第9話 江戸と自転車
「これは人間でいう所の、うわさ話や昔話みたいなものなんだけどね。
昔、私がこの話を聞いたのは江戸時代の半ば頃だからそのくらいにできたと思うんだけど、ある山奥の村に一人の雪女が暮らしていたの。
その雪女は結婚していて、夫と子供もいた。自分の正体が雪女だと知っているのは夫だけで、村人たちは知らなかったんだけど、気付かれることはなかった。雪女は人間が好きで、村の人たちとも仲良くしていた。
雪女と夫の二人はとにかく仲が良くて、村人からおしどり夫婦とよく言われてたし、自分たちでもそれを否定しないほど、仲が良かった。生活は豊かとは言えなかったけれど、食べ物や家は不足してなかった。
日中に田を耕し、畑を見て回り、近くでは子供達が遊んでいる笑い声が聞こえていた。昼と家に一回戻って食事をして、時には昼寝をして、夕方まで動いて食事を取って寝た。昔は、現代みたいにせわしない毎日ではなくて、もっと穏やかだったからね。二人は平穏で満ち足りた日々を送っていた。とても幸せだった。
でもある日、ひょんなことから、雪女の正体が村中に知られてしまうの。雪女は十年以上も村に住んでいて、村人を信じていた。だから自分のことを受け入れてくれると思ってたんだけど、村人の方はそうでもなかった。態度を豹変させて、農具を武器代わりに持って、出ていけと詰め寄った。
それだけだと、まだ、その雪女は傷ついて数年間立ち直れないくらいで済んだかもしれない。でも、愛していた夫も、村人と一緒になって雪女を追い出したの。夫は雪女の正体を知っていたのにね。村八分が怖かったのかもしれない。
雪女はその場で泣き崩れた。すると空は曇り、季節は夏だったのに、雪が降り始めた。異常なことに村人は慌てた。雪女をその場で殺さなければ、この雪は止まないと誰かが言った。でも、いつの間にか、雪の結晶が溶けて消えてしまうように、雪女の姿は消えてしまっていたの。
村には雪が降り続けた。夏なのに気温は日に日に下がって行き、地面には白い雪が積もり始めた。雪を止ませる手立てもなかった。作物は枯れ、村は飢饉になった。村人の多くが餓死し、数年もしないうちに村には一人もいなくなった。最後に死んだのは雪女の子供だった。村に誰もいなくなっても、雪は降り続けた。
雪女の方は二度と立ち直れないほどの心の傷を負い、今もどこかの雪山で泣きながら暮らしているという。
いつかその雪女が泣き止んだ時に、その村に降っている雪も止むらしいけど、それはまだ先の話……」
「……っていう話」
真城さんは語り終えて、ふぅと息をついた。少し疲れたみたいだった。チョコレートケーキを欠片を食べて、コーヒーを口に含んだ。
「どうだった?」と真城さんは聞いた。「ちょっと暗い話だったよね。本当にちょうど思い出しただけの話だから」
「あぁ、うん、面白かったよ。そんなのがあるんだなぁって思った」と僕は言った。
語る時の真城さんの声音には真剣さが感じられて、僕は話に引き込まれてしまった。まだ頭に余韻が残ってしまっている。
「でも、なんだか、可哀そうだな。雪女の方も人間の方も。結局、誰も幸せになれてないし」
「そうだね。確かに、その通りだね」
こう言って、真城さんはまた一口、チョコケーキを食べた。
僕はコーヒーを口に含んでから、考えていた疑問を口にした。
「この話にはどんな意味があるんだろうね。大体の昔話には教訓というかテーマみたいなのがあるもんだから。ただ、話がそこにあるっていうパターンかもしれないけど」
「ん〜、雪女は人間と関わってはいけない、とか?」
「それだったら、今この場で僕らは違反してるんだけど」
「本当だね」と言って、真城さんは「ふふふ」と笑った。笑いごとなのだろうかと疑問に思ったけれど、笑顔が可愛かったからもう全部別に良い気がした。
「まぁ、僕は絶対に裏切らないから安心していいよ。いつまでも信じ続けるから」
「ケーキみたいに甘いこと言わないでよ」
僕が軽い感じで言うと、真城さんも冗談で軽くあしらった。そして、また「ふふふふ」とザ・雪女のような笑い方をしていた。
何となく口にした事に僕は今さら恥ずかしくなったが、真城さんが嬉しそうだったので良しということにした。
真城さんはフォークに刺したチョコレートケーキを僕の口に近づけてきた。人生初めての「あ~ん」だった。
僕は出されたチョコレートケーキを口に入れる。二人の息が合ってないと意外と難しい。
「おいしいでしょ?」と真城さんは言った。僕は口を押さえて頷いた。
弘が見たらバカップルだとか言われるんだろうなと思った。
ケーキを食べ終わった後、僕らは大型のショッピングモールを見て回った。本屋や服屋、雑貨屋を二人で巡り、あれがいいこれがいいと言い合いながらウィンドウショッピングを楽しんだ。真城さんは雑貨屋でカップを念入りに見ていた。
結局、僕らは何も買わなかった。五階には映画館があって、その前を通った時に、今度一緒に映画を見に来ようと約束をした。
ショッピングモールを出る頃には、もう外は暗くなり始めていて、来た道を自転車で戻って、大学の前まで来た時にはもうすっかり日は暮れていた。帰りの道は行きよりもずっと涼しく、黒い道を街路灯が薄く照らしていて、全く別の道に感じられた。
大学を過ぎてからも、六分くらいは同じ道を進む。六月くらいに知ったのだが、真城さんの住んでいる方向と僕のアパートは大学からの方向が同じだった。
「じゃあ、バイバイ。またね」
真城さんは自転車に跨ったまま手を振った。
「うん、また」と僕も手を振り返した。
背中が遠ざかっていく。もう今日はその背中を見れないのかと思うと少しだけ寂しくなったが、別れ際の言葉を思い出すと、その寂しさは薄れてきた。
また、か……もう一度会えるんだよな。なんて良い響きだ……世界最高の、ひらがな二文字なんじゃないか?
今日一日感じた幸福感は未来にも待っているんだという喜びが、溶岩みたいに胸の底から湧き出て来る。走り出したい気分になる。しかし自転車に乗っているので走り出すことはできない。体を動かすことで発散できない分、胸にワクワク感は蓄積され、落ち着かない気持ちになる。
自転車を漕ぎながら、僕は上の空だった。気持ちが浮ついて注意力が弱くなるのは今の僕の精神状況では仕方がないことだったから、かなり速度を落として、前方に注意しながら漕ぐことにした。今のこの、フワフワした感じを長く感じていられるのなら、帰るまでの時間が数分くらい伸びても良いかと思った。
だから、アパートの前の道路に人が立っているのは遠目からにでも気がついた。
紺色のジーンズを履いて、灰色のパーカーを着ていた。背丈から男性だろう。フードを目深に被っていて、目元は全く見えない。道路の横の塀にもたれて少しも動かない。
こんな怪しい男は見たことがなかった。僕の住むアパートは築二十五年の二階建てで、それぞれの階に部屋が四部屋ずつしかなく、しかも三部屋ずつしか埋まっていない。どんな顔の住人が住んいるかは、朝にすれ違ったりするので、大体分かっている。
誰か待っているのだろうかと思った。しかし、部屋の電気は空き部屋以外、全て付いていた。
ここは県庁所在地の範囲だが、中心地からは離れているので人気は多くない。静かな民家が並んでいるような場所だ。裏には小高い山がある。車の通りすら、この時間になるとほとんどない。そんな所で、夜に、塀にもたれてボンヤリしている男はかなり奇妙に映った。
気味が悪くなってきた。さっさとコイツの隣を通り抜けて、自転車を駐輪場に留めて、部屋に入ってしまおうと思った。
僕は道路の左端を通ろうと思い、ハンドルを少し傾けた。その時、前輪に何かが引っかかったような衝撃があった。体が跳ねるように浮いた。僕は自転車から放り出され、盛大に地面に叩きつけられた。
とっさに瞑った目を開けると、右手の手の平から血が出ていた。左肘を擦りむいてヒリヒリする。僕はすぐに起き上がり、地面に膝をつけてしゃがむ格好になった。横から自転車のカラカラと虚しい音を立てている。
自転車を起こそうと、僕は立ち上がった。何に引っかかったのかと、道路を見てみるが、石ころ一つ見当たらない。唯一、地面が濡れているだけだった。こんなので滑って転ぶわけもない。よく見ると、水たまりに氷の欠片が浮いていた。
僕は男の方を向いた。男はゆらりと壁から背中を離して、僕の通り道を塞ぐように、道路の中央に立った。
男の口元から肩の辺りにかけて、冷気のような白い靄が漂っていた。それを見て、僕の思考は完全に固まってしまった。
「ピキッ、ピキッ」という乾いた音がした。男の足元を中心にして、地面が円状に凍っていた。
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