第8話 ケーキと真面目


 食堂で弘と別れてから、僕はすぐに講義室に向かった。


 補講が始まるまでには、まだ十二分ある。講義室は百人は座れるくらいに広いが、座席に人はポツポツとしか埋まってない。僕は真ん中より少し後ろの左端に座っていた。

 すぐ左には窓があり、ペンキをぶちまけたような青空に、見ているだけで汗だくになりそうな真っ赤な太陽が昇っていた。

 僕は特にすることがないので、虚空を見つめて考え事をしていた。最近、こういう時間が多すぎる気がする。


 真城さんとした、あの約束は、結局何だったのだろう?

 特に三つ目のマンホール。雪女はマンホールが嫌いなのか?そんなこと聞いたことないけど。逆に好きだから踏みたくないのか?


 やはり最近、新たに考えることが毎日のように新しく湧いて出てきているような気がする。退屈ではないし、興味深くはあるのだが、少し疲れてくる。小さな溜息をついた。


 後ろから、トンと肩を叩かれた。振り向くと、爽やかな笑顔をした真城さんがいた。


「おはよう」


 かわいい。ただひたすらそう思った。疲れがぶっ飛んだ。


 僕も「おはよう」と平静を努めて返した。心臓の鼓動のせいで、声が歪んだような気がする。


「って言っても、もうお昼だけどね」

 こう言って、真城さんは右肩に掛けていたトートバックを机に置き、右隣の席に座った。


「郵便局に行ってたらちょっと遅くなっちゃった。中野くんは?」


「さっき会ったけど帰った」


 Gカップを見に行ったとは言えるわけがない。


「だんだん、講義に出なくなってるね」と真城さんは苦笑いしながら言った。


「あいつに限った話でもないけど。四月とか五月は満室に近かったのに、少し前はもう半分もいなかったし。今日は補講だからなおさらだ」


「まぁ、そんなもんかもね」


 僕は周りを見回す。今日の講義は言ってしまえば出席点は出るが、来ても来なくてもどっちでも良くて、来る奴なんてのはテストの点が不安で少しでも出席点が欲しいか、よほどの暇人か、クソ真面目な奴だけだろう。僕は最後の二つに当てはまっている。


「夏休みが終わった後期の授業では、もっと少なくなるだろうな。僕は来たけど」


「マジメだもんね」


「そう、マジメだから」


 小さく笑いながら言葉でじゃれ合う。


 正直、二年でも同じような補講があったら来るかどうか分からない。というか来ないような気がする。今日だって、真城さんと会えるかもと思ってなかったら来てた可能性は三十パーセント減だ。

 入口の大きなドアが勢いよく開いた。眼鏡をかけた気難しそうな教授が教壇に歩いて行き、マイクの準備を始めた。


「先生来たね」


「先生も面倒くさそうだな」


 真城さんとニコニコしながら、教科書やボールペンを机の上に並べ始めた。





 教授はパイプ椅子に座り、マイクを片手に喋っていた。この人の話はどちらかと言うと分かりにくい。

 天井からぶら下げているプロジェクターで黒板の前に下したスクリーンにスライドを映している。その上をレーザーポインターの光が素早く走っている。


 黒板の方を見ようとするが、真城さんの左手が目に入って、そっちばかり見てしまう。集中しようと思ってもできない。白い綺麗な手で、指が長くて、爪も整っている。ハンドクリームとか指輪の手のモデルできるんじゃないか?いや、全身でもできそうなんだけど。

 存分に手を眺めた後にやっと前を見て、視線を講義室の右端と左端の間を行ったり来たりさせる。その間は「この中に混じって雪女が講義を受けてるなんて、先生も生徒も誰も思ってないだろうなー」なんて思いながら、ボーっとしている。


 全然集中できてない自分に、ようやく気が付く。最近、本当に駄目だな……あれこれ考えているかと思うと、急にボンヤリしてしまう。

 結局、教授が「じゃあこの辺で終わり」と言うまで、一人で頭を抱えたり溜息をついたりしていた。


「三十分くらい早く終わったね」と隣の真城さんが言った時、僕は心の中で「長かった……やっと終わった」と思っていたから「えっ!?」と声を出して驚いてしまった。僕の突然の大声に、真城さんも「えっ!?」と驚いた。


 僕が一回もページを捲ってない教科書を鞄に入れると、真城さんは背伸びをして「ねぇ」と言った。


「この後、時間ある?行きたい所があるんだ」


 僕は再び「えっ?」と訊き返した。今日の僕はまともに会話する能力を失っているように思う。





 気が付いたら、真城さんとテーブルに向かい合って座っていた。周囲からは甘い匂いが漂い、女性のはしゃぎ声が聞こえてくる。

 補講が終わり講義棟を出たのは、昼の一時半だった。まだ一日の多くを持て余しているのを得に感じるのと同時に、半日を無生産な補講に費やしてしまったことを損にも思っていた。


 僕たちは並んで自転車置き場に向かった。構内は人気が少なく、自転車もいつもなら隙間なく詰め込まれているのに、ほとんど空いていた。不思議な現象を見た気持ちになった。


「どこに行くの?」と聞いても「内緒」とだけ言われて自転車を発進させたから、僕はどこに行くのか分からなかった。


 神社の時もそうだったけど、真城さんは人を連れていく時に行き先を教えてくれない傾向がある。そのミステリアスさも堪らない。タマランチ会長。どんな特性だろうと真城さんが持っていたら、臆病だろうと遅刻魔だろうと加点対象になる説がある。


 真城さんが前で自転車を漕ぎ、僕はその後ろを付いて行った。

 四十分くらい自転車を漕いだような気がする。途中で一回、駅を抜けた商店街で休憩を挟んだ。頭の上には大きな屋根が道に沿って続いていた。四メートルくらいの時計塔の周囲に設置されている木製の椅子に座って、汗を拭いて水を飲んだ。そして再び出発した。


 前を進む真城さんのシャツがはためき、髪はなびいていた。僕は自転車に乗ってる間、そんな後ろ姿を眺めていて、満たされた気持ちになっていた。自転車を漕ぐ真城さんの姿と、周りの道路とかビルとか木々とか、その組み合わせに調和みたいなものを感じてすらいた。何時間でも見ていられるなと思った。この上なくエコな人間だ。自分の事を馬鹿なんじゃないかと思う。


 自分でもよく分からないけど、髪や服がたなびくその小さな波紋までもが、とにかく新鮮で美しいんだ。自分の好きな人が街を歩いている絵があって、彼女を実際に見た瞬間のときめきに似た感情まで閉じ込められている絵が売っていたら、何年働いてでも金を貯めてその絵を買っちゃうと思うんだ。その絵を前にしている感情だ。

 まぁ多分、好きな人が立っていたらどこでも、何を身に付けていても、美しく見えるんだろう。好きって感情は最高の絵具だな、と自分でも恥ずかしくなることを思った。本当に馬鹿なんじゃないかと思う。


 自転車が止まり、目の前の店を見た。ファンシーな店構えで、ガラスの向こうに大量のケーキが並ぶ机が見える。


「ここって」


「ケーキバイキング」


 真城さんは快活に答えた。

 ガラス製の壁越しに店を覗くと女性ばかりで、僕は少し萎縮する。女性用の洋服店に男性が入りづらいのと似ている。でも、真城さんが一緒で、行きたいと言うのならば覚悟を決めるしかない。


 そうして今に至る。

 色とりどりのケーキの並べられたテーブルと、女性たちの群れという慣れないものに囲まれて、僕は多分、落ち着いているようには見えないと思う。


「こういう場所、初めて来た」


「私も初めてだよ。もしかしてケーキ嫌い?」


「いや、好きだけど」


「ならよかった」


 真城さんは皿を持って立ち上がった。僕も同じように立ち、並んで歩き出す。


「来たくて仕方なかったけど、来たことなかったんだ。こういうのって、一人だと来にくいから」


「まぁ、確かに」


 僕は周りを見回す。一人客はいない。あと、店に入った時は気付かなかったが、二人ほど男性の客もいた。どちらも彼女らしき女性に連れて来られたようだった。僕は彼らに親近感を覚える。

 真城さんはとにかくウキウキしていた。


「こんなにケーキばかり並べられてるなんて、美術館みたいだね」


「美術館は食べちゃダメだけどね」


 ケーキは食欲が少し失せそうになるほど並べられている。全て合わせるとどれくらいの砂糖の量になるだろうと思う。どれを選ぶべきか悩んでいると、真城さんは次から次へと片っ端から皿にケーキを載せ始めた。


「ちょっと、たくさん取り過ぎじゃない?」


「いろんなの食べたいからさ、シェアしようよ。シェア」


 真城さんはテーブルに目を向けたまま次々と皿にケーキを載せ続ける。少しだけ恐怖を覚えながらその様子を見ていた。

 これ以上、ケーキを乱獲する必要はないだろう。僕は向こうにあるミートボールやカレーが置いてあるゾーンに向かった。





 皿に並べてあるケーキを左端から順番に平らげていきながら、真城さんはその度に「おいしい!」と生き生きとしたリアクションをしていた。僕はその無邪気な笑顔を見る度に「かわいい」と思った。


「そう言えば、授業中も思ってたんだけど」と僕はハンバーグを箸で割りながら話し始めた。


 真城さんはケーキを頬張りながら「ん?」とこっちを向く。


「雪女と人間がこうやってケーキ食べに来たり授業受けてるのって、珍しいというか面白いよね」


「周りから見たら、景色に溶け込んでいる普通の二人だろうけど」真城さんはフォークの先を加えて少し考えるような仕草をした。「確かにね。ないもん、歌川広重とろくろっ首が、いかのぼりするようなもんだからね」


 正直、いきなり何を言い出したのかと思った。


「えっと、そのたとえはよく分からないけど……というか、いかのぼりって何?凧揚げじゃなくて?」


 真城さんは「あぁそうか。凧揚げに変わったんだっだ」と謎な独り言を言って、説明し始めた。


 現代は電柱があちこちに並んで凧揚げは減ってしまったが、江戸時代は大流行していた遊びで、その頃はイカ揚げと呼ばれていた。あまりにも流行り過ぎて武家屋敷を傷つけたりするので、とうとう法律で禁止されることになってしまうほどだった。

 しかし庶民は数少ない夢中になれる娯楽を続けたくて堪らなかったので、イカ揚げをしている所を見つかり注意されると「これは『イカ揚げ』ではなく『タコ揚げ』だ」と屁理屈をこねたらしい。以後、「凧揚げ」と呼ばれるようになった。一部の地域や子供の間では「揚げ」ではなく「のぼり」と言ったらしい。


「へぇ」と頷きながら、僕はその話を感心して聞いていた。真城さんが当時の見たことを、あまりにも臨場感たっぷりに話すから、ついつい聞き入ってしまった。家の屋根の上に登ってあげたり、凧同士を戦わせたりしたこともあるらしい。時折、真城さん自身も「懐かしいなぁ」と遠い目をして呟いた。


 凧揚げの話が終わって一息つくと、僕はふと我に返って、「あれ?今、何の話をしてたんだっけ?」と聞いた。真城さんは二秒ほど動きを止めて「なんだっけ?忘れちゃった」と言った。


 僕はグラスの紅茶がなくなっていることに気が付いて、新しく注いで来ようと席を立った。真城さんのグラスもなくなっていたので、それを取って「何がいい」と聞くと、お礼と共に緑茶を所望した。

 ドリンクが入ったグラスを両手に持って席に帰って来て、座りながら言った。


「そうそう、思い出した。誰から見ても普通の二人に見えるよねって話だった。どこからどう見ても、江戸時代の生き証人には見えないからね」


「うん、そんな話。私もさっき思い出した。誰も雪女と人間がケーキバイキングに来てるなんて思わないからね」


「実はこういうのって昔からよくあったことなのかな。何気ない所に実はいました、っていうか。昭和とか、明治とかでも」


「かもね。というかそう。私のいる限りでも、人間が気付かないだけで、周りにずっといましたっていうのは多いな。いくつか思い出す話もある」


 僕はもっと、聞いてみたいと思った。そうそうないことだ。というかない。興味を持った。


「その話、もっと聞いてもいい?」


「……」


 真城さんは少し遠い目をしていた。数秒待っても反応がない。


「どうかしたの?」と聞くと、真城さんはハッとして我に返ったようだった。


「ごめんなさい。ちょっとボーっとしてた。何?」


 多分、真城さんは物思いにふけっているのだろう。一つ、過去の出来事を思い出すとそれが引き金になって、連鎖的に他の出来事が浮かんで来たリすることがある。前後に起こったこととか出会った人がよぎって、さらに別の出来事が記憶の底から誘発される。それが何百年という膨大な期間だったら、少しくらい我を忘れてしまったりするだろう。


「いや、よかったら、さっきの凧揚げみたいな昔の話、聞きたいなと思って」


「あぁ。うん、いいよ」真城さんの表情はいつも通りに戻っていた。「じゃあ、ちょうどさっき私が思い出したのを話そうか?」




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