第8話 第8章
敏夫には意識のないことなのだが、敏夫が離婚してから、一度美沙が敏夫に会いに来た。すっかり当時と変わってしまっていて、やつれが見えている美沙を、結局最後までその人が美沙であることに気付かなかった。
会いに来たといっても、美沙が自分のことを話したわけではない。本当は自分が美沙であること、そして昔のことを少しでも話ができると、その時に悩んでいたことが、少しは解消されると思ったのだ。
美沙だって、別れた時のことを思い出すのは苦痛だった。本当であれば、二人は会うべきではなく、お互いにそれぞれの人生を歩んでいくのが一番なのだろうと思ったのだが、その時の美沙の悩みは、敏夫と話すことで少しは解消されると本気で考えていた。藁にもすがる気持ちだったと言っても過言ではないだろう。
敏夫がちょうどその時、離婚したという話は聞いていた。離婚してショックの相手にまるで追い打ちをかけるような惑わせ方になるかも知れないと思ったが、それでも敢えて会わないと自分がおかしくなってしまうのではないかと美沙は感じたのだ。
実際に美沙は、敏夫が忘れられないと思っている程度のショックではなかった。妊娠したことで、美沙はまわりから、
――どこの馬の骨とも知れぬ男に孕まされた女――
として、見られてしまっていた。いくら美沙が悪くないとはいえ、世間はそんな目では見てはくれない。男の敏夫は別れるだけで済むのに、残った女とすれば、子供のこともあり、精神的におかしくなっても仕方がないだろう。
子供を産み落としてから、しばらくは田舎で養生していた。
「もう、男性はこりごりだわ」
と、口に出してまわりに話していたが、それは口に出すことで、痩せ我慢を信念として感じることと、まわりに対して余計な気を遣わせたくないという思いから、半分は心にもないことを言っていた。
確かに男性はこりごりだという意識はあるが、敏夫ともう一度やり直したいという気持ちが失せていたわけではない。ただ状況がそれを許さない以上、痩せ我慢でもしなければ、やってられないという気分になっていた。やけっぱちな気持ちになっていたのかも知れない。
敏夫のことは忘れるつもりだった。
子供と無理やり引き裂かれ、自分は一人ぼっちなのだということを、嫌というほど思い知らされ、家族からも隔離される形で、世間から雲隠れさせられたのだ。
美沙は、そんな自分をいつも客観的に見ていた。客観的と言えば聞こえはいいが、自分から逃げているのと同じである。冷静な目で惨めな自分を見つめていると、何が悲しいのか、感覚がマヒしてくる。
――親が死んでも泣かないんだろうな――
と思うようになり、次第に親を憎む気持ちが当たり前になってしまっていた。
親は憎むものだという考えが頭にあるので、家族愛を描いたドラマなど、ウソにしか見えてこない。
――それなのに、どうして今さら、あの人に?
美沙は、敏夫の離婚をなぜか分かっていたようだ。
――あの人に降りかかる不幸を、私は感知できるみたいだわ――
離婚以外にも、それ以降、小さなことで不幸に見舞われた敏夫を見たことがある。いくら影から見つめているだけとはいえ、頻繁に現れては、すぐに見つかってしまう。時々見に行くと、不幸に見舞われている様子が見て取れる。敏夫は少しでも不幸が襲ってくると、自分の意識の外で、大げさに振る舞ってしまっているようだ。
離婚してからの敏夫は、寂しさ半分、今後への期待半分のようだった。ただ、本人はあくまでも離婚したことを寂しがっているように振る舞っているが、実際には離婚することで、自由に他の女性を見ることができると思っている。それまでは奥さんの目が厳しくて、少しでも他の女性に目が行くと、嫌みや嫉妬の視線が飛んできたに違いない。
敏夫の性格からすれば、他の人が、
「視線くらい、どうでもいいじゃないか。どうせ、夫婦生活は冷え切っているんだろう?」
と言われても、頭の中では分かっていても、実際に視線を浴びると、萎縮してしまうのだった。人の視線から簡単に逃れられないのは、自分がしていることを他の人もしているという意識が大きく、自分のしていることに対して少々のことでも罪悪感を持っているので、まわりの視線が痛くて仕方がないのだ。
だが、それも一部のことだ。特に離婚してから、いくつかの感覚がマヒしてきて、その中には罪悪感も含まれている。
まわりの視線が痛いくらいに感じるのは、被害妄想が強いからであろう。
――相手の身になって――
というと聞こえはいいが、自分の目線からだけでは、罪悪感に繋がるようなことは、なかなか分かりにくいものである。
感覚がマヒしているなど、美沙には分からなかった。簡単に分かるような視線を浴びせてはいなかったが、敏夫は気付く素振りがまったくなかった。気付かれないなら気付かれないに越したことがないと思っていたはずなのに、ここまでまったく無視を決め込まれると、分かっていないというよりも、わざと目を逸らそうとしているようにさえ見えて仕方がない。
美沙は、それなりにショックだった。
――この人にとって、私はこの程度の女だったんだ――
いくら自分たちの意志で別れたわけではないとはいえ、ここまでスッキリされてしまうと、呆れかえってモノも言えなくなってしまう。普段からあまりスッキリとした態度を取ることもなく、判断を迫られる時、必ず最後まで考え込んでしまい、堂々巡りを繰り返す寸前で戻ってくることを分かっている。
堂々巡りを繰り返すことは自分の中の世界を狭めていくことでもあり、一旦頂点まで考え込んでしまったあとには、スッキリとした考えが盛り上がってくる世界を見ることができた。
美沙のことを敏夫が分からなかったのも、実は無理のないことだった。
敏夫の中では、あの瞬間から美沙との時間は止まっていた。
――あの瞬間――
もし、美沙がそのことに気付いたとしても、あの瞬間がいつのことだったのかを知ることはないかも知れない。
普通であれば、男女が付き合っていて、別れてしまった。二人があの瞬間という意識を持ったとすれば、それは別れを感じた時か、別れが決定的になったと感じた瞬間であろう。だから、二人の間に「あの時」というのは、なかなか一致しないことが多い。美沙も自分の中で「あの時」というのを持っている。
美沙にとっての「あの時」というのは、二人が付き合い始めた時だった。それから美沙は自分が年を取らないのではないかと思うほど、幸せな時間を過ごしていた。敏夫が美沙を好きになったのも実は同じところで、
――この人は、俺のおかげで年を取ることはないんだ――
と感じた。
美沙が年を取らないと感じた時のことを、敏夫は自分のことのように覚えている。きっと、美沙が敏夫に無意識のアイコンタクトを送っていたのかも知れない。
敏夫にとって、「あの時」とは、まさに美沙が自分は年を取らないと感じた時であって、敏夫自身も実際に、頭の中ではその時から年を取っていなかった。
時間は経っているのだが、なぜかいつどんな時でも、美沙が年を取らないのではないかと感じた時のことを、まるで昨日のことのように思い出す。
敏夫は美沙と「永遠の別れ」をしてしまったことで、美沙という女性のイメージが、「あの時」で止まってしまった。それは別れを決めた時でも別れが決定的になった時ではない。その時だけ、美沙は一気に年を取ってしまったかのようにやつれていたのだ。
精神的に元に戻るにしたがって、年相応の表情になっていき、次第に敏夫を忘れることで、敏夫との時間を「失った時間」と割り切ることで、立ち直ろうとした。敏夫には悪いと思ったが、そうでもしないと立ち直ることはできないし、立ち直っても、一旦やつれてしまった顔に、生気が戻ることはないのではないかと思われた。
それでも時間の経過とともに、それなりに老けてくる。敏夫も自分の止まった時間をいつかは一気に進めてくれる「玉手箱」のようなものが、現れるような気がしてならなかった。
ちょうど、美沙が敏夫の前に現れたのは、そんな時だった。まだ敏夫の中で時間は止まっていた。それを動かす玉手箱は、皮肉なことに美沙だったのだ。
美沙が現れたことで、敏夫は最初止まった時間の中にいる美沙しか、自分の中で認めようとはしなかった。だから、年相応になっていた美沙を見て気付かなかったのである。だが、美沙の視線を敏夫が浴びた時、止まっていた時間が一気に動き始めた。急激に動いたので、敏夫の神経も表情も、それまでのものとは違ってしまっていた。本人は、堂々巡りを一瞬にして幾度も繰り返したようなおかしな感覚になったことだろう。平衡感覚は失せてしまい、昨日のことのように思い出すのは「あの時」だけになっていた。ただ、それが美沙が現れたから「あの時」だけが昨日のことのように思い出すようになったわけではない。美沙が現れなくても起こっていたことだ。微妙なタイミングが思い込みに大きな影響を与えるものだということを、その時の敏夫には分からなかったのだ。
敏夫が、
――自分の考えていることが現実になるようなきっかけを与えてくれる出会いや出来事が、最近多くなってきた――
と思うようになったのは、美沙が現れて、その後離婚して、さらにそのだいぶ後のことだった。
予感のようなものも頭を巡った。それが本当に現実になったのが、真美と知り合ったことだったのだ。
同じような趣味を持っていて会話も弾む。それまでの自分が時間に流されるように毎日の流れに逆らわず、漂っていることで、
――このままただ年を取っていくだけなんだ――
とまで思った時期があったが、年を取るということが、衰えという言葉に置き換えることで、本当は自分がいつまでも「あの時」から、年を取っていないことを感じた。やはりいつまで経っても、あの時を思い出すと、まるで昨日のことのように思い出せるのだった。
真美と知り合ったことで、それが実際に、年を取っていることを感じないのだ。気が付けば、自分が二十代の時に考えていたようなことを考えていたり、実際に二十代になったような気分になっていて、ハッと我に返ることもあった。
そのくせ、真美には娘のような感覚を強く持っている。ただそれは本当は彼女にしたいという思いを持っているにも関わらず、それをまわりに悟られないようにしようという思いから、自分を若い世代に持っていくことで違った目線で見せようという無意識な思いなのかも知れない。
その時になって、
――離婚が決定した時に、俺の前に現れた気になる女は、美沙だったんだ――
と、感じた。明らかに今さらではあるが、どうして今さらその思いを感じなければいけないのか分からない。
――きっと夢に見たんだろうな。覚えていないだけで――
今、美沙がどこで何をしているのか分からないが、思い出してしまったことで、これからの自分の生き方に、微妙な変化が現れるのではないかと思うのだった。
――まるで人生をやり直しているかのようだ――
と感じたのは、美沙が訪ねてきたのだと思った次の日からだった。
年を一気に遡り、二十歳代に戻った気がした自分は、肉体は年齢そのままで、精神だけが若返った気がしたのだ。
肉体まで若返ってしまえば、本当に人生をやり直すことになるのだろうが、そんなことをしたいとは思わなかった。
――若返ったところで、結局は同じ人生を繰り返すだけなんだ――
と、半ば諦めかけの人生であることを感じていた。もしやり直せるとしても、どんな人生が待っているというのだろう。まったく真っ白な状態の二十歳に戻るわけではない。一度通ったという記憶を持ったまま戻るのだ。
「では、記憶を消して戻ることができるとするならどうだい?」
と聞かれたとするならば、
「いや、それなら、なおさら嫌だ。まったく違う人間になってしまうということだろう? それじゃあ人生をやり直すということにならないじゃないか」
当たり前のことを答えた。そんな質問をしてくる人はいないとは思ったが、人生を半ば諦め気味に考えていることの裏付けを確認したかっただけなのだ。
では、どうして頭の中だけは二十歳代に戻っているというのだろう? その時に何かやり残したという意識があり、それを思い出そうとしているのだろうか? どちらかというと、二十歳代前半は、あまりいい思い出はない。大学の卒業が危うかった記憶と、就職も危なかった記憶は鮮明に残っている。記憶に残る夢の中で、同じ夢を何度も見たというのは、その頃の夢が多かった。
卒業している意識はあり、社会人になっているにも関わらず、なぜか大学の図書館で卒業試験のための勉強をしている。そして図書館を出ると、とっくに自分と一緒に卒業し、就職していった友達が、スーツ姿でキャンパスを歩いているのだ。
「お前も早く卒業しろよ」
と、声を掛けられる。
「えっ、やっぱり俺、卒業していないのか?」
「何言ってるんだ。じゃあ、どうしてお前は図書館で勉強しているんだ?」
友達の口から、敏夫が卒業できたのかどうかという答えは聞くことができなかった。その時に、
――これは夢なんだ――
と、悟ることができた。自分の夢だから、友達は核心部分には触れないんだ。夢を支配しているのはあくまでも自分であって、潜在意識の外での考えは生まれてこない。それを思い知らされた気がした。
もし、人生をやり直すとしたら、大学入学からになるだろう。
だが、大学入学からやり直す気は毛頭ない。将来の自分が分かっていることで、誘惑に負けないだろうと思うのは今の状況の中にいるからで、もしその場面に戻ってしまうと、いくら将来の記憶が残っているとしても、もう一度同じことを繰り返すだろう。
同じ人を好きになって、同じような失恋をする。そんなことを思い浮かべてみると、人生、やり直しが利いても大差はないだろう。却って過去の記憶を未来に置き換えることでの自分の中の葛藤に耐えられるかどうかが問題である。
自分の人生の分岐点とも言える離婚という事件を経験したまさにその時、過去の思い出であったはずの女性が現れた。そのことが自分を過去に連れ戻すきっかけになり、意識だけが、昔に戻ってしまった。精神的に二十代に戻ってしまったという感覚は、やり直したいとは思わないまでも、何か忘れてしまったことを思い出そうとする意識の表れなのかも知れない。
敏夫は、今でもその時のことを思い出す。離婚したことのショックよりも、美沙が自分に会いに来たという事実。何も言わずに自分の前から消えてしまったということ。そしてその時に自分の精神が二十歳代に戻ってしまったということ。それぞれが走馬灯のように堂々巡りを繰り返しているようだった。
美沙が現れたことと、二十歳代に精神が戻ってしまったことは、やはり何か過去に忘れてしまったことを思い出させようとする何かの力が働いていたのかも知れない。それは、自分に対してのことなのか、自分を取り巻く環境までひっくるめてのことなのか分からなかったが。今から思い返すと、後者だったような気がする。
今になってそのことが気になってしまっているのは、真美が自分の前に現れたからなのかも知れない。娘のように可愛い真美に対し、娘とは違う感覚を、自分の中の男の部分が持っていることも隠すことのできない事実である。もちろん、悪いことではないはずなのに、自分自身にも隠そうとする気持ち、いくつかの気持ちや性格が自分の中に存在していることは分かっていたが、今になってそれぞれの自分の性格が表に出て来ようとしている。自分は一人なので、表に出てこれるのは、一種類の性格だけである。そのどれが本当の自分の性格なのかを誰が判断できるというのだろうか?
敏夫は自分の性格を把握しかねているようで、以前にも同じような感覚に陥ったことがあったのを思い出していた。
――そうだ、あれがちょうど今感じている年齢の頃だったような気がする――
あの時も、以前に同じような感覚に陥ったことがあると感じていたが、過去を思い起してみても、そんなことを感じたという意識は記憶の中にはなかった。感覚として感じているだけで、過去に感じたという思いに違和感はない。ひょっとすると、未来に感じるであろう今のことを、その時に予期していたと考えるのはあまりにも突飛なことであろうか。
同じ感覚を繰り返すのは、人生の堂々巡りだと言えないだろうか。ただ、二十代の頃に感じた感覚と、今感じている感覚では少し違っている。二十代の頃の感覚は永遠に消えないような気がするのに、今感じている感覚は、意識していないと忘れてしまいそうな気がする。
忘れてしまうのではなく、慢性化していて、意識の奥の方に入り込んでしまっているのだとすれば、今感じていることの方が、決して忘れることのない感覚で、しかも、いつでも引き出そうと思えば引き出すことのできるもののように思うのだ。もっとも引き出したいと感じることがあるのかどうか、今は定かではないとしか言いようがなかった。
敏夫が過去を二十代の頃に何か忘れてしまったことを思い出す時が来た時、その時、敏夫は今の自分の年齢に対してどのように感じるのだろう。それを思うと、娘のように感じている真美に対して、どのような感情を持つことになるのか、怖い反面、楽しみでもある敏夫だった…
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