第7話 第7章
そこは団地だった。それは二十年前くらいに見た、高度成長の証であった団地である。頭の中では、
――団地など今さら――
と思っているくせに、まわりをキョロキョロしながら、置いてあるものの懐かしさに昔の自分を照らし合わせて見ていることが無意識であることに気付かなかった。当時としては最新式だったものも、今ではほとんど見ることもできなくなった。その象徴がテレビであり、電話であった。これが女性であれば、台所まわりにも気が行くのだろうが、あいにく男の敏夫が気になるところは限られている。
家族構成は、敏夫が一家の大黒柱、妻には美沙、そして娘は真美だった。
――真美と知り合ったことで、こんな夢を見てしまったのだろう――
それまでに団地はおろか、美沙の夢すら見ることはなかった。美沙の夢はわざと見ようと思わなかったのだろう。夢というものは都合の悪いことも含め、大体は目が覚めてくるにしたがって覚えていないものである。
それは、本当に覚えていないのか、覚えていたことを、目が覚めた瞬間に忘れてしまうのかのどちらかであろう。一度覚えていようと思ったことを目が覚めた時に忘れたと感じる時は、本当は、記憶の奥に封印しているのかも知れない。
封印した記憶が何かの拍子に飛び出してくることもあるだろう。記憶を封印したのと同じシチュエーションになった時、その時の相手と一緒にいる時、そしてその人と別れた後でも、その人のことを思い出した時など、いろいろなパターンが存在しているのかも知れない。
団地は今から思うと狭いものだった。
団地というと、今から思い出せば、人を押し込めるような圧迫感を感じる。自分の部屋があると言っても、カギが掛かるわけでもなければ、扉を閉めても、防音設備が付いているわけでもない。家族で住んでいるとはいえ、本当のプライバシーが守られているなどということはなかった。
――家族で住んでいるんだから、プライバシーなんて、あってないようなものだったんじゃないかな?
と後から思うと、本当に酷いものだった。
だが、敏夫は団地の生活が嫌いではなかった。それよりも家族が嫌いだった。仕事が終わればいつも定時に帰ってくる父親を待っての食事になる。
「家族揃って食事を摂るのは当たり前のことだ」
堅物の父親のイメージが団地の中から湧いてくる。朝起きてすぐなど食べれるわけもないのに、
「朝飯を食べないと力が出ない」
という理屈の元、イヤイヤ食べていたのを思い出す。
今はその反動からか、朝食を家で摂ることはない。それは大学時代から同じで、それなら少し早く家を出て、駅近くにあった喫茶店でモーニングサービスを食べる方がよっぽどいい。
家族の集団行動が嫌で嫌で仕方がない原因のほとんどは、食べたくもない朝食を食べさせられたというイメージに尽きるといっても過言ではないだろう。
家族の集団意識の犠牲となっていた時期は高校生の頃までだった。
大学に入ると、家から通えないところに変わったことで、自由だったのだ。もっとも、最初から家から通えない大学を目指すのが目標で、口が裂けても言えないことだったが、もう今となっては時効であろう。
――人と違っている――
と言われることに違和感を感じず、しかもそれを自分の個性だと思っているのは、親との集団意識の呪縛から逃れたいという気持ちがあったのも否めない。人と違った性癖であってもその人にとっての個性。敏夫は、平凡な自分であれば女性からモテモテであったとしても、たくさんの女性からモテる必要などなく、個性的な自分を分かってくれる人が一人いればそれで十分だと思っていたのだ。
まだ頭の中は大学に入学してすぐの頃だった。結婚ということもまだ頭の中にあったとしても、具体的なイメージなど湧いてこない。せいぜい父親を見ていて、
――俺も同じような一家の大黒柱になるのかな?
と漠然と感じる程度だった。
ただ、感じる反面、
――こんな家庭を作りたくない――
という意味での反面教師が父親を中心とした家庭。皆バラバラというのも寂しいが、何でもかんでも家族一緒というのは、子供の頃の経験で、寂しさを感じることよりも嫌だった。
ただ、夢に出てくる家庭には、嫌な気分はなかった。自分が一家の大黒柱なのだから、その気持ちも当然なのだが、家族三人を表から見ていて、皆が無表情なのが気になっていた。
――そういえば、俺も子供の頃、押し付けられた環境の中で、無表情だったような気がする――
ただ、ずっと無表情だったわけでもない。あまり口うるさくない父親ではあったが、口を開くと、文句しか言わない。普段は喋ることをせずに黙っている人間ほど、何かを言いたい時というのは、堪忍袋の緒が切れた時なのかも知れない。
子供としては、親が一体何に憤慨しているのか分からない。分からないことを勝手に怒っているのだ。それには埋めることのできない親子の性格の違いがある。親子なので性格は似ているのかも知れないが、性格が似ているだけに、相手が考えていることが分かることもある。そこが自分の考え方と相容れないものであるならば、それは、間違いなく、親子の埋めることのできない大きな性格の違いなのであろう。
性格の違いは溝を作る。特に一緒に住んでいるのだから、押し付けられた方は息苦しくて仕方がない。まるで拷問のようだ。
そんな家庭しかイメージがないはずなのに、どうして今頃になって団地で家庭を作っている自分の夢を見るというのだろう?
しかも、とっくに別れた女性と、最近知り合った女の子とが時代を超えて、家族になっているのだ。確かに美沙は今まで付き合ってきた中でも特別な女性だった。敏夫にとっての最初の女性でもあり、相思相愛を感じた、最初で最後の女性だったのかも知れない。
元女房は確かに敏夫のことを好きだったのだろう。だからこそ、結婚したのだが、だからと言って、相思相愛だったのかと言われれば、今から思うと疑問が残る。
――いつもどこかですれ違っていたような気がする――
元女房は、敏夫に逆らうことをほとんどしなかった。従順で大人しい女性だと思っていた。
まわりからは、
「彼女は人当たりがよくない。不愛想だ」
と言っている声を聞くこともあった。
そういえば、敏夫に対しての最初も、人見知りする性格なのだということはすぐに分かった。それなのに彼女と結婚するまでに至ったのは、
「俺にだけは心を開いてくれている」
と感じたからだ。いつも一緒にいれば、自然とお互いに馴染んでいって、彼女が敏夫のことを愛しているのだと感じた。
――他の人に対して人当たりがよくない分、一番自分が接しやすい女になってくれているんだ――
という思いが、敏夫を結婚に駆り立てたのだ。
この頃まで、美沙との思いを断ち切ることができなかった敏夫だった。元女房との交際期間も、美沙との思い出の中に成り立っていた。元女房はそんな敏夫のことを分かっていて、それでも結婚しようとしてくれたのだ。
離婚の原因については、今でもハッキリとしていないが、自分では断ち切ったつもりでいる美沙との思い出が、二人の結婚生活に影を落としていたのかも知れない。敏夫に意識はない分、彼女の方では敏感に感じ取っていて、しかも敏夫に意識がないことへの憤慨も重なって、
「これでは、結婚生活など続けていけないわ」
と感じさせたのかも知れない。
結婚している時に、美沙のことが尾を引いていたことに気付いたのは最近である。そしてそれに気付かせてくれたのが、真美だったというのも、皮肉なことだ。
――真美を見ていると、どこか美沙を思い起させる――
どこが似ているというわけではない。ただ、美沙も真美も元女房とは似ても似つかない性格であるということに違いはない。だが、根底では同じところもある。それは皆引っ込み思案で、口下手で、人当たりはあまりよくない。だが、敏夫にとって、これほど付き合いやすい相手はいないということだ。
だが、実際の真美は結構人当たりがいい。そのことは分かっているはずなのに、どうして人当たりがよくないという感覚になるのか、それは、夢の中で団地の夢を見たからに違いない。
この夢は今までに何度か見たような気がする。決して楽しそうな家庭ではない。会話があるわけではないし、皆ただ黙って食事をしている。食事をしている光景なのに、おいしそうに食べている雰囲気が湧いてくるわけでもない。全員不愛想な食卓で、おいしそうに見えるわけなどないからだ。
夢を見ている敏夫は、まず自分の顔を見てみる。
――これじゃあ、自分の父親のようじゃないか。もっと違った表情ができないのか――
と、自分のことだけに、夢を見ている自分がどうしようもできないことに腹立たしさがこみ上げてくる。まわりの二人の不愛想な表情も、すべての原因は大黒柱である自分の責任だ。
――そんな当たり前のことも分からないのか――
この場の息苦しさは自分が一番よく分かっているはずなのにと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになる。
そういえば、子供の頃にも、
――お父さんだって、自分が子供の頃があったはずだ。どんな子供だったんだろう?
という思いを抱いたことがあった。
おじいさんも堅物だったと聞いているが、父親もおじいさんから同じような目で見られていて、息苦しさを感じたはずだ。自分も子供の頃に、
――こんな家庭だけは作りたくない――
と思っていたのだから、父親も同じ気持ちだったはずだ。
それなのに、どこで変わってしまったというのか。変わったとすれば、大人になる過程で、まわりの環境の変化と、自分の経験してきたことが、
――家族の大黒柱は、こんなものだ――
と思わせる何かを与えたに違いない。
敏夫は少なくとも自分が結婚するまでに、気持ちを覆させるほどの環境の変化も、経験もした記憶はない。だから、家庭を築けば、まず会話から入ろうと思っていた。元女房とは、会話もできていて、うまくいっていたはずなのに、離婚の本当の原因について気付かなかったのは、父親の呪縛が憑りついたかのような感情に、こだわり続けたのが原因の一つだったのかも知れない。
大黒柱の自分は、明らかに今の自分なのだが、心の中は、真美と知り合った頃のまま、まわりを見ていた。もし、今の自分であれば、このような不愛想な家庭を作るわけはないと思うからだ。
美沙は、敏夫が知っている美沙だった。だが、こんなに不愛想な美沙を見たことはないはずなのに、不愛想な表情に違和感がない。それは、真美に対しても同じで、いつもニコニコ笑顔で接しているはずの真美は、まるで別人のようだった。
――この二人を見ているから、大黒柱の俺の表情は、こんなに堅苦しいものになっているのかな?
と思ったが、そう感じてしまうと、結局は堂々巡りを繰り返すことになってしまう。
――まるで、ヘビが自分の身体を尻尾から食べていっているような感覚だ――
堂々巡りとは少し違うが、何か、悪循環を繰り返す時、最後の結末を想像することができないと感じた時、敏夫は、ヘビが尻尾から自分の身体を食べていく光景を想像してしまうのだった。
想像している中で、今度は美沙と真美の関係を考えてみた。
二人が一緒にいるところを想像してみたのはこの時が最初だった。
真美を見た時、一番最初に感じたのは、
――美沙の雰囲気がある――
という思いだった。
美沙を思い出すことで、自分が美沙と付き合っていた頃の自分に戻れるのではないかという感覚になったことは、夢の中だとはいえ、新鮮だったのだ。
――美沙に娘がいれば、いや、もしあれから結婚していて、子供ができれば、真美のような娘がいたのかも知れない――
と思った。
元女房との間に子供ができれば、どんな子供だったのかということも想像したことがあったが、その時に想像した子供は、完全に元女房そのものでしかなかった。それは、自分の目で見るからで、夢の中のように、夢に出てきている自分を、夢を見ている自分が見ているような客観的な目にならないからだ。敏夫にはどうしても目線を変えることができない性格があり、いいところでもあるが、悪いところの方が強いのだと思っていた。
それは、一点でしかモノを見ることができないということである。夢では、客観的に見ることができるのに、現実世界では、客観的に見ることがどうしてもできない。目が覚めてから夢の内容を覚えていないのは、夢を見ている自分と、現実世界での自分があまりにも差があるからなのかも知れない。
他の人と夢の話をした時にも同じような意見をよく聞く。
「夢で見たことを覚えていることなど、ほとんどないからな」
と、誰もが同じような感覚を持っていることに、何ら疑問を感じたことがなかったが、本当に皆が、夢で見たことを覚えていないのだとすると、夢の中の目線と現実世界での目線が皆同じように違っているからなのか、それとも、敏夫の考えすぎで、本当は目線の違いが夢を覚えていないものとするのではないということの、どちらかなのであろう。
真美と一緒にいると、遠い記憶がよみがえってくることがある。それは美沙の記憶であり、忘れてしまったと思っている美沙の表情を、真美の中に垣間見ることができる。
――あの時は忘れてしまうしかなかった――
別れが決定的になった時から、忘れてしまわなければいけないということは重々分かっていた。分かっていて、忘れるまでには、相当の時間が掛かった。
――これだけ時間が掛かって忘れたのだから、もし思い出したとしても、それは思い出として思い出すことであって、それがいい思い出として思い出すのか、悪い思い出として思い出すのかは分からない。きっとその時の自分の心境によるものに違いない――
穏やかな気持ちの時に思い出すのであれば、きっといい思い出として思い出されるものであろうし、気分が少しでも穏やかでなければ、悪い方の思い出として思い出すに違いない。だが、今回はそのどちらでもない。まるでまだ美沙への未練が残っているかのような思い出し方になってしまい、いい悪いの問題ではなくなっていたのだ。
それは、真美を見ていて、美沙との子供を思い、さらに、美沙本人を思い出させるという複雑な心境になっているからだ。
もう一つは、思い出したくもない、元女房のことまで思い出してしまっていることだ。元女房とのことは、いい思い出であるはずがないにも関わらず、美沙とのことよりも、先に思い出として封印されていくような気がするのだ。
――ここで思い出すというのは、ひょっとすると、元女房のことを思い出として封印するために通らなければいけない道を歩んでいるということなのだろうか?
という思いが頭を巡っていた。
敏夫は、今真美の存在を、美沙や、元女房の思い出を通してしか見ていないことに気が付いた。
真美はそんなことに気付いていないかのように、敏夫を慕ってくれている。美沙もどこか分かりにくいところがあり、何を考えているか分からないところがあったが、そのことを敏夫はあまり深く考えないようにしていた。深く考えてしまうと、せっかくの第一印象から続いているイメージが崩れてしまいそうな気がしたからだ。それは今思い出すと分かることであり、真美と付き合っている時には分からなかった。それを
――若かったから――
として見過ごしてしまおうとする自分がいることに気付いた。敏夫は一つのことに気が付くと、いろいろなことに頭が巡る方だ。すぐに結論が出るわけでないが、一旦目からウロコが落ちると、考え方が一つに定まって、一つの大きな結論を見出すことも難しくなくなっていくのだ。
一つのことに気付くのに少し時間が掛かるのが、敏夫の特徴だった。理由は二つあり、一つは考えが堂々巡りを繰り返すこと、そしてもう一つは目線を変えてモノを見ることがなかなかできないことから、すぐには気付かなかった。
しかし、一つのきっかけが生まれると、そこから生まれる発想は、放射状に目を移すことができるようになる。自分のこととなると難しいが、自分を取り巻く環境であれば、角度を変えることで、いくらでも発想が生まれることを、本能で悟っているのかも知れない。
敏夫は真美のことをどのように見ているのだろう?
時々、娘のように、そして時々、一人のオンナとして……。
その二つが同居することは普通ならありえないことだと敏夫は思ってきたが、真美に対してだけは、そのどちらも同じ時に感じることができるように思えてならない。それだけ真美が自分にとって特別な存在なのか、それとも、真美の見つめる目が、他の女性と違って、敏夫の考えを奥深くまでえぐることのできる視線になっているのではないだろうか。
敏夫は真美と毎日会っているわけではない。お互いにプライバシーは尊重するようにしている。
しかしある時真美が、
「敏夫さんとは、ずっと一緒にいるような気がするの。一緒にいない時でも、そばにいてくれるような気がしていることが、私には嬉しいの」
この一言にドキッとして、敏夫も自分を振り返ると同じ考え方を持っていることに気が付いた。考え方はするものではなく、「持つもの」だということを、その時悟ったのだった……。
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