第10話 第10章
真美にとって正反対の性格、それは好きになった相手に対してだけのことだった。
従順な性格は、好きになった人に限らず、誰にでも起こりうることであったが、もう一つの性格は、誰にも知られてはいけない、それこそ「禁断の性格」だったのだ。
真美は彼以外の男性を、基本的に男性として見ていない。
――女性ではないが、男性としても見ることができない存在――
それは好きになった男性を、男性として見るようになったからであって、今から誰かを好きになる前に男性に対してどんな感情を持っていたかということを思い出すことは困難だった。
ただ、もしもっと前に誰かを好きになるとするなら、その人が自分の父親だったのではないかという思いが頭を過ぎったことはある。
――ないものねだり――
と言えばそれまでだが、父親が自分にいたという感覚が残っていないのは、小さい頃から父親がいなかったからで、母親に訊ねても、
「お父さんはいないの」
と言われるだけで、それ以上のことは言わなかった。
成長してみると分かってきたのは、
――きっと離婚したんだ――
という思いだった。嫌いだったのかどうかは分からないが、思い出したくないというのは間違いない。もし、死別だとすれば、そんな邪険な言い方はしないだろう。
だが、それも今度は彼ができてから、少し変わってきた。
――まさかとは思うけど、本当に死別なのかも知れないわ――
それは、自分のもう一つの性格に気が付いたからで、その性格こそが、自分の中にある「怯え」を克服しようとした気持ちの表れなのかも知れない。
真美が父親のことを気にしてはいけないと思ったのは、母親の頑ななまでの父に対しての冷たい言葉から、
――きっと自分に対しても、悪いことをしたのだろう――
という思いがあったからだ。その思いがあったからこそ、今まで父親のことを忘れようとしていたのだし、怯えの正体がそこに隠されているのかも知れないとさえ思うようになっていた。
その思いと同様に、
――人を好きになってはいけない――
という思いがあったのも事実だ。それは恋愛感情という意味だけではなく、父親のようなイメージの人が現れたとしても、好きになってはいけないという禁断の感情、そして母親に対しても、好きになってはいけないという気持ちは、自分の中に保守的なものがあることを感じたからであろう。
何を守りたいという感情があるわけではない。失いたくないものなど何もないのだから、守りたいものもあるわけではない。暖かい家庭、好きな人、そんなものは真美には無縁だったのだ。
ただ、それは敏夫が現れるまでのことだった。
敏夫と知り合って、初めて暖かな感情が湧いてくるのを感じた。それなのに、敏夫に対してだけ、他の人に対して感じた従順な気持ちとは違う何かがあった。それが甘えであることに気が付いた時、真美にとって、敏夫に対して父親の感情を初めて持たせた男性であることを感じさせた。
甘え下手なくせに、敏夫に対しては、甘えることができるような気がしたのだ。怯えがないと言えばウソになるが、初めて甘えることができるような男性が現れたことに、正直戸惑いを感じていた。
学生時代に付き合っていた彼とは、すぐに別れることになった。今から思えば当然のことであり、真美が彼に恋愛感情を抱いたことがないのだから、さすがに相手もそのことを悟ると、すぐに嫌気が差したのだろう。男の人に見返りなしを期待するのは無理なことだということに、その時初めて気が付いた。
男性に対しての気持ちも一気に冷めてしまった。
――好きになるに値しない人ばかりが、自分のまわりにいるんだ――
と思ったが、それは真美の考え方ひとつで、そう思っている以上、どこに行っても、好きになるに値する男性など、いるわけはないのだった。
男性を好きになるということが、真美の中で形式的なことになり始めた。形式的なことになってしまえば、よほどのことがない限り、男性を好きにならないだろう。もしなったとすれば、その人は、本当に真美が必要としている男性に違いないのだった。
真美は、学生時代に付き合っていた彼氏にも少し感じていたことだが、その時には、
――そんなバカなことがあるわけはない――
と否定していた。
しかし、敏夫と知り合ってから、またしても、その時に感じた思いが沸々とよみがえってきたのだ。さらに、今回敏夫に感じた思いは、学生時代の彼に感じた時よりも大きなものだった。もう、否定することなど、できそうにもない。
――可愛さ余って、憎さ百倍――
という言葉があるが、まさにそんな感情である。
好きになった人に対して、好きだという感情の他に別の感情が湧き上がってきた。感じてしまったら最後、否定することはできなくなる。どんどんその思いは強くなり、否定してしまうことは、自分を否定してしまわないとも限らないことだったからだ。
――私は、好きになった人に対して、殺してしまいたい――
という感情に苛まれていた。
殺してしまいたいというのは、当然尋常ではないことであり、どうしてそんな感情になるのかと、いろいろ考えたが、行きつく先は一つしかない。
――その人を独占したい。私だけのものにしておきたい――
という感情である。
もし、付き合っている人に浮気でもされたのなら、そんな感情が浮かんできても不思議ではないだろうが、浮気をされるどころか、まだこれから付き合おうという相手に対してである。片想いかも知れないのにである。
確かに殺してしまえば、絶対的に独占できるであろう。絶対的な独占のために殺してしまいたいという発想は、危険極まりない。分かっていることのはずなのに、一体どうしてしまったというのだろう?
――捨てられたくない――
という気持ちの裏返しなのだろうか? 先手必勝、まさにそんな考えである。
だが、真美の性格から、そこまで危険なことをしてまで守りたいものがあるというのだろうか? それに、殺してしまいたいという感情は、元々あったものというよりも、湧いて出たような感覚である。衝動的な感情に近いもので、何よりも一番戸惑っているのは、真美本人である。
実際に夢の中で、人を殺したことがあった。起きた時、ぐっしょり汗を掻いているかと思いきや、完全に目を覚ましていたにも関わらず、まだ夢の中を彷徨っている感じだった。
――人を殺すって、こんなにアッサリした気持ちになるのかしら?
と感じたほど、意識は平然としていたのだ。
――夢でよかった――
という思いがあったわけでもない。夢を見ていたことすら、幻のようだった。
テレビドラマで、人が殺されるシーンもさほど緊迫した気持ちになっていない。他の人がどんな気持ちでドラマを見ているのか分からないが、きっと、
――ドラマだから――
としか思っていないのだろう。
真美はその感覚とも少し違った。確かにドラマだと思って見てはいるが、それ以前に、――人の死を目の当たりにすることなんて、私にはないんだ――
と、完全に他人事にしか思えなかった。
他人事であればあるほど、殺したいという発想とは縁遠いはずなのに、どうして好きな人にだけ、そんなおかしな感情を抱いてしまうのだろうか? 二重人格を意識していないことで生じる副作用のようなものなのかも知れないと、真美は感じたのだ。
人を殺したくなる感覚というのを考えながらドラマを見ていると、今度は実際に死体が発見された場面よりも、解決編での殺した人の表情を見たくないという思いが強くなる。
――まるで自分を見ているようだ――
その人に感情移入してしまうからだろう。ただ、それは学生の頃のことで、敏夫と知り合ってからは変わってきた。
ドラマの同じシーンを見ていて、
――何か白々しさを感じる――
感情移入をする前に白々しさを感じるのか、それとも感情移入をした後で白々しさを感じるのか、それぞれによっても違ってくるのだろうが、やはり年齢を重ねるごとに、自分の中で、冷めた気持ちが膨れ上がってきているのかも知れない。
――好きになった相手への気持ちに反比例して、自分の気持ちが冷めてきているのかも知れない――
と感じるようになった。敏夫に対しての気持ちが強ければ強いほど、殺したいという気持ちも強くなり、自分がこんな気持ちでいることをまわりの誰にも知られたくないくせに、何も知らずに、平気な顔をしているまわりに対して苛立ちを感じている。実に虫のいい話である。
友達の中に、
「私は人を殺したいと思ったことあったのよ」
と、打ち明けてくれた人もいた。
「あなたにだけよ。あなたを見ていると黙っていられないの」
と言っていた。
最初はその気持ちが本心だったのだろうが、後になってから、彼女が自分以外の人にも話をしているのを聞いて、ショックを受けた。だが、実際には話した相手は真美が最初であり、他の人に話した時には、すでに精神的に病んでいたようで、神経内科に通うようになっていたようだ。
どうして人を殺したいと思ったのか分からなかったが、どうやら、家族関係の歪みが大きかったようだ。真美も父親がいないことで、彼女の気持ちを分からなくもない。彼女も父親のいない真美なら、気持ちを分かってくれると思ったのだろう。その気持ちが分かるまで、真美は少し自分の考えを変える必要があったようだ。
話を聞いていると、人を憎む気持ちと、殺したいという気持ちが違っていることに気が付いた。
「殺したいほど、憎らしい」
とはいうが、
「憎らしいほど、殺したい」
というわけではない。いくら憎らしいとはいえ、殺したいとまで思うわけではないからだ。
確かに殺したいという気持ちになるのは、憎らしいからに決まっているのだろうが、話を聞いているうちに、憎らしいから殺したいという気持ちになっているわけではない。むしろ、相手のことを好きだから殺したいという気持ちになるのだという。
「どうして、憎くもない相手を殺したいの?」
「最初は独占したいからだと思っていたんだけど、そうじゃないの。殺したからと言って独占できるとは思っていないの。確かに最初は、独占したいからだと思っていたわ。でもそれが違うと分かった時、私がどうしてその人を殺したいか、分かった気がしたの」
「どういうことなの?」
「それは、自分の中に従順な自分がいるからなのよ。誰に対しても従順なのに、彼に対しては特別だと思っている。でも、結局は従順のレベルが違うわけではないのよね。だから、そんな自分が嫌になった。その時、彼を殺したいと思ってしまったのかも知れないわ」
その時は、友達の言葉の意味が分からなかった。でも、今は分かる気がする。従順だということには気付いていたけれど、彼に対してのものと、他の人に対しての従順な気持ちが同じであるなど、想像もつかなかった。もし、その話を聞いていなければ、
――彼を殺してしまいたい――
という気持ちにはならなかったかも知れない。
もし、なっていたとしても、理由を知るすべもなかっただろう。それほど発想は突飛なものなのだ。
――私がこんな想像をしているなど、敏夫さんは気付いているはずはない――
と真美は思っていた。
きっと従順な女の子に好かれて、気分は有頂天になっているに違いないと思っていることだろう。
さすがに本当に殺すことはできないにしても、この気持ちは何だろう? このまま中途半端な気持ちでいると、自分が苦しいだけだった。
――それならば、夢の中で殺すくらいの気持ちになれば、少しは気が楽になるかも知れない――
と思ってみたが、どうしても、殺せない自分がいる。
――何か、あの人は特別なんだわ――
殺したいと思ったのも特別。けれども、どうしても殺せないと思ったのも特別。それぞれの特別は同じ意味での特別なのか、それとも違っているのかを考えてみたが、おもいつくところは、最終的に同じ場所だとしか思えなかった。
真美は、敏夫に対して恋愛感情が強いと思っていたが、実際には父親を慕うような気持ちになっていることに、その時気が付いた。
――お父さんなんて、いらないんだ――
という気持ちは、反動として自分が好きになる人は、年上が多く、どうしても父親を感じさせる男性であることは分かっていても、それが父親に対しての気持ちだとは思わなかった。
――あの人の私を見る目、あれは娘を見る目だわ――
そんな目に、初めて出会ったような気がする。甘え下手の真美が、敏夫にだけは甘えられるような気がしていた。好きだという感情も男性として好きだというよりも、父親として慕いたい気持ちが強い。余計に殺したいと思ったのは、自分を一人ぼっちだという気持ちにさせた父親に対しての思いがあったからに違いない。もちろん、そんなことを他の人に言えるはずもない。母親に対しては言えない。
真美の場合、複雑な家庭環境である。育ててくれた親は、今の母親ではない。今の母親は生みの親なのだと思っている。生まれた時は育てられる精神状態ではなかったということで、養子に出されたが、真美が小学生の頃に、母親に戻されたと聞いた。その時に少しひと悶着あったようだが、子供の真美に分かるはずはない。ただ、金銭的なことだということなので、生々しい修羅場があったのかも知れない。
子供心に、理不尽さを感じていたのだろう。それまで親だと思っていた人が嫌になり、まったく知らない人を親だと思わなければいけない環境に追いやられたこと、殺したいと思うのも無理もないことだ。
――好きな人を殺したい――
と思うようになったのは、きっとその影響が強いからなのだろう。
母親を可愛そうだとは思わない。どんな理由があるにせよ。自分のそばにいてくれなかったことは、許せないに値すると思っていた。
――本当はお母さんも殺してやりたいと思うはずなのに、どうして、お母さんには殺したいという気持ちが湧かないのかしら?
本当に好きな人ではないからなのかも知れない。そう思うことから、真美が殺したいと思う相手は、自分が好きになった相手だけなのだと思うようになった。実際に本当に好きになった相手しか殺したいとは思わない。
――私は一体、どうなってしまったんだろう?
と、最初はキチンとした道を歩いていたはずなのに、どこかで道を間違えて、足を踏み外したような感覚になってしまった。きっとその分岐点がどこかにあるはずである。
――人は、人生の中で何度か分岐点にぶち当たるというが、皆同じ数だけの分岐点が存在しているのだろうか?
真美はそうは思わない。少なくとも自分の分岐点は人よりも多いと思っている。
――不幸の数だけ分岐点があるんだ――
そう思うと、圧倒的に人よりも多い気がした。
だが、逆も感じている。感覚がマヒしていることで、意外と少ないのかも知れないと思う。気付かないだけで、本当は多いという考えもできるだろう。
真美は、最近、
――自分の父親は、もうこの世にいないのではないか?
と思うようになった。
理由は、以前のように誰かを殺したいという意識が薄れていく気がしているからだった。ただ、感覚に慣れてきただけなのかも知れないとも感じていたが、感覚に慣れただけなら、薄れてきた意識の中で、突然、殺したいという気持ちが沸騰しかけることがあるような気がしたからだ。殺したい気持ちが薄れてくる一方なのは、本当にターゲットにしたいと思っている人が、すでにこの世にいないことを、虫の知らせのようなもので感じているのではないかと思うからだった。
真美は、母親にそのことを確かめようとは思わない。知らないような気がするし、知っていたとしても、教えてくれないような気がするからだ。母親は、真美と父親を完全に切り離して考えているようで、同じ舞台の上に乗せることを極端に嫌っているようだ。
――生きる世界が違うとでも思っているのかしら?
父親も娘も両方知っている人は母親だけだ。育ての親も母親や真美は知っているとしても、父親のことは知る由もないだろう。真美が育ての親の立場なら、絶対に知りたいとは思わない。ただでさえ娘のことだけで気苦労するのに、他のことまで抱え込みたくないと思うからだ。
真美は父親がこの世にいないかも知れないという意識を半分は信じていたが、半分は疑っていた。
なぜなら、敏夫が本当の父親であってほしいという風に思い始めたからだ。今までの真美なら、
「本当のお父さんなんていらない。好きな人がいればいい。そしてその人がこれからの私のお父さんになってくれればそれでいいのよ」
と自分に言い聞かせていた。
その思いは自分から逃げていることにならないだろうかという思いが頭に浮かんだからなのだが、逃げているというよりも、本当の父親を知らずにこのまま生きていく自分を客観的に見ると、可哀そうに感じたのだった。
――本当に可哀そうなのは、一体誰なのかしら?
と、自分を客観的に見ていると、自分だけが本当に可哀そうなだけなのか、疑問に感じてくる真美だった。
真美にとってのもう一つの事実、母親に対しての事実は、次の章で、敏夫が明らかにするのだが、そんなことを知る由もない真美だった……。
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