第5話 浮世絵と入学式


 雪女……日本で古来から伝わる雪の妖怪……


「雪娘(ユキムスメ)」「雪女子(ユキオナゴ)」「雪女郎(ユキジョロウ)」「雪姉さ(ユキアネサ)」「つらら女」とも呼ばれる……


 昨日、僕は真城さんと別れてからしばらく魂が抜けたように呆然としていて、結局一人で電車に乗って帰った。それから食事もせずにシャワーで汗だけ流してベッドに潜り込んで寝てしまった。

 夜中に二度ほど起きて、昼間の出来事を何度も反芻するように思い出した。しばらくすると頭が痛くなってきてまた眠った。


 夕方に床に就いたのに、次の日に起きたのは昼過ぎだった。大学は今日から夏休みだが、僕はTシャツとチノパンに着替えてアパートを出た。じっとしていられない気持ちだった。


 自転車を漕いで無駄に大きな大学の付属図書館に行き、雪女と名の付く本や民間伝承についての本を集めて机に積み重ねた。既にスマホで調べられる事は調べてしまい、けれど物足りなかったのだ。

 机上の本の量に辟易するが、読むのは雪女についての記述がある部分だけでいい。僕は椅子に座り、とりあえず日本の妖怪を図鑑形式にしてまとめている物好きしか手に取らなさそうな一冊を手に取る。

 頬杖をついてページをめくっていった。


 ここで現在に至る。


 日本各地に伝承があり、室町時代には越後、現在の新潟県で法師が雪女を見たという記述がある。だからその頃にはもう「雪女」は存在していたということになる。


 舞台は東北地方や新潟が割合多いみたいだが、長野や和歌山、福井や愛媛でも言い伝えがある。武蔵の国、現在の埼玉と東京でも伝承は存在していて、かなり広い地域で伝説の存在が確認されている。


 どの伝承にも共通しているのは白装束を身に纏い、男に冷たい息を吹きかけて凍死させる部分。そうやって男の生気を吸いつくす部分。雪男やイエティとは別物なのか……


 僕は溜息をついた。雪女なんていう妖怪なんて子供の頃に絵本で読み聞かせてもらったくらいで、わざわざこうやって自分から調べたことなんてなかった。


「百怪図巻」という江戸時代に書かれた妖怪の一覧の読み物の中にある、雪女の絵が目に留まった。それをぼんやりと眺める。

 江戸時代独特の、浮世絵のような単一の線で描かれており、デッサンとは全くタッチの違う、似せる気のまるでない絵だ。肌は白く塗りたくられて、目が細く、肌は風船のようにふっくらしている。

 昔はこういうのが美人だったんだろうか。実際にいたらブサイクだと思うのだが。


 二百五十年前に描かれた雪女の絵と、真城さんの顔を頭の中で隣に並べて、目を閉じて眺めてみる。目や口や耳を、部分ごとに丹念に見比べるが、全く似ても似つかない。そりゃそうだ。そもそもこんな下手糞な絵と真城さんを同じにしようとするなんて失礼な話だ、と思えてきて、向ける方向の分からない怒りすら湧き出てきた。


 再び、昨日の事を思い出して、調べた事と照らし合わせる。本当に雪女なのか?


 冗談だろ?何かの嘘なんじゃ?でも僕なんかを騙して何の得がある?変な嘘をつく子には見えない。というか、どう見ても普通の女子大生にしか見えない……


 スマホを取り出して「マジック 周囲 凍らせる」と検索してみるが、納得できるものは出てこない。


「はぁ……わからない……」


 僕は頭を抱えて溜息をついた。





 全く成果を得られないまま図書館を出ると、空がオレンジ色に染められていることに気が付いた。カラスが鳴いていて、いつの間にか本格的な夕方になってしまっている。そういえば、昨日の夜から何も食べてない。胃が少し痛い気がする。


 図書館を出て左を向くと青色の建物が見えるが、これが食堂だった。夕飯時だからか、出入りする人が多い。ここで夕食を食べるつもりだったが、寄る気になれなかった。そのまま駐輪場で自転車を回収して帰宅することにした。


 アパートに帰ると、ベッドの上に仰向けに寝転んだ。初めて真城さんと話した時もこうだったなと思い出した。しかし今、天井のプロジェクターに映されているのは「わたし、雪女なの」と言った時の瞬間だった。周囲の凍りついた蝉や木々も目に焼き付いてしまっている。


 ぼんやりと自転車を漕いでいたから、スーパーに寄って来るのも忘れた。適当なおにぎりでも買って帰ろうと思っていたのに。家には食べ物が何もない。でも外に出る気は起きない。今日はもう本当に駄目だ。


 もし本当に雪女だったら、殺されていたかもしれなかったのだろうか?僕は見逃されたのだろうか?

 あの場で周囲を氷漬けにしたのは、僕に自分が雪女だと証明するためか?


 まだ真城さんの言ったことを完全に信じることはできなくても、そうかもしれない、と心の準備が終わったくらいには落ち着き始めていた。そうなると思考は次第に、「真城さんは本当に雪女なのか」から「真城さんが雪女だとしたらどうするか」という方に移っていった。


 いや、雪女でも雪女でなくても、僕はフラれているんだ。嘘だったら僕を騙すために大がかりで妙な演出までするほどなんだ。


 そうだ、どのみち、僕はフラれたんだ。あれこれ考えず忘れるべきなんだ。また適当に誰かを好きになって、付き合えばいいじゃないか。しばらくすれば「あんな変なこともあったな」って忘れられるだろう。


 自分で自分を納得させるように何度も繰り返した。時間をかけて、毎日繰り返していれば、やがて腫物が引いていくように治り、跡が見ても分からないくらいに目立たなくなるだろう。


 しかし一つだけ気にかかることを思い出してしまう。意識の端に何度も浮かび上がってきて、その度に、どうしても心に魚の骨が引っかかるような感覚がする。


「さよなら」と言われて立ち去られた時に見えた、真城さんの痛まし気な表情だ。これだけは最後に解消しなければ、全てを吹っ切って忘れて次に進むことはできないのではないかと思った。


 ズボンの右ポケットを探り、お守りを掴んで取り出した。真城さんと一緒に買った「交通安全」だ。体を横向きにして、それを眺める。自分がどうするべきかボンヤリ考えていると、まだ疲れが残っていたのか、また眠ってしまっていた。昨日からコアラかよって思うくらい眠ってばかりな気がする。


 その日、僕は真城さんと初めて会った時の事を夢で見た。





 真城さんを初めて見たのは大学の入学式が終わった後だった。今年度の新入生が市民ホールでスーツを着て学長の話を聞き、ホールから出るとサークル勧誘のビラを大量に握らされる。何かの祭りかと思うほどに賑やかな空間だった。


 人ごみをかき分けながらようやく開けた場所に出て一息ついた。疲れを感じて息を掃きながらも、受験勉強を頑張って合格したかいがあったと、並木に咲いている桜を眺めながら感慨深い気持ちになっていた。


「これから大学生活が始まるんだな」と僕は小声で呟いた。


 一年浪人して「おあずけ」を食らっている状態だった。通常の新入生よりも大きな不安と期待を感じながら、ピンク色の桜の花びらが落ちて行くのを目で追っていた。僕のすぐ隣を、同じ新入生が通って行った。


 その瞬間、僕の中で穏やかに漂っていたしみじみとした気持ちは吹き飛んでしまっていた。


 顔全体が見えたのは二秒もなかったと思う。風が吹いて、長い黒髪をファサッと靡いたのが、モネの「散歩、日傘をさす女性」と同じレベルで芸術的に思えた。ちなみにモネの絵は、美術の教科書とテストで出たこれしか覚えてない。


 彼女も新入生だろうとはすぐに分かった。スーツ姿で、新入生だけに渡されるシラバスやらが入った紙袋を手にしていた。


 僕はつい一旦目を逸らすが、また目が引き付けられてしまって、すれ違う時も横顔を見つめてしまっていた。ギリギリ不審がられるほどではなかったと、自分では思う。向こうからどう思われているかは分からない。彼女は僕をチラリを横目で見ただけだった。


 初めて会った時は、これだけだった。特に会話を交わしたわけでもなかった。ただの入学式を終えた新入生同士がすれ違っただけだ。珍しくとも何ともない。彼女だけでなくとも、今日の一日だけで他に何人もすれ違っている。


 だけど彼女の姿だけが頭に焼き付いてしまって離れなかった。次の日も朝起きてから勝手に前の日の映像が流れた。髪が風に靡いていた。頭に焼き付いて、と言ったが、ひどい火傷の跡というのは一生取れないらしい。大昔の奴隷は腕に焼き印を押されてそれが一生残った。僕は脳にその一瞬の映像を焼き付けられたんだろうな。


 次に会ったのは三日後だった。民法の第一回目の講義だった。百五人以上入るだろう広い講義室の中で、僕は半分より少し後ろ列の、右端の長机で肘を付いていた。講義が始まるのを教科書をパラパラめくりながら待っていると、二つ前の長机に見覚えのある生徒が座った。


 まさか、同じ学部学科だとは思ってなかった。入学式からの三日間、僕の中は彼女に占有されてしまっていた。日に日に、頭の容量の中で占める彼女の体積が大きくなっていた。


 彼女の姿を見た瞬間、心臓が跳ねてそのまま激しい鼓動を打ち始めた。気が付くと講義は終わっていた。半ば放心状態だった。


 講義が終わっても、僕はなかなか席から立てなかった。同じ学部学科で、嬉しくて仕方なかった。一目惚れってヤツなのかもしれないと思った。


 結局、話すことができたのは三か月も経った後だったけど。


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