第12話 第12章

 敏夫は真美と知り合ってから、無性に美沙のことが気になり始めた。

 子供ができたことで無理やりに引き裂かれてしまった二人だったが、もう少し粘ってみたかった気がするからだ。

 本当は、何があっても美沙から離れたくないと思っていた。引き裂こうとするなら、それでも構わない。自分と美沙は強い絆で結ばれていると思っていた。

 しかし、結局は別れることになった。原因は、美沙の心が折れてしまったからだ。

「せっかく敏夫さんが私を愛してくださるのは嬉しいですけど、私にはもうこれ以上、まわりを引っ掻き回すことはできません。どうか放っておいてください」

 という内容の手紙をよこしたきり、それ以降、敏夫と会おうとはしなかった。もちろん、美沙の家族の方で、何をどのようにしたのかなど、分かるはずもない。美沙は頑なに敏夫を拒否し、表で出てくるのをずっと待っていたが、現れることはなかった。車で出かけられたら手も足も出ない、まさに敏夫は自分だけが孤立した気分だった。

 表で待ち伏せなど、やっていることはストーカーだ。訴えられたら言い訳のしようがない。美沙の家族が訴えることをしなかったからよかったようなものの、その時の敏夫は、

――訴えられても構わない――

 というほど、頭に血が上っていた。

 冷静になれば、

――バカみたいなことをしたものだ――

 と感じるのだが、それでも、もう一度同じ立場になれば、同じことを繰り返したかも知れない。

 それは、自分の性格をそう簡単に変えることなどできないということであり、性格というよりも信念に近いものだと思っているからだ。そしてもう一つ考えられることは、自分が堂々巡りを繰り返している中にいるということである。

 堂々巡りを繰り返しているというのは、何か嫌なことがあって、それを教訓としているはずなのに、似たような状況に陥ると、またしても、同じ道を選んでしまうということである。信念とは違った意味で、まるで吸い寄せられるように、同じことを繰り返してしまうことが人生には往々にしてあるものだ。しかも、それを否定できない自分がいる。頭の中で想像しても、できる想像は、その一つ以外にありえないからである。

 敏夫は、その時本気で、美沙と結婚するつもりだった。いくらまわりが反対しても、美沙さえ自分の味方であれば、何でもできるからだと思ったからだった。しかし、その思いは根底から覆された。自分が信じていた美沙が、自分から敏夫を遠ざけたのだ。

 敏夫には、

――美沙が逃げ出した――

 としか思えなかった。

――自分がここまで思っているのに、自分から逃げるなんて、どういうつもりなんだ――

 もちろん、敏夫の勝手な思い込みなのだが、敏夫は極限まで上げてしまった士気の高まりをいかにして沈めるか、どうすればいいのか分かるはずもなかった。

「はい、そうですか」

 と言って諦めきれるはずなどありえない。完全に懸けた梯子を上り終わり、美沙が昇ってくるのを待つばかりの状態で、梯子を外されたのだ。

 しかも外したのは美沙自身、一人上に取り残されて、美沙はまわりの人に守られながら、敏夫の視界から消えていく。まるで敏夫一人が悪者になってしまい、これほどの裏切りはないと思わされる結果になってしまったのだ。

 美里はそれ以来会っていない。消息を訊ねる気にもならなくなった。

――あの家には関わりたくない――

 しばらくして出した敏夫の結論だった。

 敏夫には美沙に対して、恨みこそあれ、愛情のかけらも残っていないはずだった。

――殺してやりたい――

 などという過激なことは考えないが、その代わり、自分の堂々巡りの責任を美沙一人に押し付ける形で、自分を正当化させる気持ちになっていったのだ。

――俺をこんなにしやがって――

 女々しくないと言えばウソになるが、そうでもしないと、自分が立ち直れないと思ったのだ。せっかくこっちが彼女のためにと思っているのに、子供ができたこともあって、二人の気持ちを一つにしないといけないと思っているのに、自分だけどうして逃げようとするのか、敏夫には分からない。

 しかし、今は少し分かった気がする。

 子供ができると、精神的に不安定になることもあるだろう。さらにまわりから、矢のような攻撃にさらされる。子供を身籠った母体に、これ以上の負担は、子供のためにも掛けるわけにはいかない。

 美沙にとっては苦渋の選択を迫られたことだろう。

「泣いて馬謖を斬る」

 まさにそんな心境だったに違いない。

 その代わり、

「自分の命に代えても、この子を守っていく」

 という決意をした。そんなことではないだろうか。

 もし、そういうことであるならば、美沙を責めることはできない。あの時、美沙に対して行ったストーカーまがいの行為は、自分では正当化されたものだと思っていたが、美沙を追い詰めることになったのかも知れないと思うと、敏夫はやりきれない気持ちになっていた。

 美沙に会いたいと思ったのは、真美と知り合ってからだと思っていたが、ひょっとすると、美沙に会いたいという思いを感じたことで、真美と知り合うことができたのかも知れないという思いも頭を過ぎった。

 もし、真美との出会いを運命だと思うのであるならば、美沙に会いたいという気持ちが真美と知り合うきっかけになったと考えることもできるだろう。美沙と真美、似ているところを探してみたが、意外と似ているところはさほどない。最初は、似ているように思ったのだが、それは美沙と元女房を比較して、あまり似ていないという意識を持っていたからだ。あの二人ほど似ていないわけはないという思いが、敏夫の中で、真美が似ていると勝手に思いこませる意識を生んだのだろう。

 美沙は従順なところがあり、どちらかというと、肉親への情が厚い方だった。家族から言われると、従わないわけにはいかない。そういう意味では敏夫は他人なのだ。子供の父親は間違いなく自分なのに、それでも肉親を優先する。何とも因果な女に思えて仕方がなかった。

 敏夫は、さらに昔のことを思い出していた。同じような思いをしたことがあった気がしたからだ。

 あれは子供の頃だった。米軍キャンプがまだあった頃、母親が米軍の兵隊さんと浮気をしているという意識だ。

――そんなこと、今まで感じたこともなかったのに――

 実は、その意識は美沙の意識だった。それを敏夫は分からない。それに、本当の美沙は、そんな浮気をした母親や、堅物のような父親に対して、情が厚いわけはなかった。敏夫の意識は真実と違うところで意識していたのだ。

 しかもそれを自分のことのように感じていた。意識が交錯したのだが、こんな感覚も初めてではなかった。

 やはり堂々巡りを繰り返しているからなのか、本人の意識の外での堂々巡り、いずれは気付くことではあるだろうが、敏夫にとって真美はいつのまにか、自分と同化してしまった存在になっていた。

 これもなぜなのか、後になって分かってくる。真美の存在が分からせてくれるのだが、それが真美の書いている小説に端を発していた。

 敏夫が書いている話がどうしても繋がらない時、真美を見ると目からウロコが落ちたかのように思い浮かぶことがある。それが真実に限りなく近いものであるようにも感じるが、実際には、限りなく近いのは、目に見えている部分で、見えていない部分に気が付くのは、やはり敏夫だけしかいないのだ。

 敏夫が書いている話、そして真美が書いている話を照らし合わせてみると、一見まったく違った話に見えるが、ある一点に注目すると、面白いことが分かってくる。それは、

――誰を中心に書いているか――

 ということだ。

 敏夫の小説は、どちらかというとストレートな書き方なのだが、真美の小説は、

――誰を中心に――

 という部分は、小説の核心部分になっていて、その部分をオブラートで隠していることで、最後まで読み進まないと分からない。どうかすると、分からないまま終わってしまうことになるが、分からなかった人には、この小説の面白さは分からないだろう。

――賛否両論のある話――

 それが、真美の小説であった。

 そして、真美の小説の面白いところは、

「逆から読んでみて、意外と面白いお話になっていると思うの」

 と言われて逆さから読んでみると、

――なるほど、確かに違った発想の話に感じられる――

 と思った。

 それは、敏夫が時々感じている堂々巡りの発想に近いものがあった。

 堂々巡りを繰り返すことは、堂々巡りを抜ける時のエネルギーを感じることのできる貯えであるのを意識していると、真美の話を逆から読んで、まったく違った話に感じるのと、似た感覚を受けるのだ。

 ただ、真美の小説を逆さから読むと、その話の骨子は、敏夫の小説に似ている。その意識が、真美にあるはずなどないのに、真美に見つめられると、

――この娘は、俺のすべてを見透かしているかのように思える――

 と感じさせられるのだった。

 真美に見つめられると、それまで娘だと思っていた感情が、オンナを見ている感情に変わってしまう。真美もそのことを分かっているようで、それまで甘えていた表情が真剣な眼差しに変わる。

 真剣な眼差しは、妖艶さを含み、すでにオトナのオンナを醸し出していて、

――この娘のこんな姿を、他の誰も感じることなどできないんだろうな――

 と、真美が自分だけのものであるという感覚に陥るのだった。

 お互いにすべてを知り尽くしている感覚になるくせに、実際はお互いのことを何も知らない。その感情が、相手をより一層求めて止まない感覚を生みだし、お互いの身体を貪らずにはいられないのだろう。

 そこまで来れば、二人のその後の行動は大人の関係である。重ねた唇、肌の感触、どれを取っても、敏夫には懐かしさが感じられる。

 それも昔の感覚ではなく、ごく最近感じたことだ。

 女房と別れてから、女性と関係を結んだことはなかった敏夫だったのに、懐かしさを感じるというのは、それだけ真美との逢瀬は、夢のような時間だったのだ。

 さらに夢のような時間は繰り返されているかのようだった。

 楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、真美の身体を貪りながら、快感に身を委ねていると、その時間はあっという間に過ぎてしまうような感覚を思い出させたのだ。

 しかし、その感覚を思い出してくると、今度はまた、最初から快感を貪っているかのように思えてくる。ここでも堂々巡りを繰り返しているのだが、

――こんな堂々巡りなら、ずっと続いてほしい――

 と思う。

 男は一度快感の頂点に達してしまうと、すぐには元に戻れない。それよりも、我に返ってしまって、冷めた気分になるものなのだが、この時の堂々巡りは、快楽の頂点の寸前で、繰り返してしまうスイッチが入るのだった。

――あと少しだったのに――

 と、最初は感じたが、状況に慣れてくると、快楽を持続させることこつが分かってくる。分かってくると、敏夫は、真美の身体を蒸さることに集中できるのだ。真美も、敏夫の愛撫に身を委ね、お互いに興奮の絶頂の寸前で、我に返るのだった。

「こんな時間、私初めてよ。ずっとこのまま、あなたと一緒にいたいわ」

 と、時間の流れに従っていた。

 元々が従順な真美である。流れにも敏夫にも従順であった。快感は二人を貫き、文字通り果てることを知らない。

「パパ……」

 感極まった瞬間、今際の際で真美はつぶやく、快感にも控えめな真美は、高ぶってくる快感を爆発させることなく、自分の中で吟味しているようだ。その時の顔を見るだけで、敏夫はたまらなくなってしまう。大人げなく、快感に声を立ててしまう自分に羞恥を感じるが、自分の声に少なからず快感を覚えている真美を可愛く思えることで、羞恥を甘んじて感じるのも、悪くないと思うようになっていた。

 男と女の快楽の中で、娘を思うのはいけないことなのかも知れないが、「禁断」という言葉に、敏夫は快楽を密かに爆発させていた。自分の性癖の真の意味を思い知った気がしてきたのだ。

「お前はおかしな性癖を持っているからな」

 と、オンナと身体を重ねる時にどこからともなく響いてくる声があったが、その時には何も聞こえなかった。

 元女房を抱いている時にも響いていた声である。次第に気にはならなくなっていったが、最初の頃は、その声のせいで萎えてしまう自分に自己嫌悪を感じてしまっていたくらいだった。

「敏夫さんって、意外と度胸がないのね」

 学生時代にそんなことを言われたこともあった。最初はショックだったが、次第に気にもならなくなった。

「誰だって人に言えない部分を持っているものさ。それが性癖というだけで、別に恥かしがる必要はない。今までにずっと羞恥を感じてきたのだから、もうそろそろ自分を解放してやってもいいんじゃないか」

 と、自分に言い聞かせていたのだ。

 真美の綺麗なストレートの黒髪が、透き通るようなきめ細かな肌に触れて、綺麗に光り輝いているようだ。それが汗なのか、それとも快感によるしずくなのか判断できないが、甘い空気の中で敏夫は、これ以上ない至福の時間に身を投じることで、

――もう、どうなってもいい――

 というくらいに思えてきた。そして無意識に真美の幸せとは何かということを考え始めている自分をいじらしく思うのだった。

 真美と一緒にいると、美沙のことが完全に頭から離れている、

 今まで結婚している時でさえ、頭のどこかに美沙がいて、美沙のことを思い出さない瞬間がないと思うほどであったにも関わらず、最近まで美沙のことを少し忘れかけていた。

 忘れ始めたのは、離婚してからのことだった。

 離婚の時には、しかたがないと思いながらも、なるべく離婚しないで済むように考えていた自分が我に返った時、敏夫は美沙のことも忘れてしまったようだ。

 自分が生まれ変わったわけでもないのに、今までずっと意識を持っていたはずのことを忘れてしまうのはどういうことかと思い悩んでいた。生まれ変わりの人生を敏夫は望んでいるわけではない。確かに節目では、

「もう一度人生をやり直したい」

 と思ったこともあったが、すぐに一蹴した。

――やり直すって、どこからだよ――

 当てもないのに、勝手な妄想は、思ったことにはならないと思うようになっていた。

「それでは妄想は思ったことにならないのだろうか?」

 と聞かれれば、

「思ったことにはならないのさ。思うということは、自分の意志で感じることであって、他力ではいけないのさ。もっとも他力から自力になった場合には、思ったことにしてもいいと思うけどな」

 と答えることだろう。

 美沙のことを思い出すようになったのは、真美と出会ってからだった。

――真美は美沙に関係のある女性なのかも知れない――

 と感じたほど、ドンピシャのタイミングで美沙を思い出したのだ。

 美沙のことを思い出した時に、美沙の何を思い出したかが問題だった。

 最初に思い出したのは、楽しかった時のことではなく、まわりから引き裂かれ、それでも真美は一人でも自分についてきてくれると思っていたのに、ついてくるどころか、離れて行ったことを、裏切られたと感じた、まさにその時のことを思い出さされたのだ。

――どうして、そんなことを?

 楽しい思い出を思い出せばよかったというのだろうか?

 確かに今まで燻っていた美沙の思い出は、楽しい思い出が多かった。楽しい思い出でなければ、覚えていたくないという思いもあったからだが、なるべく最後の後味の悪い思い出を消し去ってしまいたいという気持ちがあったことから、美沙との楽しかった思い出をずっと持ち続けていなければ、後味の悪さは永遠に消えない。裏を返せば、後味の悪さが発生した時点で、真美との楽しい思い出を、ずっと引きずっていかなければいけなくなったのだ。

 だが、真美と知り合うまでは、完全に忘れていた。忘れることができたということなのかと思ったが、真美と知り合った時に思い出した後味の悪さ、それは、美沙のことを忘れてしまったことへの報復のようなものとなってしまったことに、敏夫は後悔の念を抱かずにはいられなかった。

 敏夫にとって、美沙はただの過去の女というだけではなく、自分の人生に今でも関わっていることを示していた。

 敏夫はそう思った時、ゾクッとする胸騒ぎを感じた。

 それはきっと敏夫でなければ感じることのできないものであったに違いない。

 美沙のことを忘れてしまったのは、美沙の影響が敏夫に届かなかったことを示すのではないだろうか。それなのに、真美が現れたことで、今度は、さらに倍増した思いが敏夫に襲い掛かった。それはまるで空白の時間を補って余りあるだけの勢いのもので、敏夫に対し、

「これでもか」

 と言わんばかりのものである。

 さらに、今度の美沙の気持ちには、普遍性すら感じられる。当たり前のごとく敏夫のそばにいて、絶対に離れることのないもの。そこに平行線が敷かれているが、その平行線は。限りなく交わりに近いものである。敏夫自身には、交わっているかのような感覚であろうが、美沙にとっては、絶対に超えることのできない平行線の意義を、嫌というほど思い知っている感覚である。

 そこまで考えてくると、敏夫には、嫌な予感の正体が何であるか、分かってきた。

「美沙のことを、このままずっと死ぬまで思い続けなければならない。それは真美と一緒にいる時でもそうなんだ。しかも相手が真美であれば、美沙は許してくれる。美沙はそういう女だ。たとえ禁断であったとしても、それが修羅に繋がるとしても、今までの自分の気苦労に比べれば、幾分かマシなはずだと思っているかも知れない」

 敏夫は、美沙のことをそう思い続けていた。

 問題は、真美がどこまでその思いを感じているかである。

 敏夫は真美を抱きながら、その向こうに美沙を見ていた。美沙が二人を見つめているその表情は無表情だが、嫉妬を感じているわけではない。むしろ、自分も快感を貪っているかのように見えているようだ。

 真美は、美沙のことなど知る由のないはずだが、それだけに、敏夫が自分を抱いている時に、自分の向こうに誰か他の女性を見ていることに気付いているはずだ。それなのに、真美は別に嫌な顔一つしない。嫉妬どころか、快感に貪る身体は、従順さ以外の何者でもない。

――美沙は、すでにこの世の人ではないんだ――

 それを感じた時の敏夫の表情は、何とも言えない苦虫を噛み潰したような顔になっているかも知れない。

 美沙を思い出している敏夫は、真美の中に快感を放出しようとして、すぐに堂々巡りを繰り返してしまう。これも美沙の力によるものなのかも知れないと思うと、背筋にゾッとしたものを感じるのだった……。

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