純愛

「スミレ、来ましたよ」




 男が病室に入ってきて、1人の女が寝ているベッドの方へと向かう。


 男はベッドの横に腰掛け、寝ている女の手を取り両手で包み込む。




「今日もいい一日でした。朝はいつも通りに起きて、色のない一日を生きて、あなたの元にくる」




 女は起きる気配がない。数年前、不慮の事故に巻き込まれてから、彼女はこうして眠ったままだ。偶に、ほんの偶に、彼女が苦しそうに眠っていたり、幸せそうに眠っていたりと、表情が現れている事がある。


 今日の彼女の寝顔に表情は無い。




「私は……いえ、僕はあなたが笑ってくれていれば、笑いかけてくれれば、それだけで充分だったのです。あなたがそばにいてくれるだけで、つまらない世界も色とりどりの鮮やかで幸せな世界になるのです。ピクニックへ行けなくても、古本市場巡りが出来なくても……咳が酷くて会話が出来なくても。あなたが横にいてくれるだけで、僕は幸せだと感じる事ができたのです」




 ベッドで眠っている彼女は生まれた時から身体が弱かった。


 少しでも雨に濡れようものならば、次の日には熱を出し、三日三晩魘され、調子のいい日はまだしも、それ以外に走ったりしたものならば、咳が止まらなくなる。学校にも碌に行けなかった。


 そんな彼女にこの男は、彼女の自宅の、窓から桜の見える部屋のベッドで、彼女に様々なお話を聞かせた。




 森で見つけた動物の話、他国の友人ができた話、本市場で彼女の好きな作家の本を買ってきて、その感想を2人で話したり。


 そんな中でも、彼女が一等好きだったのは、男の話す物語だ。男の話す物語は彼女にとって不思議な力を持っていた。どんなに体調が悪い日でも、男の物語を聞けば不思議と元気が出てくるのだ。




「……スミレ、覚えていますか?あなたが体調の良い日に、隣国に足を運んだ日の事。この国の奥ゆかしい雰囲気とはまた違った雰囲気の国でした。あの時は驚きましたよ。万年筆ではなく、ガラスをペンが主流の国でしたね。あぁそれから、本屋さんで素敵な本を見つけましたよね。海の女王と書庫の番人の物語。覚えていますか?あれを読んでから、あなたはあの作家の虜になりましたね。あの時はらしくもなく嫉妬してしまいましたよ。僕のくだらない作り話なんか、もう聞いてくれなくなるのではないかと。……でも、そんな事は全くありませんでしたね。話終わった後、輝く笑顔で感想を教えてくれるのは、かわりませんでした。あなたは僕の物語を好いてくれるままだった。でも、僕があの作家の新作をあなたに届けた日だけは、その本に夢中になって読んでいましたね。生憎、僕はその作家の良さがあまりよく分からなかったので、あなたがその本を読んだ後に、あなたの感想を聞くのが楽しみでした」




 彼は今日も、目を覚さない彼女に語りかける。これが習慣となったのはいつだっただろうか。


 男は彼女から手を離し、自身の着ている着物の和服の懐から、一冊の本を取り出し、ベッドサイドに置く。


 彼女の好きな作家の新作だ。起きていたら、彼女はどんなに喜んでいたのだろうか。




「……あなたは、一体いつになったら目覚めるのですか?眠りについて早5年。僕もそろそろ、寂しくて死んでしまいそうです」




「どうかその透き通ったビー玉の様な声で、早く僕の名前を呼んでください」




 男は彼女の唇にそっと、割れ物を扱うかの様にキスをする。


 でも、彼女は目覚めない。




 (こんなんで、起きる筈がない事は僕が一番わかっている筈なのに)




 男は人差し指と中指を彼女の額にあてる。


 すると、指の触れた部分が光だし、ぽわぽわと七色の光の粒が舞う。




「あなたは寂しがり屋さんですからね。どうか悪夢に魘されませんように」




 僕の想いが、彼女に届くようにと願っておまじないをかけ、彼女の頭をひとなでする。




「……今日も、僕は貴女を待っています」




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