第9話 第9章
真美は、敏夫と知り合う前に感じていた自分の気にしている部分を、敏夫と知り合ってから忘れてしまったわけではないが、意識から外れていたことがあった。もし意識に戻すことがあるとすれば、それは敏夫に対して感じた第一印象から、少しイメージが変わった時になるのかも知れない。どのように変わるのか想像はつきそうな気がしたが、本当に変わってしまった自分を想像することはできない。あくまでも変わったらどうなるかを漠然と感じるだけでその先が見えないのは、それが自分のことであるからだと思っているからに違いない。
真美は敏夫と知り合う前、男性と付き合うなど、もっての他だと思っていた。それがたとえ、恋愛対象から大きく外れるような、例えば父親のような存在の男性に対しても同じ気持ちである。
小学生の頃から高校生になるまでは、実に暗い女の子だった。普通一人でいるような娘は共通した暗さを持っているものだが、真美の場合は、そんな暗さではなかった。人と違った暗さを秘めていて、真美自身自分で分かっていることだった。
別に人と比較したこともないので、自分が人と違っているという意識があるわけではないが、それならそれでいいと思っている。
大人の物差しで、
「変わっている娘だと言われるのは嫌でしょう?」
と、小学生の頃の先生からよく言われていた。その先生はまだ大学を出たての新任の先生だったので、親に言われているような感覚ではなかったが、子供心に、
――おばさんの考え方だわ――
と思ったものだ。
人と共通していないといけないなどというのは、ナンセンスな考え方だ。それでは個性などと言うものは育たないではないか。
中学に入ると、さらに集団生活を強要される。押し付けられているようで、さらに嫌になったのだが、元々人との共通が嫌だという考え方は、この押しつけという考えに行きつくことになる。
「他の人は明るくしようとして明るくなれるのかしら?」
人と比較することはあまりしたくはなかった真美だったが、自分が明るくしようとしても無理な性格であることを思うと、まわりが自然と気になってきた。
真美のまわりには、自然と暗い女の子が集まってくる。会話があるわけではないが、集まってくる女の子も真美と同じで、自分から明るくしようとしても無理な性格であることは伺い知ることができた。
話を自分からしようとしないからそう思ったわけではない。真美は自分の目を見て集まってくる女の子たちを見て、
――この子たちが明るくしている姿は思い浮かばないわ――
と感じた。
明るく振る舞うにはエネルギーを必要とする。それは発散するエネルギーでなければならず、そのエネルギーを感じることができないのだ。そして、逆に自分から明るくしようとすることができない人にもエネルギーが存在する。それは内に籠ろうとするエネルギーで、明るい人とは正反対のものだった。
そこまで分かっているのに、どうしてまわりの女の子たちが、明るくしようとして明るくなれないのかということが分からないのだろう。それは、真美には発散されるエネルギーを感じることができないからだ。
つまりは、距離が離れすぎているということだ。
真美に寄ってくる女の子たちとの距離は実に近いもので、至近距離であるから、エネルギーの発散がなければ、明るく振る舞うことができない人なのだと感じるのだ。しかも、彼女たちの内に籠ろうとするエネルギーも感じることができる。どれほどの深さの内懐を持っているかということも、真美には見ただけで分かるのだった。
本当は、そんな集団を作りたいと思っているわけではない。それなのに勝手に自分に皆近づいてくるのだ。中学、高校の途中くらいまでは、寄ってくる者を拒むことはしなかったが、高校の途中くらいから、少しずつ遠ざけようとしている自分がいた。
なぜ遠ざけようとしたかというと、真美は、一つのことに集中したり、意識を一点に集中させようとすると、まわりが見えなくなる。真美だけに限ったことではないのだろうが、真美のまわりが女性だけだったことで、集中させる意識を感じなかったのだ。
だが、高校二年生になって真美は好きな男の子ができた。彼も真美のことを意識しているようで、正確には、彼の方の視線を意識して、初めて真美の中に羞恥の気持ちが芽生えた。羞恥の気持ちは、自分が暗い性格であることを棚に上げ、まわりの暗い女の子たちをあまり見せたくないという身勝手な考えを生んだ。その考えが、初めての恋、つまり初恋であるということに気が付いたのはしばらくしてからのことだった。
まわりがどう思っているかは、この際どうでもよかった。すでに真美の視線は彼の方にしか行っていない。真美は彼のことを考えるだけで羞恥に身を震わせ、
――他の女の子たちも恋をしたら、こんな風になるのかな?
と感じていた。
この時は、他の人と違っていなければならないという考えは薄れていた。別にまわりはどうでもいいという考えの方が強かったのだ。
考えてみれば、それだけまわりを意識していたということなのであろう。人と一緒では嫌だというのはわがままでありながら、結局は意識していたということで、気持ちに「遊びの部分」はなく、張りつめた糸の中で一人、
――そのうちに切れてしまったらどうしよう――
という不安に駆られていたに違いない。
真美が好きになった男の子は、誰が見ても好青年で、きっと真美以外にも好きになった女の子はたくさんいるだろう。こんな時、まわりと遮断してしまっている自分の性格が恨めしく感じられるというのは皮肉なことで、まわりから、全体を見渡すように、彼を中心にして見るか、それとも、彼だけを集中して見つめ、彼の視線になったつもりでまわりを見るかのどちらかだろうと思った。
後者は、あまりにも高度であり、真美にそんなことができるはずもなく、できるとすれば前者であった。それでも今までまわりを意識したことがないくせに、まわりに寄ってくる人を鬱陶しいとも思わず、なるべく意識しないように見ていたつもりなのに、結局、まわりを自ら遠ざけるようにするか、自分から遠ざかるしかないと思った。真美が選んだのは、自分から遠ざかることだった。
ただ、一見簡単そうに見えるが、こちらの方が難しかった。それはまわりから遠ざかることを、まわりになるべく悟られないようにしなければ意味がないということである。それだけ自分の気配を消すことが必要だし、やってみて初めて分かったというのも皮肉なことだった。
真美は、それができる女の子だった。いや、真美にとって、唯一できることであり、そして、真美にしかできないことでもあった。真美はまわりを遠ざけることで、初めて彼を意識することができるようになったのだ。
「付き合ってください」
まわりに人の意識を感じなくなると、自分でも信じられないような言葉を吐くことができた。
彼は真美の視線にまったく気が付いていなかったらしく、相当驚いていたが、すぐに快く交際を承知してくれた。ただ、彼が自分の視線に気付いていなかったというのは、本当にそうなのかということをずっと考えていた。
――照れ隠しにそう言っているだけのことよ――
と自分に言い聞かせていたが、彼の心の中を覗くことはできなかった。彼の気持ちを垣間見ることはそう簡単なことではなく、彼もまた、自分の気持ちを内に籠める性格の男性だったようだ。
男性の中にも内に籠める性格の人はいるとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。元々彼を意識したのは、彼が真美を見つめる視線に気付いたからだ。まったく真美の視線に気付かないなど、ありえることではなかったのだ。
真美にとって、彼の存在は次第に大きくなってくる。ここまでくれば、まわりを遠ざけようとしなくても、まわりの方が去っていくのではないかと思えるほどのオーラを自分で放っていることを感じることができた。
――一体私はどうなってしまったのだろう?
男性をそばに感じると、まるで包み込まれるような感覚になると聞いたことがあったが、そんな気持ちにはならなかった。逆に自分が相手を包み込んでいるかのようで、不思議な気持ちだった。だが、その気持ちよさに酔いしれてしまっている自分にも気付いていたのだ。
――満たされている感じがするわ。これが癒しというのかしら?
と、真美は感じた。
だが、それと同時に真美は今と同じ感覚をずっと昔に感じた。それは全身で感じた感覚だった。
暖かい液体にくるまれて、暖かさの中で身を委ねていると、プカプカと水面に浮いてきたかと思いと、また沈んでいく。絶えず何かに包まれていて、狭い空間いっぱいに広がっているのを感じるが、それ以上狭くても困るが、それ以上広いその場所を想像することができない。
すなわち、この場所の大きさは、決まっているということだった。
そして、その感覚はそれ以上時間が経って感じることのできないものであり、いずれ表に出ることが約束されている。もっと言えば、表に出るためのエネルギーを蓄える場所であって、表に出たら、二度と思い出すことのできないところであることを、飛び出す前に感じる。
――嫌だ、もっといたい――
心の中で叫んで、抵抗を試みる。だが、抵抗虚しく表に出てくると、すっかり中のことは忘れてしまっているのだ。
実に近い距離でありながら、覚えていることすら許されない。それだけ世界がまったく違うものなのだ。
――母体と表の世界――
それは、夢と現実の世界の違いのようではないか。
真美はそれを異次元の世界のように思っている。母体と表の世界も、実は異次元のトンネルのようなものが存在しているのかも知れない。
「へその緒」
真美は時々口走って、
「えっ、何だい、それ?」
と、彼から言われて、ドキッとしてしまうことがあった。どうやら、今までにも時々口にしていたようだが、まわりに人がいなかったり、人がいてもまわりからの感情を受け付けようとしない人たちばかりなので、無意識に口走ったことを意識することはない。彼と付き合うことは、初めて人間らしい生活を送ることができるようになったという位置づけを自分の中に植え付けていた。
真美は、彼の前では従順だった。
なるべく、他の女の子と変わりがないという意識を彼に植え付ける必要があった。それは今まで培ってきた自分の考えを覆すもので、容易に貫徹できるものではない。それを分かっていて敢えて付き合おうというのだから、彼と一緒にいることで初めて感じたこと、そして学んだことが多いのを示していた。
真美は、彼とのことを、もっとまわりにアピールしたいと思った。彼の方は、
「そんなことはどっちでもいいんだ」
と言っていたが、どうやら、その頃から、真美に対して冷めかけていたことに、真美は気付くはずもなかった。
今までで一番無防備で、まわりのことを意識していない。完全に自分をまわりに晒すことに慣れてしまった真美は、
――これが本当の私だったのかしら?
とまで感じるようになっていた。
それは間違いではないのかも知れない。だが、それを間違いではないと決め詰めてしまうと、真美が二重人格であるということを、自らで認めてしまうことになるだろう。
二重人格について真美は悪いことだとは思っていなかったが、それはまさか自分に起こることではないと思っていたし、二重人格のそれぞれの人格は、決して正反対のものであってはいけないと思っていた。しかも正反対であり、対照的な性格が同居していることに疑問を感じた。
――正反対と対照的は違うんだ――
正反対というのは、一方から一方を見てまったく違っていれば、その時点で正反対、対照的というのは、左右対称という意味で、鏡を当てればまったく同じものであるというものをイメージしていた。
つまり正反対は一方通行であり、対照的なものは、一度相手に映ったものをもう一度相手が映すと、元に戻るようなもののことをいうのだった。
そこまで感じているのに、どうして同居などありえるというのだろう? 真美は、自分の感覚がおかしくなったのではないかと感じたのだ。
真美は、好きになった男性には従順だった。元々人に逆らうことを知らない性格だと思っていたので、子供の頃などは、うまくおだてられて利用されていることも多かった。本人は分かっていたが、
「皆が喜んでくれるんだから、それでいいんだわ」
と思っていたのだ。
そのことが父親のいないことから来ているという意識はなかった。だが、後から考えれば、父親に甘えたい時期に父親はいなかった。甘え下手であることは、彼氏ができてからすぐに分かったのだが、甘えることができないのは、いつも何かに怯えている自分がいるからだということに気付いてはいなかった。
何かに怯えている気持ちは子供の頃からあったが、漠然としたものだった。甘えるという言葉すら、知ってはいたが、自分にはまったく関係のないことだと思っていた。きっと怯えの気持ちが他の感覚をマヒさせてしまったからであろう。
甘える気持ちがないことで、自分から相手の要望に応えることが、他の人の甘えのような感覚になっていた。同じことを考えているのは真美だけではない。真美には同じような考えの人がそばにいれば、その人が考えていることが分かる気がしていた。完全に分かるわけではないが、他の人が感じるよりも敏感になっているはずである。マヒしてしまった感覚もあれば、敏感になった部分もある。そのことに気付くと、真美は甘えることの代わりに、
――人に対して従順になっているんだわ――
と感じるのだった。
その気持ちは、好きになった人に対しても変わらなかった。余計に強くなった気もするくらいだ。本当なら、好きになった相手に対しては、自分の思いを打ち明けられ、他の人には話せなくても、彼にだけは相談できるというような関係が一番理想のはずである。
だが、甘え下手の真美には、そんな感覚はない。言い知れぬ怯えが真美を包んでいる間は、いくら好きになった相手であっても、甘えるような感情は生まれてこないのだ。
――嫌われたくない――
この思いが、彼に対して従順な自分を支配する気持ちだった。
そういう意味では最初から対等ではない。
「恋愛は、お互いに対等であるから、気持ちを確かめ合うことで、発展していくものじゃないかな?」
と、友達は言っていたが、他の誰もが、感心して頷いているにも関わらず、真美にはどうしても頷くことができなかった。
彼と付き合っていることが、本当に恋愛感情に繋がっているのか、真美には疑問だった。――好きだ――
という意識はあるのだが、それ以上に、
――嫌われたくない――
という気持ちが強くなった。完全にマイナス思考である。
感覚がいつの時点で変わったのか、それは結構早い時期だった。嫌われたくないという感覚は、もちろん相手を好きだからなのだが、そんなにすぐに好きになったということだろうか。
すぐに人を好きになるなど、自分でも信じられない。何かにいつも怯えていることから、まず、相手に対して警戒心を持つ。少しでも違和感があると、そこで気にすることを止めるか、警戒心が解けるまで気長に待つかであるが、後者は今までにほとんどなかったことだ。
嫌われたくないという感覚は、恋愛感情よりも、子供の頃の方が強かった。相手は母親で、父親がいない分、母親から嫌われると、見捨てられたことになり、自分が生きていけないことを、感覚で分かっていたのだ。
その頃から、
――嫌われたくない人には、逆らってはいけない。従うしかないんだ――
という気持ちになった。
それが当たり前のこととして日常の感情に含まれてしまうと、
――見返りを求めてはいけない――
と、無意識に感じるようになった。
母親からは、見返りなどなかった。きっと母親は、
――子供が親に従うのは当然のこと――
と思っているのだろう。その気持ちが真美の中にも蓄積され、
――従うことは一方通行であってしかるべき――
と思うようになっていた。
だが、子供の世界では一方通行ではなかった。人に従って、相手がしてほしいことをしてあげれば、
「ありがとう」
とお礼を言われる。
当たり前のことなのに、真美には涙が出るほど嬉しかった。
「どうして、そんなに感動するの? お礼をいうのは当たり前のことでしょう?」
と言われて、キョトンとしていると、
「これが感謝の気持ちというものよ。感謝の気持ちがあれば、自然とお礼を言いたくなるものなの」
感謝の気持ちという言葉を聞いて、最初はピンと来なかった。見返りを求めることなど考えられなかったからだ。だが、友達はこれを、「見返り」とは言わず、「感謝の気持ち」と表現した。目からウロコが落ちた瞬間だった。
それから真美は、見返りを求めるのではなく、感謝されたいという気持ちを持つように切り替えると、まわりを見る目も少し変わってきた。従順である自分の性格を個性のように感じるようになっていった。
個性ということを意識したのは、もっと後になってからのことだったが、人に従うことは悪いことではないと胸を張って言える気がしてきたのだ。それまでは、どこか寂しげな気分になっていたが、それは怯えの気持ちが強かったからだ。
好きになった人に対して真美は、同じような気持ちのままだった。彼は、真美の気持ちに感謝してくれていて、お礼を言ってくれていたのだが、そのうちに子供の頃に感じた「感謝の気持ち」とは少し違っていることに気が付いた。
それは、相手が自分との距離が近いからだということなのだろうが、それを理解することができなかった。どこか彼のお礼の言い方が、わざとらしく感じられ、まるで言い訳がましく感じられた。真美はそれを謙虚に受け止めようとしたが、感覚的には違ったようだ……。
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