第3話 第3章
最低ラインから次第に這い上がってきたのは、趣味を持つようになってからだった。
ただ、一つのことに興味を持ってもすぐに諦めてしまう性格は以前からあったことだ。実際に中学の時の絵画にしても同じだったが、それでも、
――趣味を持ってみたい――
と思ったのは、悪いことではないだろう。
四十歳になった今でも趣味を持つためには何かきっかけがいる。
本を読んで感動した小説を見て、読書に嵌ったこともあった。人からもらった券で映画に行くと、意外と面白く、映画を見歩いたりしたこともあった。趣味といっても、受け身のものが多く、ただ、映画にしても読書にしても、芸術的なことに親しむのは嬉しいことであった。
高貴な気分にさせてくれるという思いもあり、その瞬間だけが、どん底から這い上がっている自分を想像することができた。
ただ、そのどれもが自分のモノとなったわけではないので、中途半端であったことは否めない。
自分のモノになったという意識を持つこと自体がおかしいのだ。受動的な趣味は、自分のモノになるという感覚ではなく。あくまでも、教養を深めるなどの補助的なものなのだ。それを自分のモノにしたいという感覚を持ちたいであれば、自分から小説を書いたり、脚本を書いてみたりということをしてみないと、自分のモノだとは言えないだろう。
――俺は、自分の何かを残したいと思っているのだろうか?
それが自分のモノだという考えであれば、その通りだ。
世間に公開されるものでなければいけないというほど大それたものではない。自分で作るものを完成させたいだけなのだ。
ただ、学生時代から芸術的なことは絵画以外ではまったくの苦手だった。絵画に関しては、もう一度描いてみようという気持ちになることはなかった。絵画も描き上げれば、自分のモノであることには違いないのに、絵に関しては他の芸術と違って、もう一つ足を踏み入れるには必要なものがあると感じていた。
それはきっと、中学時代に描いた絵を褒められた経験があるからなのかも知れない。
小説や文章などは、最初から眼中になかったので、まったくまっさらなものからであるが、絵画は一度褒められているだけに、その時に少し調子に乗って、自信を持って描いてみようと思った。
一度褒められると、
――もっと褒めてもらいたい――
という感情が働くことで、
――さらに上達するにはどうしたらいいか――
ということを絶えず考えていた。
その内容は、バランスであったり、遠近感であったりと、段階を踏まえて感じていくものだったのだ。
それだけに、鈍っているかも知れない勘を取り戻さなければいけないという思いと、一度中学くらいまでのレベルに戻っても、そこから先が遥かに長いのは分かりきっていること、とにかくいくつもの段階があることは分かっている。大きな段階としても、まずは中学時代の段階に戻ることが不可欠であった。そこが節目であり、そこから先は新たに足を踏み入れる段階になるのだ。
最初に小説を書いてみようと思ったのは、電車の中で一人の女子高生が、カバンの中から取り出した小説を読んでいるのを見たからだった。
その娘のことが気になり始めたのは今から十年前の四十歳少し前くらいのことだっただろうか?
気になる女の子がいたというのは、最初は自分の性癖でセーラー服が気になったからだったが、次第に見ているうちに、どこか懐かしさを感じさせられたからだった。
今までに女の子を見て、懐かしいという感情が浮かんでくることはなかった。誰かを見て、
――誰か知っている人に似ているだろうか?
と、感じながら見たことは今までにはなかった。それなのに、気になった女の子に懐かしさを感じるのは、誰か知っている人に似ていると思ったからであろう。
しかし、それが誰なのか、ハッキリと分からない。見た記憶があるのかも知れないが、それが誰なのか分からないというのは、自分の中に意識がないからなのかも知れない。
その女の子を、電車の中で見かけたのは一度だけではなかった。一度だけであれば、次の日には忘れていそうなものだが、彼女とは、もう一度会えるような気がしていた。それは、最初に彼女を見た日の夜、夢で同じような光景を見たからだ。
同じような光景というのは、まったく同じではなかったからだ。シチュエーションはほとんど同じだった。何が違ったかというと、女の子の表情が違ったのだ。表情も違えば、顔も違って感じられる。
電車の中で見かけた時は、こちらをまったく意識する素振りもなく、敏夫の方が意識しているだけだった。しかし、夢の中ではまったく逆で、彼女の方が敏夫を意識していて、敏夫は見つめられることを恥かしく感じ、まともに顔を合わせることができない。ただ、どんな表情なのか分かるのは、夢の中ならではと言える。まるで耳に目が付いているかのようだからだ。
夢でも見るということは、それだけ意識しているからであろうが、表情が違っているというのはどういうことであろうか? 同じシチュエーションなのに表情が違っている。しかも立場が逆に感じられるということは、彼女の雰囲気から、彼女の性格などを想像した時、夢の中のような行動をするのではないかと思ったからなのかも知れない。
夢というのは潜在意識が見せるものだというが、これが潜在意識であれば、見つめられて恥じらいを感じる自分の性格が、本当の自分なのではないかとも、考えられるのであった。
電車の中で見かけた彼女を、また今度も見ることができると感じたのは、夢を見たからである。正確に言えば、夢の中で感じたことだった。
夢を見ている時に、
――今、俺は夢を見ているんだ――
と感じることがあるが、その時もまさにそんな感覚だった。夢を見ているからこそ、自分を客観的に見ることができると思うのであって、客観的に見ている自分を感じると、その時、夢を見ているということに気付くのだ。
夢で見た光景を、今度は現実に見るということもある。実際に数日してから、この間の女の子が同じ席に座って、本を読んでいた。この間とは違う本のようで、厚みが違っていて、この間よりも分厚い本を読んでいた。
彼女の視線を感じた。痛いほどの視線である。これは夢で見たのと同じ視線で、夢と同じように恥かしさで顔が赤くなるのを感じた。
――正夢だったのか?
夢で見たのを思い出したのは、見つめられたのを感じた時で、彼女を発見した時ではなかった。夢とは、潜在意識が見せるだけではないものもあるのではないかと感じたのは、その時が初めてだったのだ。
制服なので服装に変わりはなかったが、髪型が前と変わっていた。以前は前髪を下ろしていたが、今回はポニーテールにしていて、少し活発に見えた。
――よくこの間の女の子だと分かったものだ――
と思うほど雰囲気は違った。夢で見た時にも雰囲気が少し違った気がしたが、髪型が違ったわけではなく視線が違ったからだ。実際に見た時は髪型も違ったし、視線も違った。それでも、以前に見た女の子だと分かったのは、夢を見た時に感じた視線を自分の中で覚えていたからに違いない。
あの時、どうやって声を掛けたのか、自分でもハッキリと覚えていない。ただ、彼女の視線に吸い寄せられるように近づいていくと、気が付けばすでに会話になっていたのだった。
彼女の名前は、門倉真美と言った。
「可愛らしい名前だね」
「おじさん、ありがとう」
と、名前を褒められて、嬉しかったようだ。きっと気に入っている名前なのだろう。敏夫も自分に子供がいたら、真美と名付けるかも知れないと思った。
真美は、敏夫のことを「おじさん」と呼ぶ。敏夫もおじさんと呼ばれて、嫌な気はしなかった。
「おじさんって呼びたいんだけど、いいですか?」
さすがに名前で呼ばれるのは照れ臭い。まだおじさんと言われる方がいい。真美も最初はおじさんと呼ぶことに照れ臭さがあったようだが、慣れてくると、わざと呼ぶことで楽しんでいるようだった。
敏夫は自分のことも「おじさん」と呼ぶようになっていた。
「おじさんはこれでも、気分的には二十代のままなんだよ」
というと、
「二十代でおじさんって言うの、おかしい」
と言って、真美は笑っていた。
「おじさんって自分から言うのは、真美ちゃんと一緒にいる時だけだよ」
と言うと、
「真美って呼んで」
と、甘えてくる。
最初は、物静かに見えていた真美は甘え下手だと思っていたのに、一旦話が合ってくると、甘え下手どころか、本当の娘であったかのような雰囲気に、すっかり若返った気持ちが再度リセットされ、父親になった気分になることで、至福の悦びを感じるに至るのだった。
娘が本当はいるのに、今までは意識していなかった。真美を意識するようになると、今度は娘がいたことを認識はするのだが、意識はしない。自分の娘は真美なのだと思い込んでしまうのだ。
本当の娘を意識していなかったのは、意識してしまうと、寂しさが募ってくるからなのだと思っていたが、どうも違うようだ。寂しさは自分から見た勝手な発想であり、娘がしてほしいことを自分が父親であった時にしてあげられたかどうかも分からない。父親らしさなど、自分の中にかけらもないのだ。
――それは今までのことで、真美を知った俺は違うんだ――
今まで自分の性癖を、ロリコンだと思っていた敏夫だったが、実際は娘を見ているつもりだったことに気が付いた。
「お前はロリコンだな」
と言われるより、
「自分の娘のような目で見ている」
という風に思われる方が恥かしかったのだ。だから、自分でも娘を見ているような目をしているということを認めたくないという思いから、ロリコンを装うようなイメージを、まわりに植え付けようとしていたのかも知れない。
真美という少女は、謎が多かった。
――なるべく、真美のすべてが知りたい――
と思いながらも、慎重に聞いているつもりでも、敏夫の質問に対して、一喜一憂を繰り返す真美には、人に言いたくないような過去が潜んでいるように思えていた。
それでも、何か気持ちのつながりを感じるのは敏夫だけではなく、真美の中にもあるのだろう。甘え上手な姿は敏夫を快楽の世界に導いてくれる。
敏夫は、以前から本を読むのは苦手だった。本というよりも文章恐怖症であり、読み始めると、すぐに挫折していた。
しかし、最初に挫折しなければ、そこから以降はスラスラと読めてしまう。つまりは、最初のある段階を通り超えるまでが難関だということだ。
敏夫には結論を急ぐ習性がある。読んでいて回りくどい書き方をされてしまうと、斜め読みになってしまい、答えだけを求めようとする。本当であれば、文章でしかないので、情景を思い浮かべたりできるわけではないので、クドクドとした説明があるのも当然のことであるが、ついセリフだけを拾って読む癖がついてしまったことで、最初に情景が浮かばなければ、そこで読むのを断念してしまうようになってしまっていた。
真美にも同じところがあったのだという。
「小学生の時、国語のテストは最悪だったわ。文章を読まずに、すぐに答えを出そうとしてしまうですからね」
「時間はたっぷりあるのに……、だろう?」
「うん、そうなの。どうしてこんな風になっちゃったんだろうな? おじさんはそんなことなかったでしょう?」
「いやいや、おじさんだって同じさ、時間配分よりも何よりも、問題の題材になる文章よりも先に、問題の方を読んでしまうんだ。最初に問題を読んじゃうと、今度は本文の方を読む気力がなくなってくるんだ。おかしなものだよね」
「でも、真美は本をちゃんと読めるようになったんだよね?」
「ええ、そう。今では読むだけではなく、自分でも書いてみようと思うようになったのよ。人が書いた本を読むにしても、きっと他の人とは違った観点から見るようになっているのよ」
「どういうことだい?」
「私が書いてみたいと思ったのも、本を読みながら、自分の中で他の人と違った観点から読んでいるんじゃないかって思ったことがきっかけだったの。きっかけなんてどこに転がっているか分からないものだけど、でも私は自分が読めるようになったのは、読むためではなく、書くために読むことができるようになった気がしてきたの。一足飛びの発想なのかも知れないけど、そう思うと、読めるようになるまで時間もかからなかったし、読めるようになったことで、何となく書くこともできるという自信が、きっと他の人が同じことを考えるよりも、強いものになるって思うようになったからなのかも知れないわ」
「俺には、とてもそこまで行きつくことはできないような気がするけど、書いてみると、少しは違った世界が見えてくるかも知れないな」
書きたいと思ったことも事実だが、真美と共通の趣味を持つことで、会話の幅が広がるのが嬉しかった。だが、書いていると、実際に感じているよりも、楽しく感じられるようになってきたのだが、それがどうしてなのか、すぐには分からなかった。
真美を見ていて、その横顔に魅力を感じている自分に、敏夫は気付いていた。それは、小説を書いている時の視線であり、普段見せる可愛らしさとは違ったものであることが分かったのは、少ししてからだった。
「私は、小説を書くようになってから、人と話す機会がグッと減ってきたんです。元々、クラスメイトや友達と話すくらいだったんだけど、小説を書いていると、その会話をする時間がもったいなく感じられるようになったのよね」
その気持ちは分かる気がする。自分の世界に入り込んで書いているのが小説である。ある意味、自由な発想が自分の中でナルシズムを作り上げることもあり、まわりの会話が自分の発想の邪魔になるくらい低俗に感じられるほどになると、会話をするのが時間の無駄と考えてしまうのも無理のないこととなるだろう。
真美という女の子は、高校生にしてはしっかりした考えを持っている。趣味と正面から向き合っていて、自分の高校時代とは雲泥の差である。そんな真美と知り合えたのは新鮮な気がする反面、自分の過去を思い出して、まるで無駄な時間を過ごしていたことを思い知らされたようで、知りたくなかったことを思い知らされたようで、少しショックであった。
それでも敏夫は、高校時代に戻って、やり直したいとは思わない。この年齢から遡るには、あまりにも道のりが遠すぎるように思うのだが、もし、一年くらいの時間であっても、時間を戻してやり直したいとは思わない。その理由は、まわりすべてが、同じ時代に戻るということしか発想できないからだ。
その時代に、今の意識のまま戻るのか、時間も自分の意識もすべてが遡るのかによって、考え方がまったく違ってくる。
すべてを戻してやり直すのであれば、また同じ過ちを繰り返さないとも言えないが、かといって意識をそのままに遡ってしまうと、今度はまわりすべてを知ってやり直すことになるので、それだけの責任がある気がするのだ。そんな大きな責任を背負ってまで繰り返す人生、あまりにも大きすぎて、押し潰されないとも限らないと感じるのだ。
四十歳を超えて、まるで娘くらいの女の子と知り合うのは、忘れていた胸の高鳴りを思い出させてくれる。しかも、それは確かに過去に感じた覚えのある高鳴りで、忘れていたのか、それとも自分で封印していたのか、もう一人の自分と対話しているかのようで、真美に対しての想い以外に、自分の中に感じるものを見出すのだった。
小説を書けるようになったのは、もう一人の自分との対話を意識するようになってからだ。胸の高鳴りについて聞いてみると、もう一人の自分は答えてくれる。言葉で聞いたことを感じるなどありえないと思っていたのに、もう一人の自分の言葉は胸の奥を打ち、明らかに胸の高鳴りのその理由を、自分に感じるよう、答えをそよぐ風のように与えてくれるのだった。
それでも、最初はなかなかうまく書けない。
「最初から、うまく書こうなんて思うからだよ。最初は、とりあえず最後まで書いてみるという気持ちで書き始めればいいんだ」
「途中で辻褄が合わなくなってくるんじゃないかな?」
「それでも強引に書いていけばいい、そのうちに辻褄が合うようになってくる。まずは、書き上げることがどういうことかというのを感じるのが大切なんだよ」
心の中での会話を思い出していた。言葉尻に正確さはないとはいえ、おおむね間違ってはいない。なるほど、書き上げることが大切、ゴールを見てみれば、そこにあるものが自分に何かを教えてくれるかも知れない。
そうは言っても、なかなか最後まで書き終えるのは至難の業だった。落としどころをどのようにするかも大切なこと、少しずつ文章を長くしていけるようになると、膨らみすぎた内容を収めるのも、難しいものだ。
「始めるのは簡単だが、いかに終わらせるかが重要だ」
というのは、世の中には案外と多いものである。
話を書き始めると、書いていて、いろいろなことが頭を過ぎる。それを枝葉のようにして書いていくと、最後には、どこで収めていいのか分からなくなるからだ。どうしても、文章を続けようと思うと、思いついたことに飛びついてしまうのは無理もないことで、初心者はどうしても、陥るところでもあった。
敏夫も、最初収拾の仕方で迷ったものだ。それでも何とかまとめてみると、書き上げた喜びがこみ上げてきた。どんなものでも完成すれば嬉しいものだ。書き上げることができた最初の作品は、公表できるほどの作品ではないが、印刷してバインダーに綴じ、大切に保管している。今でもコンクールに応募してみたりはしているが、一次審査に通過したころはない。書き上げることができるようになった時は、
「いずれは新人賞でも狙って、作家の道を」
などと考えたりもしていたが、さすがに一次審査に通過できない実力では、自分の驕りを感じないわけにはいかないだろう。最近では、新人賞を狙ってみようとは思いながらも、それはダメ元であって、趣味として楽しむ時間を持てることが一番の喜びだと考えを改めるようにしていた。
真美も同じような話をしていた。
「真美は、まだまだ若いんだから、狙ってみてもいいかも知れないよ」
と、応援してあげたい気持ちで話をしたが、
「自分の実力は分かっているつもりなのよ。それにね、もし新人賞を取っても、作家として生きていくかと言われたら、微妙な気がしているの」
「どうしてだい?」
「私が現実的過ぎるのかも知れないけど、作家になるには、それなりの素材が必要だと思うの。それは性格的なものが含まれていて、私にはとても作家になれるような性格は持ち合わせていないし、技量も追いつかないのよ」
冷静に自分を見つめてから話をしているのか、それとも出版業界のこと、作家になってからの生活を考えたりすることで、どうしても現実的にならざる負えないのではないだろうか。
真美と敏夫が書く小説のジャンルはまったく違っていた。
ミステリーを考えようと思っている敏夫と、歴史小説に興味を持っていて、フィクションの歴史小説を書いているかと思えば、現代小説での恋愛モノを書いてみたりする真美の頭はどのようになっているのかと、敏夫は考えていた。
人それぞれに得意ジャンルがあるのだろうが、プロの中には、まったく違うジャンルでそれぞれに高い評価を受けている人もいるが、素人作家でまったく違ったジャンルを書こうとするのは、結構難しいことだろう。少なくとも敏夫にはできないと思った。
敏夫は小説を書く時、まるで夢を見ている気持ちになって書いていた。自分はあくまで傍観者、感情は主人公に移入しているのである。大きな目でストーリーを見ながら、感情は主人公にある、だが、主人公から感情が離れて、対面している相手から見ることもある。その時、主人公が何を考えているか分からなくなり、ここで、章を区切ったりしたものだ。流れるように書いている中に、起承転結を入れるのは難しいものだ。
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