第4話 第4章

 真美が小説を書くようになったきっかけを聞いた時、初めて真美に父親がいないのを聞いた。

「お父さんがいなくて、最初は寂しかったんだけど、小説を書くようになって、寂しさがなくなってきたの。寂しさを紛らわすために小説を書き始めたわけではないんだけど、小説を書くことで寂しさが紛れるなんて、思ってもみなかったわ」

 その話を聞いて、敏夫は真美の本当の寂しさは表に出てきていないところにあるのを感じた。敏夫が真美に興味を持ったのは、そこだったのだ。

 寂しさを表に出さないようにしている人は、寂しさに敏感な人にとって、この上なくいとおしく感じるものだ。敏夫にとって真美はこの上なくいとおしい相手として目に映ったのだ。

 寂しさが甘えに変わるのであれば、真美に甘えてほしかった。甘え下手に見えたが、それは他の人に対してであって、自分に対して甘えてくれるなら、それだけで敏夫は真美がまるで自分の娘のようだと思えるだろう。真美は敏夫に対してそれほど甘えを見せていないように見えたが、甘えの裏返しが照れ臭さであると分かると、敏夫は、なるべく真美に話しかけるようにした。

 敏夫は、他の人から鬱陶しいと思われるほどうんちくを傾けるところがあった。自慢したいという自己満足を満たしたいという気持ちがあるからで、最近ではあまり言わなくなったが、却って今くらいの年齢になった方がうんちくも本格的になり、説得力があるに違いないのは皮肉なことだった。

 真美に対しては、うんちくを傾けることが多かった。ただ、それは子供に対して親が自慢したいというようなイメージで、自然と出てくるものだった。

――お前のお父さんは、偉いんだぞ。だから自信を持っていいんだ――

 自分に子供がいれば、一度は絶対に考えることであろう。特に相手が娘であればなおのこと、敏夫は真美に対して娘であるというイメージが強いことを再認識したのだった。子供への自慢が自然であれば、無意識であったことも疑う余地のないことだったに違いない。

 そういえば、昔付き合っていた美沙は、父親に対して憧れのようなものを抱いていた。もっとも憧れと言っても、自分の父親に対してではない。誰か架空の人物を父親として創造し、その人に憧れていたのだ。

「まるでシルエットみたいで、その人の顔は思い浮かばないんですけどね」

 と話していた。

「どうして自分の父親ではないの?」

 と聞くと、露骨に嫌な顔をした美沙だったが、その顔を見ると、敏夫はそれ以上何も言えなくなった。完全に自分が睨まれていて、二度とそのことを口にしてはいけない雰囲気に包まれたのだった。

 美沙が憧れた父親像は、敏夫に似ていた。美沙と付き合い始めた頃、

「まるでお父さんみたい」

 と言って、笑っていたのを最近思い出した。夢で見たことで思い出したのだが、若い頃に、

「お父さんみたい」

 と言われても、ピンと来るはずもない。今でも子供を持ったことがない敏夫なので、実感として湧いては来ないが、ピンとくるくらいまでにはなっている。

 真美を見ていて、娘のように感じるのは、美沙から言われた言葉を思い出したからなのかも知れない。美沙にとっての父親像が、今から思えば少し歪んでいたように思うのは、初めて美沙の父親と会った時、

――本当の親子なのか?

 と思うほど、雰囲気も性格もまったく似ていないように思えてならなかったのだ。

 敏夫も自分の父親と自分を比較して、本当に親子なのかということを気にした時期があった。それは自分に限らず、誰にでも一度は感じるものだと思っている。それを証明してくれたのが美沙であり、ただ、美沙は自分の父親が本当の父親ではないということを、ずっと思い続けていたようだった。

 敏夫の場合は一過性の感覚で、

――父親に違いない――

 と、すぐに感じたので、一過性であるがゆえに、父親を疑った時期というのは、誰もが通る道として、意識することなくただ通りすぎて行ったものとして、思い出すこともなかったのだ。

 ただ、美沙の場合は、一過性ではないと最初から感じていたようで、考えている間、次第に感覚がマヒしてきたのは否めないが、感覚がマヒしてしまったせいもあってか、慢性化してしまったようだ。

 考えることが慢性化するというのは、意外とあるもので、

――気が付いたら、いつもと同じことを考えていた――

 などという感覚に陥った時、それが慢性化した考え方なのではないかと、感じるのだった。

 美沙の憧れる父親像を自分に抱いていることを知った敏夫は、くすぐったいような気がした。彼氏としてよりも、父親のようなイメージで見られていることで、新鮮な気持ちになったが、男女の関係になってしまうことを懸念する自分もいた。そのせいもあってか、美沙に対して、女性として見る目が、若干衰えていたように思えたが、ある日美沙から言い寄られた時にはビックリした。

「私に女としての魅力を感じてくれないの?」

 それまで見たこともないような妖艶な雰囲気を美沙に感じた。どうやら、酔っていたようだ。酔いに任せなければ、自分も男と女の関係になることができないとでも思ったのか、美沙の中にあるそれまでの苦悩を垣間見ているようだった。

 最初は、さすがにうろたえてしまった。

 美沙に対しての気持ちと、美沙が自分に対して抱いている気持ちとに差があるような気がしているのと、それよりも、美沙の中での気持ちの葛藤を考えると、美沙の態度にそのまま身を委ねてしまうことへの後悔が、後になって起こってくるのではないかと思うと、どうしても本能に委ねることができなかった。

「女の私に恥を掻かせるの?」

 と、まで言われると、さすがに手が震えだし、衝動的に美沙を抱きしめると、後は本能に身を任せるという言い訳の元、時間が二人を次第に一つにつなげていくのだった。

 あっという間だったように感じた時間だったが、気が付けば朝になっていた。貪るような快感を初めて味わった気がした敏夫は、このまま自分が美沙の虜になってしまうのではないかと思った。しかも、それでもいいのだと自らが考えてしまうことに後悔はなく、むしろ、元々願っていたことのように思えてならないくらいだったのだ。

 すべてが終わった後、それまでの美沙はどこにもいなかった。震えが止まらず、怯えきっている美沙を見た時、我に返った敏夫は、自分がしてしまったことに後悔を感じたが、すぐに、

――やってしまったことは仕方がない――

 それまでの不安が消え去ったかのように、美沙を見ることもなく、自分の中だけで解決しようとする気持ちを感じた。

 それでもしばらくは、二人の感情が近づくことはなかった。身体を重ねたからといって、急に相手に対して責任を感じたり、束縛を感じたりするのが嫌だったからかも知れない。そんな思いが自分の中で消化されていくと、美沙に対して愛おしさが深まっていったのだった。

「敏夫さん、本当に私と結婚してくれるの?」

「ああ、結婚しよう」

 結婚ということに対して、それ以上の会話はなかったように思う。あれよあれよという間に、外部の力が働いて、二人は引き裂かれたのだ。

 それからの敏夫はしばらく抜け殻のようになってしまった。無理もないことである。美沙に対しての気持ちもしっかり固まっていたはずなのに、後から思い返しても、どこまで真剣だったのか、疑わしいだけの感情しか残っていない。真剣だった気持ちをここまでいい加減にしてしまうだけの外部からの力に、敏夫は何も考える気力も失せてしまったのだ。

 結婚した時も、

――結婚なんてこんなものなんだ――

 と思うほど、アッサリした気分だった。一番好きな相手と一緒になったわけではないことは自分でも分かっていたし、元女房も最初から分かっていたようだ。それでもいいという相手だったからこそ結婚したのであって、少しでも気にする相手であれば、結婚などするはずもなかった。

 考えてみれば、嫉妬してくれる方が、自分のことを真剣に考えているのだから、ひょっとしたら、離婚もせずにうまく行っていたのかも知れない。元女房と離婚するに至った時に、

――こんなに冷静な女だったんだ――

 と、今さらながらに思い知らされた気がした。冷静なところがあるのは分かっていたが、すべての態度がまるで事務的に感じられ、離婚する時に、どこかで自分が切れてしまったことを意識できた。しかし、どの段階だったのかというと曖昧で、気が付けば、切れていたというべきであろう。

 離婚してから、何人かの女性と付き合ったが、その誰もが元女房よりもさらに冷静な女に感じられた。

 事務的な態度は腹立たしさを呼び、打算的な態度に見えてくると、もう相手が信じられなくなる。

 セックスも事務的だった。恩着せがましさを感じてしまうと、ウザったさしか残らない。次第に女性というものに対して嫌悪感を持つようになり、しばらく女性と付き合うのが嫌な時期があった。

 それでも、寂しさだけは人並みにあった。何を寂しいと感じるのか分からないが、一人でいることが気楽だと思っていたはずなのに、どこに寂しさがあるというのか。寂しさというのは、いつでもどこでもその人のそばにあり、それを感じるか感じないかというだけの問題なのかも知れない。

 男性が女性を求める、女性が男性を求めるということは、言葉をいかに変えようとも、

――寂しさを解消させる――

 という気持ちが真実であり、別れが訪れるのは、その人では本当に寂しさを解消できないということを感じた時に、別れるという言葉が頭を過ぎり、そのことを感じてしまうと、別れという事実に引き寄せられるように動いてしまう。それが無意識であればあるほど、別れの原因が曖昧になり、

――相手を嫌いになったからだ――

 という理由に自分を納得させようとする作用が働くのだ。

――美沙のような女は、もう現れないに違いない――

 と頭の中で分かっていても、それでも女性を求めてしまう。いつのまにか事務的な態度に対しても慣れてしまい、ただ、女性を求めることだけが、自分の寂しさを紛らわせる手段でしかないと思うようになっていくのだ。

 美沙が自分にとってどれほどの女だったのかというのを、本当に思い出すことはできないだろう。

――美沙のすべてを知っていたわけではない、もっともっと知りたいと思う。だから、離れられないと思うのだし、好きだという感覚は嘘ではないと自分を納得させることができるのだ――

 と思うようになっていた。

 女性と惰性のように付き合うようになると、どれほど毎日が波乱万丈であろうとも、長い目で見れば、

――何も変わらない日々が、流れるように過ぎていった――

 と感じるだけだ。

 年齢を重ねるごとに毎日があっという間に過ぎる気がしていたのだが、女性と惰性で付き合っているということを自覚するようになったことで、毎日に少し変化を求めるようになることが、あっという間に過ぎないようになるだろうと思っていた。

 毎日の変化だけでは、あっという間に過ぎないようにはできなかった。根本的なことから何かを変えないといけないと思っていた。そのうちに毎日が少しずつ変わってきているような気がしたのだが、それが自分の女性の好みの変化にあるのだと気が付いた時、少しビックリした。

――女性の好みが、そう簡単に変わるわけはない――

 もし変わるものだとすれば、自分の性格が優柔不断であるということを証明しているようなものだ。

 結婚ということについても、離婚してすぐは、

「いい人がいたら、再婚したい」

 と思い、最近逸りのお見合いパーティにも積極的に参加した。年齢的には幅広い人が参加していて、年齢別と言いながら、主催者側も少々年齢設定から外れていても、委細構わないといった感じである。

 四十歳代中心のパーティに、平気で二十代の女の子が参加している。大勢で参加している人もいるが、単独で参加している人もいる。

 中には真剣に結婚相手を探している人もいるだろうが、中にはいかにも、

――サクラではないか?

 と思しき人もいる。

 どちらも、「中には」という発想なのは、実際にどちらが多いのか、さっぱり分からなかったからだ。

 人は見かけによって、どちらとも取れる。同じ人でも右から見たのと左から見たのとでは性格がまったく違って見える人もいる。団体を違う角度から見れば、全然違う様相に見えるのも仕方がないことで、全体を見渡しても、一人一人を見ても、まったく違って見えてくるから不思議であった。

 結婚というものも同じようなものではないだろうか。

 まったく知らない相手と、これからずっと一緒に過ごしていこうというのだから、少しでも違う角度から見た時に、果たして自分の許容範囲であるかどうか、大きな問題だ。結婚する前にそのことが分かれば、まだ対処もできるが、結婚してしまってから、

――しまった――

 と思ってもあとの祭りである。

 いくら離婚が昔のように大っぴらな恥だと思わなくなったとはいえ、一度離婚経験のある人間には、

――そう何度も、あの時のようなエネルギーを使いたくない――

 と思うことだろう。

「離婚は、結婚の何倍もエネルギーを使うものだよ」

 と言って、離婚を考えた時にまわりの人からの説得に、このセリフがあった。離婚前には分からなかったが、実際に離婚してしまうと、どれだけのエネルギー消費があったか、今さらながらに思い出すだけでも、気分のいいものではない。

 結婚した時のことを思い出すと、

――結婚にもまわりを説得するのに思ったよりも気を遣った――

 と思うのだが、離婚は誰を説得するものではない。ただ、自分が離婚という現実を受け止められるかどうかの問題である。

 それなのに、エネルギーは離婚の方が何倍も大きいのだ。

 それは、離婚した後と結婚した後で待っている自分の人生の開きが決定的だからであろう。結婚を人生の頂点だと思っている人にとっては。

――結婚さえしてしまえば、あとは二人で幸せな人生を作っていけばいいのだ――

 と思うのだろうが、離婚を目の前にすれば、

――寂しさと後悔、そして何よりも幸せだと思っていた今までの人生をすべて否定されたような虚しさが残ってしまう――

 この思いこそが、エネルギーを一気に使い果たす原因になっているのだろう。

 今までの自分を否定することがどれほど大きなことか。それは前を見ることができなくなってしまったことを意味している。前を見ることができないと、まるで、真っ暗な中を一歩足を踏み外せば、底のない奈落に突き落とされるような道を歩かなければいけない気分であった。奈落の底なら、まだ底がある。しかし、底のない場所は、絶対に這い上がってくることのできない場所である。そんなところにいなければいけない自分は、夢とうつつの間を彷徨っているだけで、出口の見えない暗黒がエネルギーを勝手に吸い取っているのだった。

 後悔の中で、生まれるものもある。

――諦めは何も生まないが、後悔は先を見つめるためのものでもある――

 本当は後悔をするくらいなら、しない方がいいと言われることが多いのだろうが、敏夫はそうは思わない。後悔をしても、それを糧に次の人生に生かすことができれば、それは有意義なものになるのだと思うからだ。

 もちろん、反省をしないと後悔はただの諦めに変わってしまう。後悔は、考え方によって反省に変わるか、諦めに変わるかの分岐ではないだろうか。もし、こんなことを他の人に話すと、

「お前の考えは歪んでいるな」

 と言われるかも知れない。

 だが、それも一度離婚という人生の後退を経験したことのある人間だから感じることのできるものなのではないかと思うのだった。

 四十歳になってから、再婚をしたいという思いはほとんどなくなっていた。

 女性と付き合ってみたいという思いはあるのだが、結婚することで、お互いに何のメリットがあるのかという思いに駆られてしまうのだ。

 相手が同い年くらいであれば、子供もなかなか望めない。また、子供がいる人と結婚したとして、自分の血の繋がっていない人を、果たして子供だと思えるかどうかと言われれば、疑問である。結婚相手の子供という意識を持ってしまうと、却って他人だという意識が強くなり、子供だという意識を持つことが難しいのではないかと思うのだ。

――真美に対して、娘のように思えるのに、何か矛盾しているようではないか――

 と、自分に問いただしてみるが、納得のいく答えなど見つかるはずもない。見つかるはずもないと思いからこそ、真美を娘のように思えるのかも知れないと思うと、矛盾の中にある矛盾が、プラスに作用するのではないかと思うと、納得はできないが、無碍に納得できないと萎縮してしまうこともないだろう。

 別れた女房と結婚するきっかけになったことも、ほとんど覚えていない。まるで遠い昔のことを思い出そうとしているようで、

――思い出せないのは当然のことだ――

 と自分に言い聞かせているような感じであった。

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