第1話 ノートと女神



「はぁ~~~」


 僕は肺に溜まった空気を全て吐き出すような溜息をついた。

 背伸びをして、瞼を手の平でゴシゴシと擦る。固まった背筋がほぐれて痛気持ち良く、瞬きが少なくなった眼球にも潤いが戻る。


「よし」


 再び気合いを入れて、黒板の方へ目を向ける。教授が刑法について語りながら黒板に板書していた。チョークのカツカツという音を教授の持っているマイクが拾って講義室に響かせている。

 ふむふむ、なるほど。


 新しく教授が黒板に書き出した部分をノートに取ろうとした。講義室の他の学生もノートを取っている。僕もそれに倣おうとする。


「…………」


 しかし十秒後には、どうにも視線は左斜めに固定されたままになってしまって、手元のノートへと向かなくなってしまった。

 原因は明確だった。この席からだと黒板を見ようとしたら、どうしても真城さんが視界に入る。


 知らない人のために一言で説明すると、真城さんとは世界一かわいい存在だ。


 こうなってしまうと目の焦点がどうしても黒板の文字ではなく、ななめ左の真城さんに移って、そのまま固定されてしまう。

 無理矢理、真城さんから視線をベリベリと引きはがしてノートに向けて、覚えていた板書を書き出そうとするが、もう六文字くらいしか覚えてない。

 ふりだしに戻る。

 この一連の動作を、今日はもう十回はやっている気がする。

 馬鹿なんじゃないかと、自分でも思う。


「かわいい……」


 誰にも聞こえないくらいの独り言で呟いた。いつの間にかまた真城さんに視線が行っている。

 理由が分からなければ難病だろうと自分で診断して病院に行くところだ。自覚症状がある。完全に頭が湧いている。


 こんな状態だから、頭の中で長々と愛について論じてしまったりして、勝手に恥ずかしくなってしまう。数学の定理みたいな絶対性って、お前は法学部だろ。ド文系が何言ってるんだ?


 現在は講義の真っ最中だった。法学部C棟の、大講義室。その真ん中より少し後ろの左端の席に、僕は座っていた。真城さんは、前から三列目の、真ん中より少し左寄りの席に座っている。


 本当に、何をやってるんだ、僕は。中学生か?

 でも高校は男子校だったし、勉強と部活しかしてなかったから、女子への話しかけ方が分からない。法学を極めた人の話よりも凄腕ナンパ師の話の方が今の僕には余程役に立つように思う。


 心の中で勝手に弱気になる。高校が男子校だと女子への免疫がなくなる。免疫がないから、可愛い女の子が同じ空間にいると、勝手に一人で緊張している。男子校なんて何割かの人間の人生を狂わすわけだからこの世から根絶するべきだ。この症状は周りに聞くと案外多いんだから。


 大学に入ってもう三か月か……話したい……きっかけさえあればな……


 講義室に入ると一番に彼女がいるかどうか確認してしまうすらある。今日も例外ではない。駐輪場に入った瞬間から、もう姿を探してしまったりする日もある。

 昔、駐輪場で一度見かけただけなのに、またいるかもしれないという不確実なギャンブル依存症的な脳がそうさせてしまう。実際、二週間に一回くらいタイミングが同じになるだけなのだから、タチが悪い。


 今日も講義室に入って、姿を見れて嬉しくなった後に、しばらくしてどうにもならないもどかしさに襲われた。


 自分で自分が嫌になって来る。僕は再び溜息をついた。

 講義など、頭に入ってくるはずもない。もうあきらめた。





「また見てたのか?」


 隣から小馬鹿にしたような声が聞こえた。

 僕の右隣の席では、中野弘が座って一緒に講義を受けている。弘はニヤニヤ笑いながら僕を見ていた。机は五人が奥から詰めて座れる長机なので、すぐ横に鬱陶しい顔がある。


「あっ……いや……」


 弘からの指摘が完全に図星で、僕は無様にたじろいだ。


「いい加減告れよ」


「いや、知らない奴にいきなり告られたらビビるだろ。成功確率絶対低いだろうし」


「まぁ~、確かに」


 顔を近づけあってヒソヒソ話す。講義室の席は四割、いや三割五分ほどしか埋まってなく、僕と弘の周りの席も空席だった。

 他にも所々、コソコソ話している連中もいるし、教授もマイクを使ってベラベラと呪文を唱えるように説明している。息継ぎをしているのか怪しい。だから僕たちの会話も誰にも聞こえてはいないと思う、多分。


 男にしては少し長めの弘の髪が声を出すたびに息で軽くなびく。茶髪はチャラそうに見えて苦手だ。だから僕は染めないし、真城さんにも綺麗な黒髪のままでいて欲しいと願う。もし染めて来られたら少し精神的にショックを受けるかもしれない。


「彼氏いるのかな」と、弘が知るわけないのに僕は気付いたら質問していた。隣にいるからというだけの理由だ。


「いたらどうするんだよ」


「どうもしないけど」


「いなかったらどうするんだよ」


「………」


 僕の無言に、弘が苦笑いする。


「とっと聞けばいいじゃん。聞いてやろうか」


「やめてくれ、ヘタレだと思われる。それに、簡単に聞けたら苦労してないって」


「ガチもんの初恋じゃん」


 僕がもう一度溜息をつくと同時に、教授が「じゃあ今日はここで終わり」と言ってマイクの電源を切った。それを合図に講義室は一気にざわつき始める。

 弘は溜息をつく僕をじっと見て何か考えているみたいだったが、窓の外を見て「あっ」と小さく叫んだ。窓の外に寄って行って、面白そうにベンチを外を指さした。


「ほら、あいつ見て見ろよ。また、いつものベンチに座ってる。先週とは違う女だぜ」


「ん?どれ?」


 僕も気になって窓の方に近づいて見てみる。


「本当だ。よく気付いたな。相変わらずイチャついてるな」


「一昨日、駅前の通りでナンパしてたの見たからな。ちなみに、今ベンチに座っている女と、ナンパしてた女は別人な」


 僕は何とも言えない気持ちになって言葉を失う。同時に、何の躊躇もなしに女性に声をかけ続けられる彼を少しだけ羨ましく思う。彼の持っているその力の百分の一でも貰えたら、どれだけ強くなれるだろう。


「ナンパできる奴って凄いよな……何を考えて、どうやって話しかけているんだろう?頭の中、どうなってるんだ……」


「重症だな、お前。入院しろよ」


 弘は笑いながら席に戻り、バックを肩にかけた。


「何も考えていないと思うぞ、ベッドの上のこと以外。それより、食堂行こうぜ。早く行かないと混む」

 ナンパ野郎を眺め続けていた僕に、弘はリュックを持ってきて渡した。


「教科書とノート入れといてやったから」


「いつの間に。ありがとう。弘はきっと、女に惚れられるよ」


「人間失格の竹一みたいな予言やめろ」


 ワザ、ワザと弘の横腹をつつきながら僕はリュックを背負って、机と机の間の通路を歩いていく。教檀前の机に出席票を出していくので、真城さんの座っている横を通って行くことになる。

 真城さんはまだ座っている。その後ろ姿が近づいてくるにつれて、心臓の鼓動も大きくなってくる。音が喉元まで響いてきているような気がする。もしかしたら聞こえてるんじゃないかと心配になる。


 無事に通り過ぎてホッとした時、後ろからバサッという音がした。何か落ちたのだろうと思ったが、すぐにハッとした。すぐに振り向けなかった。壊れかけのロボットのように、ギギギギと首を軋ませながら回転させる。


 真城さんは床に落ちているノートを拾っていた。それを見て、ただ真城さんがノートを落としただけだと思ってまた歩き出そうとしたが、真城さんの持っているノートに視線が釘付けになった。生協で売っている、表紙に緑色の枠線が入っているノート。

 見覚えのあるノートだった。というか、それ、僕のノートだ。


「これ、落としましたよ?」


 真城さんは僕にノートを差し出した。


「えぇ?」


 僕は今更、驚いた声を出してしまった。真城さんが同じ空間にいると頭の中の時間の進み方が歪んでいる気がする。おかげで反応速度がワンテンポ遅い。

 なんでだ?弘がちゃんと入れたって………おい、何でお前はそんなにニヤニヤして僕の方を見てんだよ。お前が後ろを歩いてたんだから、僕が落としたのにも気付いてただろ。

 リュックのファスナーがちゃんと閉じているか確認する。ちゃんと閉じている。


 数秒の間、場に沈黙が降りた。


「あ、ありがとう」


 手と声が震えないように気を付けて、軽くお辞儀をしながらノートを受け取った。顔をあげると、真城さんは満面の笑みで「どういたしまして」と言った。


 僕は心の中で「かわえぇぇぇぇぇl!!!!!!」と叫び狂っていた。


 なに?この笑顔の破壊力。今日からテレビのCMに出演してる女優全員、もうこの女神様でいいだろ。出てくる商品全部買うわ。


 そう、控えめに言って、真城さんの可愛さは女神と遜色がない。女神を見たことがないのに女神の美しさを連想させてしまうわけだから、つまり真城さんは女神だと言うことになる。断言してもいい。

 以前に弘は「確かに可愛いけど、お前が礼讃するほどじゃないだろ」と言っていたが、それはこいつの美に対しての感性が疎いだけだから、女神を女神と認識できないのは仕方がない。目の前の女神様はこの講義室で僕だけに見える女神なのだ。混乱していて、自分でも何を言っているかよく分からない。可愛すぎて脳が破壊されている。


 こんなに近くで真城さんの顔を見るのは初めてだった。肌は陶器のように白くてきめ細かい。目はそんなに大きくないけれど、睫毛は人形の様に長い。髪は漆を塗りたくったみたいに真っ黒で、見たことないくらいサラサラだ。毛の流れが一本一本見えるみたいで、光が反射して艶がある。何のシャンプー使ったらそうなるんだ?


 僕はまだ心の中で真城さんを褒めちぎっていた。真城さんの方は僕の持っているノートに視線を向けていた。


「三島春樹……名前、小説家っぽいね」


 ノートの隅には僕の名前が書かれている。持ち物には必ず名前を書くという小学生の時からの癖が大学でも抜けてない。


「あぁ、これね……名前ね……そうなんだ」


「私、二人ともよく読むよ」


 僕は少し黙ってしまった。この流れ、もしかしたら真城さんと会話できるきっかけになっているのではないか、と今更気が付いた。僕は急に焦り始めた。この機会を逃したら墓まで後悔どころか、墓に入ってやがて時が経ち子孫までも僕の顔や性格を忘れ、墓が取り壊しになってしまっても、地縛霊としてまだ後悔している可能性がある。


「僕もです」


 心臓の高鳴りを押し殺しながら、僕は言った。


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