第11話 第11章

 真美は、結局敏夫を殺すことはできなかったが、敏夫を殺そうとしたことがあった。真美の中ではすでに解決済みの感覚だったのだが、敏夫の中では、解決しているわけではない。

――どうして、真美は俺を殺そうとしたのだろう?

 敏夫は真美を愛し始めていた。敏夫の性癖と、自分の気持ちが抑えられない状態に来たことで、愛しているのだと思うようになった。

 愛とは一体どういうことなのか?

 妻と離婚したことで、女に対して感じ始めた疑問を解決してくれる人がいれば、その人は愛するに値するのだと思っていたが、まだ二十歳そこそこの真美に、疑問を解決できるほどの力があるとは思えない。

 力が、すべて年齢に関係があるわけではないし、愛するというのは、ある程度の年齢を超えてからは、誰もが平等に持つことができ、若さはエネルギーとして愛情に深く関わっているのだと思っている。経験を補って余りあるエネルギーを、真美は持っているのではないかと敏夫は見ていたのだ。

 真美が敏夫を殺そうとしたことは、真美の中では、すでに過去のことになっていた。それは、敏夫を殺そうとして、殺せなかったことで、最初は自分に対しての苛立ちと自己嫌悪で鬱状態に陥った。敏夫とも距離を置いて、一人で悩んだ。鬱状態を何度となく乗り越えてきた真美は、今回も鬱状態を抜けることで、敏夫を殺そうとして殺せなかったことを、よかったとして、自分の中で解決したのだ。

 真美が鬱状態の間、敏夫が関わってこなかったことがよかったのかも知れない。ただ、それは真美にとってよかっただけで、敏夫は何が起こったのか分からないまま、愛し始めた相手が自分を殺そうとしたことのショックを、ずっと引きずっていた。何よりも訳が分からないことが、ショックを長引かせたのだ。

 真美も自分の中で訳が分からないと思っていたのだが、相手を気にしなければ、自分の中で解決できる術を持っていたのだ。鬱状態に陥ったり、まわりとの接点を完全になくしてしまって自分の世界に入り込むことで解決できるのだが、当事者である敏夫は置き去りにされた格好だった。

 勝手に殺されかけて、勝手に解決されたのでは、敏夫とすればたまったものではない。どうして自分を殺そうとしたのか分からないことでは、これから先、真美とどう接して行っていいのか分からない。

 そもそも、このまま真美と一緒にいていいのだろうか?

 自分を殺そうとした危険な相手をさらにこれから愛していけるなど、ありえるだろうか?

 敏夫は、真美が自分に対して恋愛感情を抱いてくれているということは、最初から感じていた。その中に父親のイメージが湧いてきているのも分かっていた。自分には子供がいないので、

――もしいたら、この娘のようだ――

 と思っていた。

 恋愛感情と、親子の愛情、どちらも同居できるものなのか、相手が真美だからできるというのだろうか? 敏夫は自分の中に潜んでいるもう一人の自分なら、真美に問いかけることができる気がしていた。

 真美が苦しんでいるのを敏夫は声も掛けられずに見ていた。付き合い始めから、躁鬱症の気があることは何となく分かっていたが、鬱状態に陥った真美を初めて見たが、近寄れる雰囲気ではなかった。

 ただ、近寄ることはできないが、見守ってあげることはできたはずなのに、まさか自分を殺そうとするなんて、何がどうなったというのだろう。

 真美のその時の形相は凄まじかった。引きつった表情からは、涙が溢れていて、明らかに泣いている。敏夫は真美の顔をまともに見ることができなかった。

――あの時、しっかりと向き合ってあげていれば、真美は俺を殺そうとするのをもっと早く思いとどまったかも知れない――

 そう思うと、敏夫自身も、ここまで真美を恐ろしいと思わなかったに違いない。

 あれだけ恐ろしいと思っていた真美なのに、真美の鬱状態が抜けると、今までのように真美への愛情が戻ってきたような気がしてくるのは、自分でも不思議だった。それでもショックを払拭することはできず、真美から見ると、近寄りがたい雰囲気になっているに違いない。

 気まずい雰囲気を最初に打破したのは真美だった。男と女の違いからなのか、若さによる違いなのか、それとも、元々の二人の性格の違いなのか、それぞれが入り食ってしまった環境に、敏夫が順応できなかったのかも知れない。順応できないという意味で、敏夫が堂々巡りを繰り返していることを、真美には分かっていた。

 敏夫は、自分のショックがなかなか抜けないのは、真美から殺されかけたことだけが気になっているからだと思っていたが、実はそうではない。途中で真美は敏夫を殺すことをやめた。それは、殺人ということに対しての罪悪感や、我に返ったことでの呵責からだと思っていたが、そうではないのだ。

 本当は真美は殺したくて仕方がないのを抑えているだけだったのだ。そこには罪悪感も我に返った感覚もない。敏夫には分かりかねる感覚だった。

――彼女には、本当に人間の血が通っているのな?

 と思うほどで、真美の中での葛藤が、何によるものなのか分からないところがショックだったのだ。

 そのくせ、敏夫は真美を諦めきれない。ここまでされていても、好きな気持ちに変わりはないという自分の本心を分かりかねているところにも、自分に対してのショックがあるのだった。

 最初に真美と会った時に感じた、

――初めて会ったような気がしない――

 という思いを、今さらのように思い出していた。

 その思いが、今またよみがえってきたのだ。諦めきれないという思いの元はそこにあり、真美がどうして苦しんでいるのか、分かったような気がした。

 敏夫にも、子供の頃の記憶の中に、

――可愛さ余って憎さ百倍――

 という思いが強く根付いていたのを思い出した。

 ガキ大将というところまでは行かないが、ワンパク坊主だったことは認めよう。そんな敏夫にも好きな女の子がいた。

 彼女は、いつも引っ込み思案で、自分を表に出そうとしなかった。そんな女の子を好きになったのだが、その時はまだ異性に対しての気持ちにはなっていなかった。

 実際に異性に対して意識し始めるのは中学に入ってからなので、かなり後である。本人に意識のないまま気になる女の子と一緒にいるだけで楽しいという気持ちになっていたのは、いわゆる初恋だったからだ。

「初恋は淡く切ない思い出」

 という人がいるが、敏夫にとっては、少し違った感覚だった。

 そばにいるだけで、くすぐったくなるような感覚というのが一番近い表現になるのかも知れない。

 好きだという感覚よりも、その女の子に対しては、自分が絶対優位でありたいという気持ちの方が強い。優位な相手に憧れのようなものを、女の子は持つものだという思い込みが、小学生時代の敏夫にはあったのだ。

――自分が相手を従わせたいという気持ち、そして、相手の女の子が絶対服従に何ら疑問を抱かない関係――

 敏夫は小学生の時に、すでに味わっていた。

 敏夫にとっての初恋が、まさにそれであったとすれば、淡く切ない思い出などではなく、自分の性癖に結びつく、

――性格の原点――

 と言えるのではないだろうか。

 そんな性癖が幼い相手であったり、従順な相手を自分の好みと思い込む。性癖が持って生まれたものだけでなく、初恋のように成長過程において結びつくものであることを、無意識に敏夫が知っていたのは、自分が経験者だったからだ。

 敏夫は最初、真美を見た時、一目で気になってしまった。まるで娘のようだという感覚だけではなく、自分の中にくすぐったい思いがよぎったからだ。その思いは今に始まったことではなく、以前からあったものだった。自分の短所とも言える性癖のせいだと思っていたが、それだけではなく、初恋のイメージを彷彿させるものだったのだ。

 さらに付き合っていくうちに、真美が男性に従順であることを知ると、

――もう、これは運命のようなものだ――

 と感じずにはいられなかった。

 ただ、そこに思いが嵩じて、まさか好きな人を殺したくなる性格であるとは思いもしなかったのだが、真美本人は、その思いを克服できたのに、殺されかけた敏夫の方が、大きなショックを残してしまい、真美といかに付き合っていけばいいのか、そして、これからの自分はどうすればいいのかというところまで、考えなければいけない気がして仕方がなかったのだ。

 真美は、今自分のまわりの人間を信じられなくなっていた。育ての親には感謝こそすれ、何ら恨みなどないはずなのに、どこか信用できないところがあった。

 やはり、小さい頃に子供の気持ちとして、

「真美の本当のお父さんと、お母さんは?」

 と、聞いても、決して教えてくれなかったことに不信感を抱いていた。子供の真美に対して、自分たちが本当の親ではなく、育ての親であることを、ある程度早い段階から教えられていたのに、それ以上のことは教えてくれない。

 今から思えば、その時の真美にとって、その状況が一番よかったのだと理解できるが、子供ではいかんせん理解などできる問題ではなかった。何を言ってもどこかに疑念が残り、絶対に話してもらえないことは多々あったはずだ。そういう意味ではその時の育ての親の態度は、一番話してもらえないことが少ない状態だったに違いない。

 話してもらえた中でも、今でも疑念に思っていることがある。それは、後から現れた実の母親だと名乗る女性のことだった。

 真美が中学生になってから、一人の女性が真美の実の母親だと言って名乗りを上げた。育ての親といろいろな話をしていたようだが、真美はそれを、真美のことを考えて、どうすれば一番まわりがうまくいくかという善後策を協議していたのだと思っていたが、本当にそうだったのだろうか?

 今から思えば、実の母親と名乗る女性の態度は不自然なところが多い。確かに育ての親に任せきりで、いきなり現れて、

「私があなたの実の母親です」

 と、言われても、

「はい、そうですか」

 と、簡単に承諾できるものであろうか。

 そして、長年一緒に暮らしていなかった実の母親との初めて一緒に暮らすという事実。十年間も放っておかれたと感じるかも知れない娘に、どのように接していいか分からないというのも無理のないことかも知れない。

 それを差し引いても、実の母親と名乗る人の態度は変だった。

 それでも、女性として見ると、本当に優しい人だ。少なうとも、真美とまったく関係のない人だと言うわけでもなさそうだ。

――せっかく一緒にいてくれるのだから、騙されてみるのも悪いことではない――

 と、真美は感じていた。

 騙されるという表現は人聞きが悪いが、生みの親だと思ってあげるのは悪いことではないと思っていた。疑念を残しながら付き合っていけば、それなりに家族になれるかも知れないという思いが真美の中にあり、実際に家族同然に暮らしてきて、違和感はあまり感じていなかったのだ。

 そんな真美を、まるで娘のように思ってくれる敏夫を好きになったとしても、おかしなことではない。生みの母親と名乗る女性を、それほど違和感なく受け入れた真美なので、敏夫の気持ちはさらに受け入れやすかった。ただ、その中に父親としての思いとは別に、男性として好きになってきていることに気付くと、恥かしい思いを感じる真美だった。

 父親を知らない真美なので、父親のイメージを持った男性に、男を感じても別に不思議ではない。ずっと父親と一緒に暮らしていた人であれば、父親と好きになる男性とを切り離して考えるのは当然であろう。しかし、真美にはそんなことはありえない。父親と好きになった男性を平行線で考えることはできなかった。逆に一緒であってくれれば、両方ほしいものを手に入れられることで、嬉しいと感じるのだった。

 敏夫が真美にとって、その理想に一番近い男性であった。知り合えたことを運命のように思う真美にとって、敏夫も同じ気持ちであった。

 敏夫にも元女房との間に子供はいなかった。当然娘を知らない。娘のような感覚で、好きな女性を想像できれば、こんなに嬉しいことはないと思っていた。そういう意味では真美と敏夫は、お互いに理想の相手に巡り合えた「相思相愛の仲」と言えるのではないだろうか。

 真美と敏夫の関係は、密かな関係だった。お互いに別に誰に憚る必要もないと思っていたのだが、どこかまわりに対してはよそよそしい。ただ、そんな関係を嫌だとは二人とも思っていなかった。

「スリルがあって、結構楽しいものね」

 と、真美が言っていたが、敏夫もニッコリと笑って頷いた。

 真美のようにスリルという気持ちにはなれないが、敏夫にとっては、今までに感じたことのないほどの新鮮な気持ちを味わっていた。ある意味では、敏夫にとって新鮮な気持ちはスリルの裏返しであり、真美にとってスリルは、新鮮な気持ちの裏返しなのかも知れない。ひょっとすると、一歩間違うと二人の考え方はそこで一致してしまうかも知れない。敏夫はもしそこで一致してしまったら、その瞬間に、自分は真美への今の気持ちを一瞬にして失ってしまうような恐怖を感じていたのだ。

 真美も口には出さないが、似たような思いを抱いているのかも知れない。時々、急に考え込んだりすることもあるが、それは真美にとって、敏夫との別の世界を開いてしまう扉のように思えてならない。その扉を開くと、そのまま二度と同じ場所には戻ってこれず、敏夫と一緒にいる限り、抜けることのできない堂々巡りを泥沼の中で繰り返し続けるしかないと思うのだった。

 そういう意味で、二人は必ず平行線を描いていなければならない。重なり合うところを作ってしまうと、それが亀裂となりかねないと思っていた。だが、それを二人は肉体的なことと切り離して考えていた。スキンシップは、考え方の一致とは別物だと思っているに違いない。

 実際に二人は、お互いに求め合っていることを意識していた。

――男と女の関係――

 それを求めている。

 ただ、どちらからかアクションを起こさないと、始まらない。二人同時に相手を求めるということは、この二人の間では考えられないことだったからだ。

 年齢差というだけでも二人の間には壁のようなものがある。だが、それ以外のことを考えようとすると、年齢差ということを、どうでもいいと思えるほどの壁が立ちはだかっていることに気付かされる。漠然としているので、言葉にするのは難しいが、二人はお互いにそのことは感じている。

 しかし、感じていることはお互いで微妙に違っていた。その理由は、やはり男と女の違いにあるだろう。この場合でも年齢差は関係ない。関係あるとすれば、どちらかが、年齢差を意識してしまった時に起こることである。

 それはまるで浦島太郎のお話のようではないか。短い時間をあっという間に過ごしたように感じていると、本当の世界では、数十年も経過していた。おとぎ話というのは、精神的にちょっとしたことを疑問に感じた時などに読むと、最初に感じた思いよりも数倍も感動するに違いない。それは最初に気付かなかったことをより多く感じることができるからである。

 敏夫と真美にとって、人に言えない関係を大っぴらにしたいと思っても、結局密かな恋になってしまうのは、浦島太郎の話を思い出す時の感覚になってしまっているからなのかも知れない。

 自分たちだけの世界の中ではどんなに短い時間でも、まわりはマッハのごとく過ぎ去っている。結局最後は二人きりで、一気に年を取ってしまうか、そのまま誰も知らない世界で徐々に年を重ねていくしかない。

 どちらがいいのかなど、決められるわけはない。

 ただ、二人の中でどっちがいいのかということを考えていると、きっと二人は意見が違っているに違いない。微妙な意見の相違が二人の関係の原点でもあるのだ。

 年齢的な違いなのか、それとも、二人が生きている時代が違うのか、その考えがこの物語の根幹にあるのだということを感じていただきたい……。

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