第6話 第6章

 真美の小説を読んでいると、なるほどと思わせるところが随所にある。

 それは父親がいないことを匂わせるもので、敏夫は父親がいないことを聞いていたので、小説を読んでいて、

「なるほど」

 と思わせるところがあるのだ。

 だが、「なるほど」と思わせるだけではなく、「なうほど」と唸らせるところもあった。

 それは、他の人が読むと父親がいないということをボカシながら、実にうまく表現されているところがあったからだ。

 父親がいないことを、他の読者は知らない。だから読んでいて、

――この描写は父親がいない寂しさが滲み出ているのだ――

 と感じることもない。

 それは、真美の小説に出てくる父親は、誰が読んでも、

「これは自分の父親と同じだ」

 と、つまりは、誰もに共通する父親像が描かれているのである。

 誰もが、納得する内容を、それぞれの立場で網羅できるというのは、天才的な技法であるが、まさか描いている本人が本当の父親像を知らないなどと思うはずもない。それが小説を読んでいて、

――唸らせる――

 ということになるのであった。

 真美の技法には、父親像だけではなく、同じような技法が随所に使われている。だから読んでいる人が本当の真美の年齢を知らなければ、

「まさか、こんな若いのに、まるで経験してきたように描けるはずなどないだろう」

 と思うに違いない。

 それは年齢ということだけではなく、女性という意味でも同じだった。真美の小説は、男の立場からも上手に書かれている。男女の立場を微妙に描いていて、男女による共作ではないかと思わせるほどだった。

 そんな技法のできる作家は、今まで二見たことがない。

 ひょっとすると、プロの作家のように自分の技法がしっかりとできている人には必要のないことなのかも知れないと思うと、これが、真美のこれからの個性として出来上がっていくものなのだと思うようになった。

――俺にも同じようなものが備わっているのかな?

 人のことはよく分かるのだが、自分のこととなると、なかなか分かるものではない。自分にも何か個性があるとは思っている。真美のように自分に分からない何か、つまりは、精神的に気にかかっていることを小説にぶつけているのではないかと思うと、自分にどんな気がかりがあるのか分からないが、自分の小説も自分では分からないところで、人からいい評価を受けているのかも知れないという自惚れも生まれてくる。

 自惚れも、上達するためには、少しは必要だと思っている。敏夫には、自分が見てきたことや、経験したことのあるものしか、まともに描けないという意識が頭の中にある。そのくせノンフィクションは嫌で、自分で創造するフィクションしか書きたくないと思っている。それでも書こうと思うのなら、自惚れるしかないのではないかと思うようになっていた。

 真美が父親がいないことで、父親に対してのイメージを持つには、誰かを題材にしなければいけないだろう。

「私は最初、父親を題材にして小説を書こうなどという大それたことを考えたことはないんですよ」

 と言っていた。

 大それたことなのかどうかは、敏夫には分からなかったが、見たり聞いたり経験したりしていないものを書けない気持ちはよく分かる。

 小説を書けない人間に限って、

「そんなの適当に思い浮かべて書けばいいじゃない。フィクションを書けるだけの文才があるんだから、想像力もそれ相応についているんでしょう?」

 と言ってくるが、

「そんなものじゃないんだ。いくらフィクションと言っても、基本は自分の中にある潜在意識が表に現れてこないと、文章にすることはできないんだ」

 と答えている。潜在意識の定義を、敏夫は夢との境界線に置いている。

 フィクションを書こうとすると、いくら想像してみても、経験していないことを文章にすることは難しい。最初に小説を書くことの難しさを感じたのはそこだった。

 文章作法に関しての難しさとは別に、ストーリー展開を考えている時の難しさは、

――いかに、独創性を出し、他の人が描き、書き古された内容にならないかということ――

 要するに、人と同じ発想をしたとしても、独創性を持たせるには、自分の経験をいかに織り交ぜるかがコツである。

 人それぞれに個性が違うのだから、経験も同じ経験をしたとしても、目線が違うのだから、人の数だけ独創性がある。自分の経験を織り交ぜることは、経験したことだから書けるという自信と、独創性という意味でも必要なことだ。そういう意味では、経験を書くことは、フィクションにとって一石二鳥のことである。

 敏夫は、自分に子供がいなかったことを、この間まで、

――気が楽だ――

 と思っていた。

 離婚の時に、親権についてのことや、養育費などで揉めることは多々あると聞いている。それに今まで子供がそばにいるものだと思っていたのに、急にいなくなった時の寂しさは、女房と別れることの数倍も寂しいことであろう。

 何と言っても血が繋がった子供なのだ。奥さんはしょせんは他人である。子供のいない敏夫には分からないが、人の話を総合すると、子供と離れる辛さはかなりのものだという。

 もし子供がいたとして、自分が引き取って育てる自信があるだろうか。きっとまわりの人は、

「子供はお母さんのそばがいいに決まっている」

 と言って、敏夫を説得しようとするに違いない。

 別れる時の寂しさを知らない敏夫にとって、子供と別れさせられることの辛さは、離婚の時にピンとくるものではないだろう。

――今後、新しい人生を歩む時、子供がいると邪魔だ――

 とまで思っていたかも知れない。

 他の女性と付き合おうと思っているのに、子供がネックになってしまうということは、よく聞く話であった。

――子供が最初からいないのだから、寂しさなど感じるはずはない――

 と、ずっと思ってきたのだ。

 それが、寂しさを感じるようになったきっかけは何だったのだろう?

 そういえば、中学時代に、異性に興味を抱くようになった時もそうだった。確かに徐々に女性を意識するようになっていったのだが、最初のきっかけは突然だったはずだ。何を思って、根拠のようなものがあったのかどうか、敏夫には思い出すことはできなかった。

 あれは三年前くらいだっただろうか。急に子供がいないことの寂しさを感じた。根拠や理由は分からなかったが、その時のシチュエーションは覚えている。

 あの日は、少し体調が悪く、熱っぽいと思い、だるい身体を引きずるようにして、何とか会社から家に帰った時のことだった。

 途中のスーパーで惣菜を買い込み、その頃には。半分這っているかのような感覚で歩いていた。スーパーで惣菜を買うのはいつものことで、

――侘しい食生活だな――

 と、いつもながらに感じていたにも関わらず、その時は、侘しいと感じながらも、別に情けなさを感じることはなかった。

 家までは距離を感じたが、角を曲がって、部屋が見えてくると、そこから俄然力が湧いてきて、どうやって部屋に入ったのか覚えていないほど、気合が入っていたのかも知れない。

 扉を開けて、中に入る。その時に足元から冷たい空気が流れ出てくる。いつもと同じなのに、その時は、一気に寂しさを感じた。いつも寂しさを感じていないわけではないが、帰り着いてホッとした気分になることで、寂しさがほとんどなくなってしまっていた。だが、その日は安心感があったわけではなく、そのせいで足元から流れ出る冷気が、まともに敏夫を襲うのだった。

 敏夫は、冷気が足元からだけしか来ないのに、身体全体に寒気を感じた。

――ここまで熱っぽいなんて――

 部屋に入るとソファーに倒れこんだ。

 もし、冷気が足元から襲ってくるものでなかったらどうだろう? 足元から襲ってくるのを感じたことで、部屋の中の寒さを一層感じてしまったように思う。

 部屋の中に入ると、耳の鼓膜が刺激された。それは部屋の中が真空だったのではないかと思わせるほどのもので、扉を開けることで、生気のなかった部屋の中に、新たな風を送り込んだ。

――じゃあ、あの冷気は何なんだ?

 一旦、入り込んだ生気が、真空の中で凍ってしまい、今度は表に吐き出されたのではないかと敏夫は感じた。体調が悪く、ものを考えることなどできないと思っていた自分が、これほど頭を回転させているというのは、すごいことだと感じていた。

 凍った空気が表に出る時、寂しさが表に吐き出されたのではないかと思った。

 ソファーになだれ込むようにして倒れた時、帰り着いたことで安心したのか、そのまま眠ってしまったようだ。目が覚めてからきちんと扉が、カギまで閉められているということ、そして、靴も綺麗に揃えて脱がれているところを見ると、無意識ながらに、

――部屋の中に入るんだ――

 という意識が働いていたことを示していた。

――俺って意外と几帳面なんだな――

 と感じた。

 普段は、綺麗に片づけることを嫌う敏夫だったが、本能だけで行動する時は、意外と綺麗にするようだ。

 これこそ、親の教育の賜物と言えるだろう。

「整理整頓をしなさい」

 子供の頃に、親や先生から散々言われた。それなのに、敏夫は反発心を持って、決して綺麗にしようとはしなかった。だが、酒に酔っぱらった時などの後から思い返さないと意識が飛んでしまっている時、結構綺麗に整えていた。

――無意識に綺麗にすることを身体が覚えているのかも知れない――

 このことも含めてであるが、

――俺の中にはもう一人いるのかも知れないな――

 と思うようになっていた。

 二重人格というわけではない。もう一人の自分というには、どうしても交わることのない性格があり、平行線を描いている自分がいるのだ。それはまるで、

――五分前を歩いている自分――

 を見ているようだ。

 小説を書いていて奇妙な話を考えている時には、いつも時間や時計という発想が頭を離れない。前を歩いている自分を見ることはできないが、数秒後には、目の前を自分が歩いているという意識はある。ただ、そうなると、時間の区切りによって、平行線を描いている自分が無数にいることになる。題材としては魅力的なことだが、現実的に小説で描くのはかなりの無理があるだろう。

 自分を複数感じるのは、それだけ無意識に、寂しいという感情を押し殺しているからなのかも知れない。

 五分前を歩いている自分を想像してみると、一つの疑問にぶち当たった。

――五分前の自分は、今の自分と本当に同じ人間なのだろうか?

 という考えである。

 少なくとも今、五分前を考えている自分と一番の違いは、五分前の自分は、さらに五分前の自分の存在をまったく意識していないということである。あと数分すると意識することになるのだろうが、本当に意識するのだろうか? あくまでも可能性の問題であって、まったく同じ考えや行動を描くものだと思えば、それはすごいことのように感じる。それだけまわりも寸分狂わず五分を過ごすはずだからである。

 同じ人間だとすれば、却ってまったく同じ行動を取るのを不思議に感じるのだ。さっきまで何の疑問も感じずに、ただ何かを考えているということだけは確かであったが、五分も経つと、その時に何を考えていたのかなど分かるはずもない。時計を見ながら考えたりしないからだ。

 五分という単位を考えなければどうだろう?

 自分を中心に、前後に鏡を置いた時の感覚を思い浮かべれば、無限に自分の姿を映し出す鏡を見ていて、目を離すことができずに釘付けになってしまうことだろう。無意識であっても、おかしな感覚に包まれて、時間の感覚すらなくなってしまっているに違いない。

 一人の部屋に帰りついて、ソファーになだれ込んだ瞬間、鏡が目の前にある感覚を覚えた。そこに無数の自分が映っていることで、後ろに鏡があることも分かったが、振り向くだけの気力はなかった。

 もう一人の自分を意識したからなのかも知れないが、鏡を見たのが眠りに就く前だったのか、それとも夢の中でだったのかも分からない。

――夢なのか、幻なのか――

 夢の方が納得できるが、幻なら少し理屈が必要だ。その理屈がもう一人の自分への思いであり、ただ、理屈をつけるのなら、もう一人の自分を意識させる必要がある。もう一人の自分への説得力は、夢の中にしか存在していないような気がしているのだった。

 今では、その気持ちを納得させるための理屈に寂しさが影響していることは分かる気がした。

 部屋の中に入った時に足元から流れ出た冷気は、室内が真空状態であったという証明でもある鼓膜の痛みに対し、明らかに矛盾している。真空状態であれば、表の空気を取り込もうとして、中に取り込む力が働くはずだ。それなのに身体を引っ張る力は何もなく、足元から冷気が流れてくるだけだった。

 だが、本当はこの現象の方がごく自然なのだ。真空などという意識を持ってしまったのは、真っ暗な部屋の中に、冷気が這い出してくる現象を知った後だった。最初に足元に冷気を感じ、次の瞬間に、鼓膜に違和感を感じた。足元の冷気は、最初から想像の域だったが、鼓膜の違和感は、想像していなかったことだ。むしろ、足元の冷気からの発想が、鼓膜の違和感に繋がったといってもいい。

――ということは、他の時であれば、鼓膜の違和感を感じることはなかったというのだろうか――

 体調が優れず、全身が敏感になっていたことで、今まで意識もしていなかった鼓膜の違和感を、いつも感じていることのように思うのは錯覚に違いない。それだけ普段は感じたとしても、錯覚に感じてしまうほど微妙なものなのだろう。

 そういえば、一番怖い夢というのはどういう夢なのかということを考えたことがあった。中学生の頃に考えていたと思うが、今でもその時に考えていたことを思い出すことができる。

――もう一人の自分が夢の中に現れるのが怖かった――

 もう一人の自分が、夢を見ている自分を見ているのだ。その夢に出てくる主人公は自分であり、夢を見ている自分がいる。夢を見ている時はそんな意識を感じないのだが、夢から覚めて夢を思い出すと、そういうシチュエーションでなければ説明できないのだ。もう一人の自分というのは、第三の自分であり、第三の自分は夢の中の主人公である自分を睨んでいる。

 この時だけ、表から夢を見ている自分の意識が、主人公である自分に移ってくるのだ。急に移ってくるので、目線が完全に違っている。高いところから低いところに移ってきて、しかも相手から見えていないということで、安心していた自分が急に強い視線に晒されたことだけでもビックリするのに、しかも相手が自分だと思うと、完全に萎縮してしまったのだ。

 なぜなら、表から見ている自分には、夢の中でもう一人の自分が現れたことは、分かっていないのだ。誰かがいるのは分かっても、それがまさか自分などという発想は、まったくもって持ち合わせていない。

 中学時代に見たもう一人の自分の夢とは別に、大人になってから見た夢でももう一人の自分を見たことがあった。それがいつのことだったのかハッキリとしないが、たぶん、結婚前だったのではないかと思う。

 もう一人の自分は中学生の頃に見た自分だった。大人になっているはずの自分を、夢の中で見ていたはずなのに、もう一人の自分が現れた瞬間、主人公の自分も中学時代に戻っていた。

 もう一人の自分の横に、一人の女の子がいた。

 その女の子は、もう一人の自分になついている。幼稚園の制服を着ていた。黄色い帽子に黄色い鞄、ふっくらした頬を指で突いてみたくなるほどだった。

 それまで、子供を可愛いと思ったことはなかったのに、もう一人の自分に抱き付くようにしてなついている女の子を見ると、他人事ではない。

 中学生の頃に、

「妹がほしい」

 と思ったことはあったが、ここまで年の離れた妹を想像したことはなかった。せめて三つ違いくらいまでなら想像はできるが、これだけ小さな子供に対して中学時代の自分が、ここまで優しい顔をできるということにビックリしていた。

――こんなに満面の笑みを浮かべているのに、どこか寂しそうに見えるのは、どういうことなのだろうか?

 笑みがあまりにも満面なので、却って、寂しさが底知れないものに感じられて仕方がなかった。笑みにわざとらしさを感じるわけではない。ただ、

――この子は、自分の本当の気持ちを顔に出すことのできない娘なんだ――

 という意識があった。

 それはあまりにも嵌った表情をしている相手が信じられないと思っている敏夫だからこそ、まるで天邪鬼のような考え方をしてしまうものであった。だが、本当に彼女の気持ちを感じたのは、面と向かって見つめられている主人公である自分なのだ。

――父親を見つめる眼差し――

 そう感じた時、

――もし娘ができたら、この子なんだろうな――

 と思わせるに十分だった。

 怖い夢を見るという意識があるということは、夢の中にある本当の真実を見てしまったことへの恐怖なのだと思うようになった。

 となると、それが怖い夢であるがゆえに、見つめられた自分が感じたことは、誰が何と言おうとも、自分だけの真実だと思う。その時に、娘ができるのだと確信した自分を感じたのだった。

 以前ほしいと思っていたのが妹で、今は娘がほしいと思っているということは、自分がそれだけ年を取った証拠だとも言えるだろう。敏夫は、そんな時に夢を見た。それは自分と美沙、そして娘の三人で暮らしている夢だった……。

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