家族

河伯ノ者

家族

 山の道。

 積もった雪を踏む足音と風の音が混じり合う冬の山は、生物を拒絶するかのようなもの寂しさを持っていた。

 二十年ぶりに登る山道は遠い記憶の中にあるはずのそれと、まるで相違ない姿で僕を迎えてくれた。

 逸る気持ちを抑えつつ、僕は雪の感触を確かめながら母の待つペンションへと向かっている。

 今日行くことは伝えてはいないが、母がここにまだ住んでいるのは調べがついていた。

 二十年前のあの日、当時六歳だった僕が誘拐されたあの日以来、母のことを忘れたことはなかった。

 あの日の光景は今でも夢に見るくらいに恐ろしかった。

 大きな男に抱えられた僕。小さくなっていく母に必死に手を伸ばして泣きじゃくる記憶は今思い出しても体が震える。

 僕はその日以来、頭のおかしな女性に監禁された。

 枯れた枝木のように痩せ細ったその人は、何かにつけて僕の母を否定した。

 勉強が上手くできなかった時も、皿を割ってしまった時も、お漏らしをした時にさえ、それを僕の母が悪いのだと言ってヒステリックを起こしていた。

 僕が大きくなり小学生になった時、僕は警察に誘拐されたことを告げた。

 しかし、警察官は母親と喧嘩でもしたのだろうと、幼い僕を相手にはしなかった。

 それを知った女は僕を怒鳴りつけた。口汚い言葉で僕と母を罵倒し、僕の頬を何度もぶった。自分が母だ、お前が母だと思っている女は泥棒猫だとありもしない妄想を吐き散らす女。

 逃げ出そうともしたが女はいつでも僕を監視していた。

 鉄格子の窓。鍵のかかった部屋。登下校は車。友人の家に遊びに行く時ですら、その女は送迎を欠かさなかった。

 来る日も来る日も、その女は僕を視界から外す日はなかった。

 妄想に憑りつかれた哀れな女。隙間の空いた歯茎を見せるその笑みは不気味だった。

 周りにはその女が息子思いの良い母親に見えていたようだ。

 そんな風だから僕は誰にも自分が誘拐された子供だ、なんて言えなかった。

 中学になっても女は監視の目を緩めることはしなかった。

 僕の友人にまで僕の話を聞き、僕が変なことを口走っていないか、と確認するほどだ。

 高校生になった日、僕はようやくその女の目から解放された。

 逃げ出したかった。早く母の下に帰りたかった。

 きっと母は僕のことを探しているだろう。一人寂しく夜を過ごし、暮れる季節に思いを馳せていたに違いない。

 僕だってそうだ。母に会うことだけを目標に日々の生活を耐えていた。

 優しい母。

 いつも美味しい手料理を振舞ってくれた。

 散歩の日は手を繋いでくれた。

 寒い日は自分の毛布を僕にかけてくれた。

 僕が泣いていたらいつもまじないの言葉をかけてくれた。

 母に会いたい。

 マザコンと呼ばれてもいい。僕にとって母との別れはそれほど辛いものだったのだ。

 もうすぐ会える。

 長くかかってしまったが、ようやく再開できるのだ。

 山道を進んでいくと木造のペンションが見えてきた。レンガ造りの煙突からはモクモクと白い煙が上がっている。

 僕は緊張した面持ちで階段を上がっていく。

 元気にしていただろうか?僕を見たらなんというだろうか?それよりも僕だとわかってくれるだろうか?

 扉のペンギンを模したドアノッカーを掴み二度扉を叩く。

 中からは少し枯れた女性の声が聞こえた。急かす様な足音は聴き馴染みのあるリズムだ。

 扉が開いていく。

 少し厚手のジャケットを着込んだ女性が顔を出す。

 皴のある痩身の女性。綺麗な青い瞳と長い黒髪が特徴的な女性。

 嗚呼、見紛うことがあろうか。

「―――ただいま、母さん」

 女性は僕の顔を見て、一瞬眉を顰めたがすぐにその表情は驚きへと変わり、次には大きな涙がその痩せこけた頬を撫でた。

 膝から崩れ落ちて泣く母を僕は抱きしめる。

 ようやく、会えた。



 風に舞う一枚の新聞。

 そこには長きにわたり子供を誘拐した女のことが載っていた。

 赤ん坊を誘拐した女性は、その子供に自分のことを母親だと言い聞かせ、六年以上もの間、家族生活を送っていたらしい。

 その事件が解決し、子供は無事、母親の下へと帰れたそうだ。

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