第7話 ラーメンとマンホール



 暑くて寝苦しい夜だった。湿度が高くて肌がベタベタする。


 エアコンをつけずに窓を開けて扇風機をつけていたからだろう。僕は夏の間、できるだけエアコンをつかわずに過ごすという美学を持っていた。冷たい風に長時間当たっていると頭が痛くなるし、電気代もかかるからだ。だから寝苦しくて、完全に夢の世界ではない、現実と夢が混濁したような細部までくっきりとした夢を見た。


 夢の中で、日が暮れた道を真城さんと手を繋いで歩いていた。僕のアパートで一緒に料理を作ろうという話になり、近所のスーパーに行った帰り道という設定らしかった。土曜日で大学はない。自転車はアパートの駐輪場にあって、スーパーまではそれを漕いで楽に行けるのだが、せっかくだから歩こうということになった。


 スーパーで鍋の食材を買い込み、すぐ近くの病院の脇を折れ、川沿いの道を進み、住宅街に入る。

 歩きながら、とりとめのないことを話していた。僕はちょっとしたデート感覚で少しはしゃいでいた。すぐ隣で笑顔を見せてくれるだけで幸福感に満ち溢れていた。胸からポカポカしたものが湧き上がってきて止まらない。


 高校の頃に「若きウェルテルの悩み」を読んだ。読んだ直後はウェルテルの燃え上がる恋の気持ちにピンと来なかったが、既にこの瞬間から人生の愛読書になりそうだった。


 手を繋いだ時、真城さんの手は冷たかったが、これは雪女だからなのか、他の人の手だからなのか分からない。けど、十分も繋いでいたら、手の温度は同じになってきて気にならなくなってきた。

 しかも、手の繋ぎ方が、夢の恋人繋ぎだった。手の平同士をくっつけて、指を交差させ合っている。手自体が僕よりも一回り小さく、指も細い。小さな力で僕の指を挟んでくるのが堪らなく愛しいと思った。ただ一つ気になるとすれば、僕が手汗を過剰に分泌していないか気になることだ。


 正直、僕は何でも初めて尽くしだから何にでも驚いて感動してしまう。生まれたての赤ん坊にとって見るもの全てが新しいのと同じ理屈だ。自分でも気持ち悪いと思うけど、しょうがないじゃないか。


 自分の爪の先と指の間にひやりとした冷たさのようなものを感じた。不思議に思って手を見やると、指の第一関節までが凍り漬けになっていた。


 一瞬、思考が止まった。


 氷はビキビキと音を立てながら、腕へと上がって来る。もう手首は完全に凍ってしまっている。相変わらず真城さんと手は繋がれたままだった。そっちには氷は伸びていない。


「うわわぁぁぁっ!」


 ようやく僕は叫び声を上げた。虫が着いて振り払う時のように、腕を降ろうとするが、固まってしまって動かない。ビクともしない。腕は半分凍ってしまっている。


 さらに力を加えようと思って左手で腕を掴んだ。その瞬間、左手の指先に侵食してきた氷が触れ、左手も凍り始めた。あっという間に左手は手首まで凍ってしまった。


 僕は足に力が入らなくなってしまって、膝をついた。そして真城さんを見上げた。

 真城さんは、およそ人間がすることのできないと思えるほどの冷たい目をして、僕を見下ろしていた。

 目は金魚のように大きく見開いていた。しかし僕を見下ろしているので、目玉が下瞼に半分隠れて下半分が欠けた半月の形になっている。瞳孔は完全に開いてしまっている。僕はそんな目に射竦められてしまった。


 首元まで完全に凍ってしまい、氷は顎にやってくる。もう腕はビクともしない。胸を超えて左半身まで凍らそうとしている。

 僕は死を覚悟した。目と口が氷に覆われてしまう最後まで、真城さんを見ていた。そして死と同時に世界が暗黒となった……


「ポヨン」


 突然の気の抜けたラインの通知音で目が覚めた。


 薄目を開けると、ベッドの布が視界に入った。カーテンの色が朝日を浴びて明るくなっていて、外を走る車の音が聞こえる。外は爽やかな朝だろう。しかし、薄暗い部屋にいる僕の頭にはまだ夢の残像が残っていて、でも意識は現実に戻っていて、何というかすごく気持ちが悪い。


「ん……」


 僕は声とも唸り声ともならない音を喉元から出しながら、スマホをベッドの端に置かれたスマホを手に取る。


「今日の補講出る?」


 差出人は真城さんだった。普段なら飛び上がりたいくらいに嬉しいし、心の半分は飛び上がっているのだが、あんな夢を見た後だとそう簡単に飛び上がれないというのも残り半分くらいある。


「一応、行っとこうと思うけど」


 ベッドに座り込んで寝癖を弄りながら送信すると、すぐに既読がついた。


「了解!じゃあまた学校で!」と返信が来る。


 僕は熊が親指を立ててグッドの形をしているスタンプを送った。真城さんからも「OK」というカラフルな文字のスタンプが帰って来る。


 スマホを置いて、ぼんやりと布団の上の空気を見つめていると、昨日の出来事を思い出した。


「私、雪女なの」


「あなたを凍らせて殺すから」


 二つの映像が、頭の中に流れる。頭の中のその映像が大きすぎて、他のことは考えられない。


「夢じゃないんだよな……」


 他に誰もいない部屋で、ボソリと呟いた。





「マジ?」


「マジだよ。あと、声でかい」


 弘が目の前でラーメンを吹き出しそうなほど驚いていた。

 時刻は十時過ぎ。僕たちは食堂で少し遅い朝食兼ちょっと早い昼食を食べていた。補講は昼前からだから、何か食べてから行こうと思ってたところに、弘からの誘いの連絡があった。真城さんとのやり取りが終わったすぐ後くらいだった。


「いや、だって、いい感じになればいいと思ったけど、まさか付き合うなんてさ。


「でもやったじゃん。あれだけ、キモイくらいに好きだったんだからさ」


「ひどいな……」


 無礼な奴だと思ったけど、事実だから仕方がない。自覚もある。だから何も言い返せない。


「それからまたデートした?もうヤッた?」


「うるさい。お前にはおしえねーよ。あとするわけないだろ、早すぎるだろ」


 弘がふざけてくるのがちょっとウザくなったので、この話を打ち切りたくなって来る。弘は「えー」と唇を尖らせながら不満をあらわにしている。可愛くないからやめて欲しい。

 別の話題に切り替えるつもりだったが、弘の話を聞いて気になったことがあった。


「……というか、するとすれば、どのくらい経って、どういう流れですればいいんだ?」


「知らねーよ」


「僕も知らない」


 二人の間に沈黙が訪れた。三分ほど、二人で静かにラーメンをすすった。


 喋るのを止めていたから、僕はラーメンのスープが揺らいでいるのを眺めて物思いにふけってしまっていた。朝の夢のことを引きずっているのもあるし、他にも、気になることは山ほどある。ふとした時につく溜息の数が急に増えたような気がする。 


「なんというか、嬉しくて堪らないはずなのに、何か気にかかる顔をしてるな」


「えっ?」


 僕は驚いて顔を上げた。弘は笑みを浮かべて水を飲んでいる。まだ半年と少しほどの付き合いだが、こいつはちゃらんぽらんに見えて、時々、なかなか鋭いことがある。


「さっそく、痴話げんかでもしたのか?」


「そういうわけではないんだけど……」


 無意識のうちに、少し歯切れが悪くなる。僕は嘘がヘタクソだ。恐らく、弘も何かあるとピンと来ただろう。一瞬、気を抜いて話してしまいそうになるが思いとどまった。真城さんが言った、人間と雪女との契約に反することになる。

 昨日の記憶が甦る。





「付き合う前に、いくつか約束してほしいの」


 真城さんは、静かで真剣な声音でこう言った。真城さんが泣き止み、僕たちが付き合うことになり、ベンチを立ったすぐ後のことだった。


「約束?」と僕は訊き返す。


「ええ。というよりも、私からの一方的な契約なんだけど」


「ちょっと怖いな……」


 最近の真城さんの口からはとんでもないことをが出て来過ぎるから、僕は次に何を言われるのかと少し前から警戒はしていた。警戒はしていたけど、実際にまた来るとなるとやはり怯えてしまう。でも前置きをくれるのはありがたい。

 真城さんは淡々と説明する。


「約束は三つ。まず一つ目」真城さんは右手の指を三本立てた後、人差し指を一本だけ残した。「私が雪女だってことは誰にもいわないこと」


「それはわかっている」僕は即答した。「バレたら面倒くさいことになる。第一、信じて貰えないだろうけど」


 それにこれ以上真城さんが目を引くようになると困る。ただでさえ可愛いのに。


「……そういうのは、また後にして」


 真城さんは居心地が悪そうに、目を背けて言った。

 ……声に出てたみたいだった。ありえないくらい恥ずかしくなる。おいおい、今みたいにポロッと言わないようにしろよ、俺。いつかやっちゃうかもしれない。マジで気を付けよう。真城さんも多分、同じこと思ってるんだろうな。


「二つ目」と真城さんは仕切り直して、指を二本立てる。「私以外の雪女と、私がいない時に話さないこと」


「えっ?雪女って他にもいるの?」


 僕の疑問には答えずに真城さんは黙っていた。


「雪の降っている場所には注意して」と、ただこれだけ言った。


「そして最後に三つ目」指を三本立てる。僕は自分の中に残っていた恥ずかしさや疑問を振り払い、集中して聞いた。真城さんの口元を見つめる。


「私をマンホールの上には立たせないで」





「いや、何もないよ」


 目の前で水を飲む弘に、冷静を装いながら答えた。


「だったらいいけど」と弘は言った。明らかに腑に落ちてはない様子だが、追及する気はないようだ。


 弘は「まぁ何かあったら言ってくれ」とだけ付け加えた。その優しさと気配りに感心し、心で敬礼する。


「弘、知り合いでマンホールが嫌いな人って知ってる?」


「何だよそれ。嫌いな物がニッチ過ぎるだろ」


「だよなぁ」


「なんだよそれ」


 弘は首を傾げて不思議そうな顔をしていた。「じゃあ、俺は行くわ」

 ようやく食べ終わって、弘は盆を持って席を立った。


「講義受けないのか」


「おう。食堂にメシ食いに来ただけ。実は俺も、バイト先でG寄りのFカップの女の子といい感じになってさ、これから待ち合わせてんだ」


「マジかよ。Gではないのか」


「Gではない」


 弘はドヤ顔で言う。彼女ができたことを誇っているのか、胸の大きさを誇っているのか、どっちなのかと疑問に思う。

 G寄りのFは全体の中では大きい印象があるが、実際にどれくらいの大きさなのかは、僕にとっては全く未知の領域で想像もつかない。


 僕はGがアルファベットで何番目なのか思い出そうとする。すぐには出てこなかったけど、すごそうだ。というか、何でサイズ知ってるんだよ。


「今はGではないけど、将来的にはGになるかもしれないらしい。ちゃんと本人から聞いたから間違いない……あともう少しで、夢に手が届きそうなんだ」


 遠い目をななめ上を向けて、弘は言う。あれ?なんか格好いい?と僕は一瞬、錯覚してしまった。


「うまくいったら今度紹介してやるよ」


「楽しみにしてる」


 僕は勇ましく歩いて行くその背中に声をかけておいた。僕もコップに水を注ぎに行って、一人席に戻る。

 真城さんは何カップなんだろうという煩悩が湧き出てきて、それを振り払うようにコップの水を一気飲みして、僕も頑張ろうと思った。何を頑張るのかは分からない。


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