第4話 弓道と告白


 廻廊を歩き続けていると、右側に弓道場が現れた。木張りの床と土に立てられた的の間を芝生が繋いでいた。


 射場では袴を着た人が立っていた。少し白髪がある強面の男性だった。矢を番えてちょうど弓を引き上げている所だった。顔は的の方を向け、じわじわと背中を開くように弓を引いていく。やがて腕が止まり、時まで止まったみたいになる。「会」と呼ばれる全てが調和した状態だ。


 射手が手を離すと、矢は空気を切って的まで一直線に飛んで行き、的を貫いた。「パァン!」という気持ちの良い破裂音が聞こえた。


 僕たちは自分たちが見とれて立ち止まってしまっていたことに気が付いた。他の参拝者と同じようにパチパチと控えめな拍手を送り、再び歩き出した。


「僕、高校の時は弓道部だったんだよね、ってこれ前にも言ったな」


「うん、結構最初の方に言ってたよ。県大会で入賞して全国大会まで行ったんだよね?何で大学では弓道やらないの?」


「もう高校三年間でお腹いっぱいだよ。大学ではマイナーなサークルでひっそり息を潜めようって決めてたんだ」


 何それ、と真城さんは笑っていた。


 こんなことを話しながら僕たちは弓道場の隣を抜けて行った。右後ろから再び「パァン!」という的に命中した音が聞こえた。


「そう言えば、夏休みに真城さんは帰省とかしないの?出身は新潟って前に言ってたけど」


「よく覚えてるね。うん、私はずっとこっちにいるかな。遠いっていうのもあるし」


 真城さんの少し深く息を吸うのが聞こえた。少し声が揺らいでいるような気がする。


「そもそも、私は何年もずっと、一人暮らしなんだ。ちょっと家が色々あってね」


「そうなんだ」


 僕はとっさに何と言ったら良いものか分からなくて言葉に詰まってしまった。

 真城さんはハッと我に返ったように声の調子を明るく取り戻す。


「ごめん、余計な事言っちゃった。あまり気にしないで。結構長いからもう慣れちゃってるし、困ってることもないよ。大丈夫。元気!」


 若干、空元気なのは誰でも分かる。


「うん、でも何かあったらいつでも相談に乗れるというか、乗りたいというか、僕が何の役に立つんだって話なんだけど」


 僕は自分の口下手さに嫌気が差す。もっと場に適して言える気の利く言葉があるだろうと分かっているのに。どうでも良い事なら何も考えずに出てくる癖に、肝心な時の言葉が上手く出てこない。

 真城さんは顔を崩して、フッと笑った。


「ありがとう。前から思ってたけど、優しいよね、三島君は」


「そうかな?」


「そうだよ。絶対。……私ね、ずっと一人だったんだ。実は。ぼっちってヤツ?何年も友達なんていたことなかったの。大学でも一人で座ってた。実は、根本的にはコミュ障なんだよね、私」


 ゆっくりと真城さんは歩き始める。僕は黙ってその背中を見ていた。


「卒業するまでそうなのかなって思ってた。他の人との関わりも持ってなかったし。それが私の普通なんだと思ってた。でも、少し寂しかった」


 三メートルくらいの距離で真城さんは立ち止まった。


「だから、三島君と中野君と友達になれて嬉しかった。二人には何気ない事だったかもしれないけど私にとっては」

 真城さんは振り向いて言った。最高の笑顔だった。

「特別なことだった。ありがとう」


「いえ、その……どういたしまして」


 やばい……泣きそうだ……


「ふふふ。もう、廻廊もゴールだね。本殿の方戻ろっか。お守り買いたいな」





 廻廊の来た道を戻りながら、僕は一人で考えていた。


 ……楽しかったのは僕の方だ。お礼を言いたいのは僕の方だ。人と人との関わりの中でどちらか一方だけが貰っているということはなくて、僕も同じだけ貰っているんだ。


 僕も伝えなくちゃいけない。こっちも同じように思っていたことを。


「道を逸れたこっちにも何個かやしろがあるね」


 真城さんは小高い山になっている方を見て言った。所々、階段が伸びていて、そこから斜面を登って行くと、いくつかの小さな社に繋がっているのだった。


「あぁ、うん、行ってみよう」


 僕たち二人は廻廊の廊下の仕切りがない場所から出て、階段を登り始めた。


 階段の石は古くてヒビも入ってるし、大きく欠けている部分もある。平らでなくガタガタで、慎重に一歩ずつ足を踏みしめて登らないと、階段を踏み損ねて落ちてしまいそうだった。


「ちょっと道が荒いから気をつけないと」と危うく足を滑らせかけた僕が言った。


「本殿の奥はこうなってたんだ」真城さんが感心したように言った。階段は急で登るのに体力を使うから、少し息が切れている。「木、ばっかりだ」


 この小さな山は神社が左端に建てられていて、奥は木々が生い茂りながら別の社がポツポツと建っている形になっている。道には草や木々が生えてないから歩けるものの、土がむきだしで、確かに、左右はかなり野性的だ。


 全方位から蝉の声が聞こえてくる。ギラギラとした日差しもあいまって、気温が四十度くらいあるように感じる。


 僕は焦っていた。まだ、真城さんに言うべき言葉を探していた。でも一向に何と言ったら良いのか分からない。本当に、自分の気持ちを素直に伝えるのが苦手なんだよな。いや、苦手とかじゃなくて勇気がないだけだ。


 はやく言わないとタイミングを逃して言えなくなる。それは駄目だ。

 そのままの気持ちを伝えれば良いんだ。嘘を一切含まず、自分の本心だけを。取り出して。特別だと、ありがとうという意味を。はやく……


「あの」


「ん?どうかした?」


 三段先の階段を登っていた真城さんは僕の方を振り向いた。


 真城さんは声を聞いて二段昇って止まり、僕は声を出す前には止まっていたので、僕と真城さんの間には少し距離が生まれていた。六段くらい下から、僕が真城さんを見上げる形になっている。視界に全身がちょうど収まった。


「えっと……」


 喉が乾いて、唇が痙攣している気がする。頭が真っ白にぼやけていく。


「好きです」





 一瞬、周囲に響いた言葉の意味が分からなかった。あれ?これ、誰の言葉だ?僕の言葉か?


 言ってしまった……


 自分で自分のことを殴りたくなる。全部終わりだ。もう真城さんは僕にこれまでのように話しかけてはくれないだろう。

 この一か月か一か月半、本当に楽しかったな。週に三回くらい会って、授業を一緒に受けて、休み時間に話すだけで満足だったのにな。


「そう……」


 真城さんは静かに呟いた。


 フラれる。

 僕は覚悟を決めていた。風が吹いて、ザァという音が二人の間を通り過ぎて行った。

 風が止んで数秒経った後、真城さんが口を開いた。


「目を閉じてくれる?」


「えっ?どうして?」


「お願い」


「えっと……まぁ、はい……」


 僕は言われるがままに目を閉じた。


「いいって言うまで、絶対に開けちゃだめよ」


 足場の悪い階段で目を閉じているので、滑り落ちないようにジッとしておく。鉄パイプのような簡易的な手すりがあるので、それを左手で握りしめる。


 目は開けないでと言われたから開けないけど、視界が暗いままだとだんだん不安になってくる。僕は暗闇の中であれこれ考え始めた。


 何をしているのだろうか?あっさりフラれるんじゃないのか?


 そうか。帰りの電車で一緒になるのが気まずいから、僕が馬鹿みたいに目を閉じている今のうちに先に帰って、ようやく目を開けたらいなくなってるパターンか。あり得るな……本当に、何で言ってしまったんだ……


 というか、なんだか肌寒いような……


「もういいよ」と声が聞こえた。よかった、帰ってなかった。


 僕が目を開けると、周囲の半径四メートルくらいが氷漬けになっていた。さっきまで鳴いていた蝉も、そよいでいた枝と葉も、地面の石段も、全て氷に覆われていた。

 凍った葉からは、つららのように氷が垂れ下がっている。空気中には冷気が揺らぐように漂っていた。草の生えている場所には霜が降りていた。


「ピシィィィィン」という空気を震わせる高い音が聞こえていた。


 夏の音は全て消えていて、時間が止まったみたいだった。


「なっ、これ……えっ?」


 何が起きたのか分からなくて、僕は混乱した。

 真城さんは僕を感情のない目で見下ろしていた。真城さんの周囲だけ、冷気が一層濃い気がする。数秒の沈黙が訪れた。そして、静かに口を開いてこう言った。


「わたし、雪女なの」


 真城さんが声を発すると、口元から白い息が出ていた。


「雪女が人間と楽しく付き合うことはできないわ」


 僕は何を言っているのか分からなかった。まだ、何かの冗談かと思っていた。そんなわけはないと、明らかに異常なことが起こっていると、頭では分かっている。しかし僕はそんな突然な出来事を、真城さんから与えられるという現実を、受け入れたくなかったのだ。


 肌が冷気でピリピリして、硬くなる。地面と足は一緒に凍らされていて、動かせない。

 数秒の間、息をするのを忘れていることに気が付き、深く息を吐くと、僕の吐息も白く変わった。そこで僕は夢ではないことも知った。


「だから。もう私には関わらないで」


 真城さんは続けてこう言い放つ。僕は何も言えないままだった。


「本当は殺した方が良いんだけど、あなたのことは嫌いではないから殺さないでいてあげる」


 どうしてこんなことを言うのだろう。今、僕に向けられている凍てつくような冷たい目も、僕の知っている真城さんじゃないみたいだった。


「じゃあ、そういうことだから」


 こう言って真城さんは、僕から目を逸らして後ろを向き、階段を登って歩いて行った。その姿から、僕は目を離すことができなかった。真城さんが顔を背けた時の表情が、さっきまでの言動と一致しておらず、今にも泣きそうなほどに痛々しかったから。


 僕は何か言って引き留めようとしたが、声が枯れて言葉が出てこない。何を言ったら良いのかも分からなかった。靴底と地面が氷で張り付いているせいで動かなかった。


「さようなら」


 真城さんは木々の中へ姿を消す直前に、こう言った。

 僕は置き去りにされた形で、そのまま立ち尽くしていた。


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