう意味では、
――相手が嫌いであっても、好きにさせればそれでいいんだ――
という思いも頭を巡る。
ただ、後者の感覚は幅があまりにも広い。一歩間違えると、堂々巡りを繰り返してしまうことになる。
敏夫は、真美の母親が美沙であると思うと、父親は自分ではないかと咄嗟に考えた。だが、敏夫には真美が自分の娘ではないという確信のようなものがあった。もちろん、絶対的な確信ではないが、自分の娘であれば、絶対に違うという感覚が存在していることを感じていた。言葉にするには難しいが、それが時間の観念であるという意識があるのだった。
――俺にあって、真美にはない。これがあるから、真美は俺の娘ではないんだ――
と、感じる。
敏夫は時間の感覚に関しては、ある程度親からの遺伝のようなものを感じていた。それは、物理的にありえない感覚であった。
――平行線は絶対に交わらないんだ――
敏夫の中にある平行線という感覚、それは、時間を巻き込むことによって、堂々巡りを感じさせる気持ちに値するのだった。
敏夫は、美沙に会いたいという気持ちが強くなった。真美に聞いても多分知らないだろう。
――美沙の存在も知らないに違いない――
育ての親に育てられ、生みの親と称する女性と一緒にいるが、真美はその人を本当の母親だとは思っていないようだ。
そこまでして、本当の親を隠すのは、
――もう美沙はこの世にいないからではないだろうか?
という思いが頭の中にあった。その思いはどんどん大きくなってくるのだが、それでも敏夫は、美沙に会いたいと思うのだった。
会うとすれば、夢の中でしかないだろう。
ただ、夢の中に出てくる美沙は、きっと本当の美沙ではないはずだった。
夢は潜在意識が見せるもの。しょせん、見ている人間に都合よく見ているだけなのだ。
怖い夢にしてもそうだ。確かに怖い夢を見たいと思ってみる人はいないだろう。それなのに見てしまうのは、その人の潜在意識とは別に、確かめなければいけないことがあって、その思いが夢となって見せるに違いない。ただ、ゆっくり考えてみれば、潜在意識が自分に都合のいいことだけを感じさせるものではないとすれば、やはり、怖い夢も潜在意識に属するものに違いない。
真美を見ていると、自分の父親のことを知っているような気がした。知っていて、誰にも知っているという気持ちを言おうとはしない。きっと育ての親にも、生みの親と称する女性にも同じであろう。せっかく真美がショックを受けないように、真美の育ての親として存在している女性がいるのだ。敏夫はその女性が誰なのか、イメージとして分かっていた。
美沙には、一人姉がいた。
名前を朝子といったが、朝子は美沙のことで、よく敏夫に相談していた。
本当は、美沙よりも朝子の方が、敏夫の考え方に近かった。従順な美沙とは違い、どこか危険なところがある女性で、すぐに、人を信じ込んでしまっては裏切られ、裏切った相手を殺したいという衝動に駆られる方だったのだ。
真美の、すぐに誰かを殺したくなる性格を感じた時、朝子のことを思い出し、さらに敏夫自分のことを顧みた。敏夫もすぐに誰かを殺したいと思うところがあり、自分でも危険だと思っていた。
そして朝子の性格の中に、時間に対して、独特な考え方を持っていた。
「時間って、進んだ分だけ、元に戻ろうとする一面を持っている気がするんです。私は時々堂々巡りを繰り返していることを感じるんですけど、そんな時、時間が戻ろうとしているんじゃないかって思うんですよ」
と言っていた。
「確かにそうかも知れないね。でも、時間って戻れるのかい?」
「いいえ、決して戻ることはできないんですよ。だから考えだけが堂々巡りを繰り返してしまう。気が付いたら、時間だけが過ぎていることがあるんですけど、それが堂々巡りがあったことを無意識に思い出そうとしているんじゃないんですかね」
という。
その話も、敏夫には痛いほど感じる感覚だった。
「時間を戻すことができない代わりに、ゆっくり動いている時間が元に戻ろうとする搬送のようなものを僕は感じることがある。それは、朝子さんが感じているものと少し違っているのかも知れないけど、同じものだと思いたいんだ」
この話をした時、まだ敏夫は美沙と身体の関係を結んでいなかった。美沙を好きだという気持ちに変わりはないのだが、この時の朝子は、その後美沙とどんなに愛し合った時よりも、絆としては激しかったかも知れない。
――取り返しのつかない時間があって、その時間さえなければ、もっと違った人生が人がっていたとしても、俺はこの時間だけは、絶対に繰り返したくはない――
それは、唯一であればこそ輝いている時間であり、やり直すに値しない時間である。ひょっとすると、自分にとって今までの中で一番、そして今後これからも、無に一つの時間であったと胸を張れる時間であると思っている。
今まで、朝子のことを思い出さなかったのは、無に一つの時間を朝子に感じたからだった。敏夫にとって、そして朝子にとってお互いに最大の時間であったことを信じて疑わない。だから、思い出すことは、本当に人生を振り返る唯一の時だと思っていた。
朝子であれば、真美の生みの親として存在することもありえるだろう。
「私は、一生結婚しないと思うの」
それは、敏夫が美沙を好きになり、朝子を裏切る形になったことが現実になったからだ。
美沙は朝子にこれ以上ないというほどの罪悪感を感じていたことだろう。そして、朝子がすぐに、
――殺してやりたい――
という感情を抱く女性であるということを感じたことから、朝子に見つからないところに身を隠したに違いない。
敏夫は、美沙とのことの精算という名目で、朝子の前から姿を消した。表向きは、敏夫と美沙の間だけの出来事なのだが、本当は朝子を巻き込んだ三角関係だったのだ。
だが、敏夫には朝子が誰も殺すことができないことは分かっていた。しかし、殺さないことで、却って当事者に与えるプレッシャーというのは凄まじいものがある。
「好きになった人を殺してしまいたい」
という思いを、どうして真美が持っているのかは分からないが、ひょっとすると、美沙にも同じ思いがあったのだろう。
しかも、美沙にしても真美にしても、朝子とは違っていた。本当に殺してしまいたいという衝動なのだ。朝子はその思いを感情にして相手にぶつけることで、却って強烈なプレッシャーを与え、精神的に苦しめる。どちらが厳しいのか敏夫には想像もつかなかったが、やはり朝子と美沙は姉妹だった。
敏夫は、真美を抱いたことを後悔はしていない。しかし、抱いてしまったことで、時間を引き戻された気がした。
自分は二十歳代に戻り、抱いている相手は、美沙ではなく、朝子だった。
――俺が本当に好きだったのは、誰だったのだろう?
今まで、朝子ではないことは確かだと思っていた。だが、美沙が一番だとしてしまうと、朝子の存在が自分の中から消えてしまうように思えたからだ。
――朝子の存在を絶対に消してはいけない――
この思いは、自分の存在意義にすら関わってくることで、朝子のことを意識していなかったのは、下手に意識してしまうことで、朝子の存在を安易に消してしまいかねないと感じたからだった。
真美が一体誰の子なのか、いろいろ考えてみた。
朝子、美沙のどちらかであることは疑いないと思っている。それも本当は元々が突飛な発想から生まれたものであった。証拠のようなものは一切ない。
「好きになった人を殺したい」
という発想だけで生まれた妄想だったのだ。
だが、好きになった人を殺したくなるような発想は、そう簡単にあるはずもない。遺伝するものかどうかもハッキリしないが、確か美沙の母親にも同じ発想があったと、美沙から聞かされたことがあった、
それなのに、美沙は自分にもそんな発想があることは一切明かしていなかった。今敏夫は恐ろしい発想を巡らせている。
――好きな人を殺せなかったかわりに、自らを殺してしまった?
自己愛というものが、美沙にあったことは付き合っている時に感じたことがあった。それが自己顕示欲のようなものだったことで、自己愛に直接つながっていることにどうして気付かなかったのかと思ったが、美沙は、自己顕示欲を隠そうとはしなかった。隠そうとしなかったことを、直接素直に信じてしまう敏夫は、美沙に対して、余計な疑いを向けることはなかった。
――俺が美沙を好きだった理由は、素直なところにあったのかも知れない――
他の人から見れば、
「彼女は変わり者だ」
と思っているかも知れない。
だが、敏夫は美沙が変わり者であることを素直に受け止め、そのおかげで、変わり者とまわりが言っていることをまったく信じることはなかったのである。
――素直な人ほど、まわりから誤解を受けるものなのかも知れない――
と、敏夫は思うようになっていた。それが、美沙の特徴であり、一番気になっているところであり、一番好きなところだったのだ。
朝子に対して、持っていた、
――危険な香り――
美沙に対しては従順だと思えるのに、朝子に対しては、どうしても、その裏を見てしまう。
――この二人は本当に実の姉妹なんだろうか?
と、感じたことがあった。
従順で素直な美沙に対し、危険で疑いたくなる朝子、それぞれに極端であるが、姉妹だと言われて、学生時代の敏夫はまったく疑う余地はなかった。従順な美沙に対してはもちろんのこと、朝子は、自分に似ているところはあることで、身体の相性も美沙より、朝子の方にあった。
それなのに、敏夫は美沙との結婚を決意した。
「俺たちはあまりにも似ているところが多いんじゃないか?」
敏夫が朝子よりも美沙を選んだことに対して、朝子に対しての言葉だった。誰が聞いても言い訳にしか聞こえない気がしたが、敏夫は真面目だった。
最初、この言葉を口にした時、敏夫は自分が言い訳をしているのではないかという自己嫌悪に襲われていた。しかし、話しているうちに、言葉の信憑性に気付くようになり、言い訳ではなく、説得になっていることに気が付いた。
言い訳であれば、相手に分からせるなど、おこがましい。自分がどれほど情けないことをしているのか、すぐに分かるというものだが、説得であれば、相手に気持ちが伝わりさえすれば、
「ええ、分かったわ」
と、朝子なら納得してくれると思ったのだ。
しかし、これは都合のいい解釈だ。もし、朝子が分かってくれたとしても、敏夫にとって後ろめたさが消えないだろう。
――俺は一生、この後ろめたさと一緒にいなければいけないんだ――
それが、朝子ではなく、美沙を選んだ結論だった。
だが、最悪の展開が待っていた。
美沙を選んだはずなのに、美沙とも結局別れさせられることになった。確かに朝子との間で美沙を選んだのは、子供ができたこと以前の問題だったはずだが、美沙も自分についてきてくれようとはしなかった。
今から思えば、それは朝子という姉に対しての遠慮も、十分に含まれていたのかも知れない。
「敏夫は姉を裏切る形で私を選んでくれたんだ」
本当は嬉しいはずなのに、どうしてなのか、
しかも自分のお腹の中には敏夫の子供がいる。本当であれば、第一に子供のことを考えて、敏夫と一緒になるのが一番いいはずだ。
――いや、一緒にならなければいけないに違いない――
そう思ったはずの美沙は、次に考えたのが、子供を一人で育てることだったのだ。
それは、自分が素直で従順な女性であるということだけではなく、もう一つ、敏夫はその時知らなかったが、
――好きになった人を殺してしまいたくなる性格――
が、敏夫に向いてしまうことを考えてのことだろう。
親が敏夫と美沙を引き離したのは、親自身が、好きになった人を殺してしまいたくなる性格であり、そんな苦しみを娘に味あわせたくなかったからに違いない。ただ、その時の親はそんな意識もなく暮らしていたということは、人を殺してしまいたい性格は、一過性のもので、時期を過ぎればなくなるのではないかと思えた
そう、まるで思春期のニキビのようなものなのかも知れない。
その特徴があったのは、やはり母親だったのだろう。だが、そのことを考えていると、少しずつ気持ちが分かってきたのだ。
すると、さらなる突飛な発想が思い浮かんだ。
――どうして、俺はこんなにあの家庭のことが分かるんだ? 俺も誰かを殺したいという性格が潜んでいるということなのか?
今になって思えば、人を殺したいと思うよりも、まわりに対しての反発は絶えず抱いているように思う。まわりの人の考えが焦れったく思えてきたり、自分を蔑んでいるような思いを抱くことがある。
被害妄想のようなものなのだろうが、それよりも、従順に自分に従わない人たちを憎らしく思っているのかも知れないと思うようになった。ただ、元は被害妄想、まわりに対しての不安から、自分中心でなければ嫌な性格が形成されていったとすれば、それは遺伝によるものというよりも、育ってきた環境によるものが強いであろう。
だが、美沙の親を思い出すと、特に母親は、米軍キャンプで浮気をしていたのではないかと思うようになっていた。以前に美沙の親の話は聞いていた。
それは父親に対してのわだかまりのようなものを相手が解消してくれるからであると今では思っているが、それよりも、自分に従順な相手を探していたのかも知れない。別れるに際してさほど揉めなかったのは、米軍兵士が母に対して従順ではあったが、従順な気持ちが好きだったという感情よりも強かったからである。母も彼を愛していたわけではなく、従順な彼に惹かれていただけだった。それが相手の男を殺さずに済んだ証拠ではないだろうか。
朝子と身体を重ねた時に、美沙や家族のことが何となく分かってきたような気がした。血の繋がりのようなものが、朝子との間に結合し、美沙や美沙たちの親の気持ちも一緒に分かるような気がしたのだ。
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