第6話 学費と農作業
今にも雨の降ってきそうな曇り空だった。重たそうな雲は今にも落ちてきそうで、灰色の羽毛がうねっているのを下から見ているような立体感がある。それが前方から後方へと流れている。
講義棟の横に置いてあるベンチに座って、そんな空を眺めていた。以前に二股?三股だっけ?浮気男がイチャついていた場所だ。あと二分か三分で降り始めるかな、というのを繰り返して、かれこれ十五分くらい座っていた。
人通りはほとんどなかった。ここは建物と建物の間になっている。常に日光が遮られて日陰ができているような場所だった。二階の講義室の窓からわざわざ覗かないと見えない位置にある。だが、講義棟があるのは左右だけなので、前方は見渡せる。
だから普段は他のベンチは日差しが強くて暑いけど、どこか静かな場所でジュースでも飲みながら休みたいという時にはうってつけのベンチだった。
今日は曇っている上に、場所の都合でさらに薄暗い。普段から人通りはないものの、夏休みに入ったのでさらに人通りは少ない。しかし、今日は学費免除の申請日だから、まだ人は多い方なのかもしれない。かく言う僕も、さっき申請を済ませてきて今はここで休憩している。
ボンヤリしていると、向こうから真城さんが歩いているのが見えた。僕は目を疑った。なぜ?もう二度と会えないと勝手に思っていた。人違いかと思ったけど、確かに真城さんだった。
真城さんは右の建物の陰から出てきて、まっすぐ左に進んでいる。もし十秒以上空の方を眺めていたら見逃していただろう。
向こうは何気なくこっちを見て、そのまま立ち止まった。僕は立ち上がり、小走りでかけよった。
真城さんは、僕から目を逸らしてうつむいた。少し表情が暗くなった。影のせいで余計にそう見えるのかもしれないけど、そんなに僕は嫌われたのか。
「君も学費免除の申請?」と真城さんは聞いた。君、という他人行儀な呼び方に少し傷ついた。
「うん。さっき終わった。まだ受付時間は一時間半以上あるし、全然混んでなかったから余裕だったよ。今からでも余裕で、急がなくても大丈夫」
「そう」真城さんは興味なさそうに頷いた。「私は学費免除が用事じゃないからどうでもいい」
夏休みが始まったばかりの今日に、わざわざ大学に来るなんて他に用事が考えられなかったから疑問に思った。
「じゃあ、何の用事があって来たの?」
「あなたが何を気にしようと、私にはどうでもいい」
真城さんはまた冷たい返事をして立ち去ろうと歩き始めた時、僕は声をふり絞った。ここで言わないと一生後悔すると思った。
「………ってる」
声が震えて語尾が濁った。
「何?」
「僕は雪女でも構わないって言ってる」
真城さんはようやく僕の顔を見た。一瞬、目を見開いて驚いた後、眉根が寄せられて、僕の目をまっすぐに見据えている。睨んでいるように見える。足がすくみそうになった。こんな真城さんを見たのも、目の前の怒りの圧力でここまで怯えたのも初めてだった。
「正気?人間は人間と結ばれる方が幸せになれるの」
真城さんの声音は低かった。その初めて聞く低い声に少し怖くなるが、僕は言葉を続ける。
「別に友達のままでいい。その繋がりに人間も雪女もない。真城さんは真城さんだ」
「雪女と人間が一緒にいても不幸になるだけだわ。どっちの身にもね」
「……じゃあ、あの時の寂しそうな顔は何だったの?」
神社で別れた時の記憶を呼び起こした。何度も頭の中で反芻した映像。真城さんが階段や木々を凍らせて、後ろを向いて歩き出した時、左斜め後ろからの横顔が見えた。真城さんは泣いていた。下瞼に涙が溜まり、そこから滴となり頬を伝って流れ落ちていた。僕はそれを見た瞬間、周囲の氷のことも忘れて動けなくなった。
「初めて好きになった人に、あんな顔をされたら放っておけない」
真城さんは何も言わなかった。しばらく沈黙が訪れた。数秒だったかもしれないが、数分にも数十分にも感じられた。
「人間は時々、こういうことを言ってくれるのよね……」
真城さんはこう言って、ポツポツと語り始めた。
「……知ってるでしょうけど、私は昔から人間の男を見つけて一緒に暮らしてた。家庭を持って子供がいたこともあった。ここまで技術が発達する前の、スマホなんてものができる前の、着物を着て、木造の家に住んで、一日中農作業して暮らしてた頃の話。
別れは色々だった。事故や病気で死なれたり、歳をとって干からびるように死んでいったり、私が殺したり。でも、一人残らず全員死んだけれど、私は生き残った。どうでもいい人間が死んでも何とも思わないけど、大切な相手が死んでいくことにだけには慣れたりしなかった。
それどころか失う度に昔の大切だった存在まで思い出して、苦しさは増していくの。家族を亡くす度に時間をかけて自分を慰めて、それでまた好きな人を見つけて、それでまた失う。分かる?未亡人を何度も繰り返すの。いい加減、もうたくさんだわ。自分が絶対に失う側なんだと分かってしまった」
ここまで言うと、真城さんはフッと鼻から息を出して自虐的に笑った。
「得るものと失うものを天秤に掛けるって言うじゃない?これは、命とか他人との関わりに関しては違うのよね。得て失わずに済む人と、得て失う人がいる。後に残して死ぬ方は幸せよね。何回か失っても、いつか自分が得ている側の時に、最後に得るだけで失わずに押し付けることができたのなら、その時に全てが肯定される気がするんでしょうね。
でも私の場合、得てから失うことが確定していて、それをずっと続けてる。いつか、自分も相手を残して死ぬ側になれればいいんだけど、私はそうはなれない。ずっと絶望の貧乏くじを引く番」
真城さんはスゥッと大きく息を吸い、大学構内を見回した。
「大学には、興味があったの。どんな生活なんだろうって。どんな生活をするのかなって。ある日、街でキラキラしながら歩いているのを見て羨ましくなっちゃったのね。笑っちゃうでしょ?八百歳バツ十六の妖怪が。でも、もう大学もやめるわ。今日は退学届けを貰うために来たの。大学がどんなものかっていうのは大体わかったし。それに、私はあの子達のようにはなれない……」
僕は真城さんの言葉に狼狽した。目の前のこの人がいなくなる毎日を想像すると、耐えきれない気持ちになった。
「やめて、どうするの?」
「さぁね……また山奥の小屋で暮らそうかな」
風が吹いて、服がバサバサとたなびいた。真城さんは乱れる髪を右手で押さえた。
「標高の高い山がいいな……夏でも涼しい。二十一世紀の夏は暑すぎるもの」
こう言って、真城さんは黙ってしまった。話はひとまず終わったみたいだった。
「だったら」僕は言った。「どうして泣いてるの?」
真城さんの目からはボロボロと大粒の涙がこぼれていた。堪えようとして目尻に力が入っているが、耐えきれてない。あの時と同じ涙だった。
「一人……もう、一人は嫌だ……また何十年も……」
両手を顔に当てて、真城さんは泣き崩れた。決壊したダムみたいに涙が一気に溢れ出した。
「私を一人にしないで……嫌だ……怖い……一人は怖い……」
僕は戸惑ってしまった。目の前で女性が泣いているとそれだけで自分が悪いことをしてしまったような錯覚を起こした。しかも、今泣いているのは好きな女性なのだから、そんな姿を見せられるだけでこっちまで胸が苦しくなった。
真城さんの呼吸は荒くなっている。嗚咽で息を吸うたびに背中が大きく上下して、喉元から息を出す音がハッキリと聞こえる。過呼吸みたいだった。僕は落ち着かせようと声をかけた。
「大丈夫、大丈夫だから……」
僕は訳も分からず慰めた。さっきまで自分が座っていたベンチまで真城さんを誘導して座らせた。真城さんは大人しく座ったが、泣き止む様子はなかった。呼吸もまだ穏やかではなく、苦しそうだった。
「落ち着いて、深呼吸して」
こう言うと真城さんは素直に深呼吸をした。悪化するなら救急車を呼ぶべきなのかと考えていたが、嗚咽は少しずつ収まってくる。
僕は必死で気持ちを鎮めようとする彼女の姿を見守っていた。細かく震えている小さな肩は、強さとは無縁のものだった。
やっぱり、どんなに近くから見ても普通の女の子にしか見えなかった。何百年も歳を取っているのではなくて、この普通の女の子は何百年もこの逃れられない苦しみを背負わされているんだ。
真城さんの苦痛は正確には分からない。かと言って、このまま何もせず、目の前のこの悲しみを放ってはおけない気がした。
いや、そんな格好いい理由ではなくて、ただ好きな人が隣で泣いているのが嫌なだけだったのかもしれない。詳しい理由は分からないけれど、このままでは駄目だと思った。どうにかして少しの間でも苦しみを和らげてあげられないかと、分不相応な事を思った。とりあえず、今は誰かが励ましてあげなくてはいけない。
「真城さんが何者かなんて、誰も気にしてない。少なくとも、僕と弘は気にしてない。一人が怖くて、その場しのぎでも悲しみを紛らわせるなら、耐えきれない時だけでも、卒業するまででも、気が向いた時だけでも、誰かといればいい」
だんだんと真城さんは落ち着いてきた。もう息は乱れてない。涙もほとんど出し切って、枯れてしまったみたいだった。残りかすみたいな流れ方になっているのを見て、少しホッとした。
「それでも、やっぱり駄目?」
勝手に言葉が口から出てくる。変に告白した反省を全くしていない。でも全く後悔はしてなかった。
真城さんは震えた声で言った。
「……いいの?」
「真城さんがいいって言うのなら」
真城さんは僕の方を向いた。もう目がうるんでいるだけだ。真正面に顔を向けて、じっと見つめ合った。
「どうなるかわからないよ」
「どうなろうと構わないよ」
真城さんは下を向いて黙り込んでしまった。また涙が溢れて来るのではないかと心配になった。
「だったら、またもう一度だけ……」と真城さんは呟いた。そして再び僕を見つめて言った。「ありがとう。じゃあ、付き合おう?」
「えっ、本当に?」
突然の言葉に僕は驚いた。告白の件はもう終わったものかと思っていた。
「うん。これからよろしくね」
真城さんは案外、いつも通りの調子だった。僕はその様子にホッとした。
「こちらこそよろしく……なんだか色々信じられないというか、夢みたいだ」
真城さんは「ふふふふ」と笑っていたが、急に笑みが笑みを消した。
「でも、三島君。一つだけ覚えておいて。私とあなたの間には決して埋まらない溝がある」
「何が言いたいの?」
僕は疑問に思って訊ねた。
「つまり……私は雪女」
真城さんの声は先ほどとは全く別物の、凍てつくような声音に変わっていた。
「最後の最後には、あなたを凍らせて殺すことになるから」
目を見開き、視線で刺し殺すような目をしていた。白目の割合が異常に多くなっている。その白目の下に半月状の黒い目が浮かんでいる。瞳孔が開いているのではないかと思う。
真っ黒い目玉が僕を見据えて捉えたまま、全く動かない。僕はその目に射竦められて、一瞬、体が冷凍されたみたいに動かなくなる。
正直、恐怖を覚えたが、もう後には引けない。どうとでもなれ。ほとんど考える能力を失っていた。僕は喉から絞り出すように「わかった」と答えた。
真城さんは恐ろしい目つきのまま、じっと僕を見つめていた。そのまま十秒くらい動かなかった。その数秒が僕には五分くらいに感じた。
ようやく真城さんは恐ろしい眼光を消し、緊張を崩したように「ふふふふ」と笑った。その表情の変化の速さに驚く。既に、この数か月間の見慣れた真城さんの笑顔に戻っていた。
この世界中の花を全て満開にさせるような可愛らしい笑顔を見ると、さっきまでの凍てつかせて殺すような視線は全くの幻に思えて、急速に頭からぼやけて消えてしまったのだった。
つられて、僕も「ふふふふ」と笑ってしまった。顔と顔の距離が三十センチも開いていない。かわいい。お湯のような温かい幸せ七割、氷のように凍てつく冷たい恐怖三割くらいだろうか、熱いのか冷たいのか分からない、初めて経験する感情を胸の底で味わっていた。
「好きよ」
こう言って、真城さんは僕の首に腕を巻きつかせて抱きついた。突然のことに心臓がキュウっと縮んで苦しくなる。しかし全く不快ではない。むしろ幸福だった。縮んだ心臓が緩むと呼吸が楽になるが、今度は高鳴り始めて止まらなくなる。鼓動がハムスターみたいに早い。音も大きすぎて、真城さんに聞こえているんじゃないかと恥かしくなる。
「私、『カップル』っていう現代っぽくて人間らしい響きに憧れてたの」
真城さんが耳元で言った。吐息がうなじにかかって変な息が出そうになる。それを堪えて、僕は「そうなんだ」と返す。髪も首筋に当たってこそばゆい。
真城さんが、さらにきつく僕を抱きしめる。僕は斜め上の空の方を向いたまま動けない。幸せ過ぎて、視界に広がるどんよりとした灰色の雲の間から天使が降りてくるのではないかと思っていた。
僕の耳の下に、真城さんの頬が当たった。冷たい、と思った。氷水のように冷たい。ひんやりとした感覚が続く。僕の体温と分け合って生温かくなる気配もない。ずっと冷たいままだ。
人間的な感じもしない。ガラスか陶器に触っているようだ。って言ったら怒られそうだな、黙っておこう。
首に絡められた腕の力が緩められた。真城さんがハグをやめて、首に置いた顔を離して、再び僕の目を見つめてニコッと笑いかける。さっきよりも近い。かわいい。
真城さんはベンチから立ち上がり、僕に手を差し出してきた。僕はその手を見つめた後に、真城さんの顔を見た。優しくて穏やかな笑顔だった。僕の方も、柔らかく笑みがこぼれてくる。僕は真城さんの手を握った。
こうして僕は、雪女の彼氏になった。
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