第2話 神社と吐血



「いや~、こんなこともあるもんだな~」


 目の前で弘が暢気そうにカレーを食べながら言った。

 食堂が本格的に混み始める前に席につけてよかった。横に見える注文口では階段まで続く列でごった返していて、あれに並んでいたかもしれないと思うとゾッとする。いや、今日なら幸せな気持ちに包まれているから、行列待ちも全く苦にならなかったかもしれない。


 僕は穏やかな気持ちでレンゲで掬った麻婆丼を見つめながら話す。


「多分、ノートはリュックに引っかかってたんだろうな。本当に、恋のキューピットに感謝しなきゃだな」


「そうだろ。今度お礼にパフェおごれ」


「なんでお前になんだよ」


 真城さんにノートを拾われて名前のことを尋ねられてから、そのまま十分くらい話した。もし僕の名前が小説家っぽくなかったら、話せていなかったかもしれない。本の話とか、受けている授業の話とか、出身地の話とか、云々。


 ただの雑談みたいなものだっただろうけど、僕にとっては人生の一大事だった。内容は全て頭に焼き付いている。次の講義では内容そっちのけで、話した内容を反芻していると思う。ちなみに次の授業は第二外国語の中国語だ。真城さんはフランス語を選択していて今日は休講らしい。だから講義室を出てからすぐに「バイバイ」と言いあって別れた。


「本当にノート落として良かった。あと、何にでも名前書く癖。ありがとう母さん……中学の時、無理矢理書かされたの修正液で消したりしてごめん」


「そんなことしてたのか……」


「あと、こんな素晴らしい名前つけてくれて、父さんと結婚して三島になってくれて……」


 弘は少し絶句していた。顔がひきつっているように見える。多分、ちょっと引いている。僕が弘の立場だったら同じような反応をしているだろうが、本当にそう思ってしまったのだから仕方がない。


「あぁ、この思い出だけで三か月は生きていける気がするよ」


 一時間前の僕の頭も使い物にならなかったが、今の僕の頭も幸せでポワポワしていて、さらにどうしようもないほど使い物にならなくなっている。頭の中のお花畑が咲き狂っていて、頭皮の毛穴から皮脂のように花粉がはみ出しているように思う。


 ようやく弘は口を開いてコメントをくれた。


「ピュアだけど、ちょっとキモイな。お前」





 午後の授業は二時前に終わった。これで今日の授業は全部終了だったので、自転車を濃いで帰宅した。弘はサークルに顔を出すと言っていたので大学の名前が大きく彫られている入口の前で別れた。僕もサークルには入っているが、かなり緩い集まりなので時々しか行ってない。


 アパートに帰るとリュックを下ろして、そのまま六畳の部屋の端に置かれている簡易ベッドに寝転んで仰向けになる。


 視界には白い天井と円形の電灯だけが映っている。いつの間にか、天井に真城さんの姿が描き出されていた。今日話した時の映像だ。


「あ~~~。かわいい~~~」


 無意識的に一人で呟く。そして心の中で、激しい問答が始まる。


「ようやく今日、初めて話せた。まだ心臓の音が高い気がする。また話したい。話したいけど、急に馴れ馴れしく話しかけたら嫌がるかな?それだけは避けたい。実は人見知りで今日は頑張って話しただけかもしれないし。それは僕か。まぁでも、そんな風には見えなかったような。挨拶くらいだな。うん、次は挨拶だ。もっと仲良くなりたいけど、距離感は大事だ。関係の構築が上手くいかなければ、向こうも辛いし、こっちも辛い。後になって響いて来るかもしれないしな。うん、それでいい。今度はもっと上手く話せるようになりたいな。イメージトレーニングもしておくか」


 ベッドから上半身を起こして、ネットで『男性諸君は要注意!女性との会話でしてはいけない事13選』『こんな男は嫌われる!女性がウザッと思う男性の言動』という記事を片っ端から読み込みこんだ。





 次の日から僕と真城さんは軽く挨拶を交わすようになった。


 二日後に、また授業の後に話した。この時は映画の話をした。真白さんは「マトリックス」と「ブレードランナー」が好きだと言っていた。SFが好きだなんて意外だなと思って、それがまた魅力的に思えた。多分、ミステリーでもホラーでも「貞子3D」って言われたって、何でも加点対象になったんだろうけど。


 たまたま座った席が真城さんと近かった時があった。それをきっかけにして授業を一緒に受けるようになった。最初の方は緊張して授業どころじゃなかった。心臓の音がうるさすぎて、教授の声が全く耳に入らなかった。慣れるまでに三日かかった。


 空きコマには一緒にカフェテリアや図書館のフリースペースで話したり勉強したりした。幸せすぎて死ぬかと思った。いや、自分で気付いていないだけで実はもう死んでいて、僕は天国にいるのかもしれない。そうじゃなきゃ、この幸福感の説明がつかない。


 テスト前には過去問やノートをシェアして、分からない所を質問し合った。弘が混じってくることもよくあった。


 毎回、緊張しながら誘ってみると、真城さんはOKしてくれた。気を使ってくれているのではないか、友達との約束はないのだろうかと、それを邪魔しているのではないかと不安になった。それとなく聞いてみると、真城さんは基本一人で行動している事が多いので、それは大した問題にならないらしかった。

「高校と違って、友達が絶対にいなきゃ詰む、というわけでもないらしいし」と笑って言った。

 サークルには席だけおいて、あまり行ってないらしかった。僕と同じ感じらしかった。そもそも、大勢でつるむこと自体が好きではないらしかった。ノリが合わないと言っていた。


 そういう日々を過ごしているうちに、大分、真城さんの事が分かってきた。打ち解けたような雰囲気になってきた。気軽に話せる友達、くらいにはなれたと思う。


 そして連絡先を交換できた。夢じゃないかと思った。向こうは当たり前のことみたいだったけど。僕が喜びながら弘に報告すると「えっ?逆にまだ交換してなかったのかよ」と呆れられた。


「向こうから聞いてきた?」


「そうだけど」


「お前から聞けよ」


「何回も聞こうとしたさ。でも、その度に『まだ早いかな』とか『断られたら一巻の終わりじゃん』思ってさ」


「いや、もう聞いていいだろ。というか聞けよ。奥手すぎるだろ。これだから高校の時に彼女出来てない奴はさ」


「それは関係ないだろ。簡単に聞けたら苦労しないって、何回も言っただろ」


 こうやって夕方の公園のブランコで二人並んで座り、恋愛相談を受けながら怒られた。


 自分の名前のせいか、僕は本を周りよりも持っている方だった。真城さんとそんな話をした後に、本を貸す話になり、貸してあげると喜んでくれた。その笑顔だけで何冊でも貸したいと思った。その後、弘に「お前は絶対にキャバクラには行くなよ。貢がされるから」と言われた。反論しようがないほどその通りな気がして、何も言えなかった。


 真城さんは古民家や神社めぐりが大好きだと言っていた。スマホで検索した写真を僕に見せながらキラキラさせる目の方が綺麗だと思った。


 確実に距離が近づいているのを感じていた。そして一か月半が過ぎた。





「ようやくテスト全部終わったなー。明日から夏休みかー」


 弘が陽気そうな声で言った。コイツの声は大体、いつも陽気そうだ。


「高校と違って二か月もあるってのが凄いよな」


「さすが大学って感じだよね」


 僕と真城さんはコーヒーをすすりながら答えた。最近知ったのだが、食堂には隅にコーヒーメーカーが設置されていて、レジで百円を払って専用の紙コップを貰うと使用できるらしい。気に留めてもなかったのだが、ドリンクバーもあって、これも200円払って専用のコップをレジで貰うと使えるらしい。弘はオレンジジュースを飲んでいる。


 僕たちは先ほど、一年前期の最後のテストである政治学入門を終えてきたところだった。テストは大体、授業中に配布されたレジュメの中から出ていて、単位を落とすことはまずないだろうと思った。正直、大学のテストがこんなもんなのだったら、高校の定期テストの方が大変かもしれない。これはかなり矛盾していることの様に思えた。


 三人でテストを終えた後に「お疲れ」と声を掛け合い、そのまま夏休みに入る解放感もあいまって、食堂で雑談に花を咲かせて現在に至る。


「二人は夏休みとか何か予定とかある?」と弘が聞いた。


「いや、全くない」


「私も特にないかなー」


 真城さんはさっき食堂で買ったケーキをつつきながら答えた。

 僕は背伸びをしながら「休みは嬉しいけど、そんなにあっても暇なだけっていうのもあるんだよな」と言った。


 二人とも「そうなんだよね」と笑いながら頷いている。


「時々、三人で集まってダベったり、どっか行ったりしようか」と弘が言った。流れるように自然な提案の仕方に僕は驚いた。声のトーンにも起伏がない。もし自分が何か誘うとすれば、緊張して絶対に一回は噛む自信がある。


「それありだな」


「うん。また集まろう」


 すかさず僕も同意すると、真城さんも続いた。

 もしかしてだけど、夏休み中も真城さんに会う口実ができたんじゃないの?と思って、僕は内心テンションが上がっていた。頭の中でどぶろっくの曲が流れる。


「あっそういえば」真城さんが思い出したように言った。「私、この後、神社に行くの。予定と言うほどじゃないけど」


「真城さんは神社好きだもんね」


 僕は真城さんのキラキラした目を思い出した。


「うん。夏休みにはいくつか色んな神社を回りたいな」


「いいなぁ。夏休みはこうやって使われるべきなんだよ」


「じゃあ三人で行く?今から」


「えっ?いいの?」


 急な提案に僕は驚いた。


「うん。興味があって暇ならだけど」


「あるある!全然、興味ある!」


 自分でも大きすぎると思う声が出た。学校以外の場所で真城さんと一緒に歩き回れることを想像して胸が沸き立った。


「あ~、ゴメン。俺、この後、バイトあるんだ」


 少しの間、黙っていた弘が言った。


「そっか。じゃあ別の日にしようか」


「そうだね。弘、また暇な日分かったら連絡してくれ」


 僕も真城さんに同意して弘に言った。


「いや、今日行くのを楽しみにしてたのに延期させるのは悪いからな……さすがに」


 弘はばつが悪そうに頭を掻いた。そして、僕の見間違いでなければ、じっくり見ていても確証が持てないくらいにだけど、ニヤリと少しだけ口角を上げたような気がした。


「まぁ、俺のことは気にせずに、春樹、お前だけついていけよ」


 啜っていたコーヒーを吹き出しそうになった。


 えぇ?!おい!!何言ってんだ、弘、変な気を使わなくていいんだよ!、と心の中で絶叫していた。僕の内心は穏やかではなかった。


 それはさすがに、とこっちから断ろうと口を開きかけたが、その前に真城さんが僕の方を見てこう言った。


「私は大丈夫だけど……三島君はどう?」


「……」


「三島くん?」


「……行きます!」


 いや、行かせてください。お願いします。


「じゃあ楽しんできて」と弘が言うと、真城さんが「ありがとう」と返していた。


 マジか……


 マジか!?これ夢じゃないよな!?リアリー?


 僕はあまりのことに血が頭に集中し過ぎて意識が朦朧としてしまって、ぶっ倒れそうになった。でもそれだと真城さんと神社にいけないから、ギリギリの所で意識を保った。

 心臓も高鳴り過ぎて少し痛い気がする。血管がはちきれそうだ。神社で吐血しないように気を付けよう。


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