未完成の地球儀

受戒

揺篭 -壱-


 生まれて初めて乗っていた物は、海を超えてやってきた乳母車だった。バブルが崩壊した後に出来た、金属と皮のフリをした中国の安物で、居心地悪さを覚えたのはこの頃からかもしれない。

 走り出して映る景色はいつもピントが合う事は無く、歯車の軋む音が響く中揺られて進む。身体を預ける緩衝材も、日差しの焦げた匂いが鼻先をくすぐる。嫌がる素振りをしても、樟脳の香りが際立つ祖母は「ミルクが欲しいのかい」と、意志を汲み取れられず、過ごしていた。


 幼くして私を産んだ母は、社会の隅に追いやられており、教育や道具、権利の全ては祖母に握り占められていた。セキュリティなんて言葉は似つかわしく無い、第一次ベビーブームで出来たハリボテの2DKのアパートに、窮屈な3人暮らしをして育った。



 そして、この記憶が幼いながらに強く覚えているのは他でも無く、隣家族の癖して対象的な同い年の"カオリ"がいた事だった。


優雅な曲線と、輝かしい程の黒皮の艶が目に刺さる程の華やかさが詰まっていた。君は色白い柔らかそうな肌に生えかけの金髪と、誰もが人形と例えたくなるほどだった。いつ見ても、乳母車の中で眠ったまま、舗装の甘い公道を揺れる音が響く事無く、愛情を紡がれていた。

たかが下町に目の前の1本の公道が隔てているだけなのに、その先の景色は息を飲む感覚に陥る程、白に包まれた宮殿という言葉が相応しかった。幼いながらに、多くを望めない悲しさと微かに黒い感情に襲われ、泣き喚いた代償にハリボテの乳母車に未来は無かった。



次に乗らされた物は、幼くして母と別れた父の、工場の油を吸った名の知らぬブランドの軽トラだった。

「この世界にはな、綺麗な景色は沢山あるんだぜ。」

と、マイルドセブンを咥えながら、海に付くとわざわざ背負って連れ出してくれた。淡い程の赤い夕焼けが、人生の苦労が詰まった作業着を染め、恰幅のいい身体から吐き出される煙は、何処と無く後悔の匂いがしていた。

ハリボテのアパートが近くになると、玄関付近で降ろされた事があるが、逆車線から走り抜けるカオリを乗せた煌びやかな黒いベンツを見てからなのか、それ以降は10m離れた所で降ろされる様になっていた。


「お前が大人になって飲む酒が楽しみなんだよ。」が口癖でいつも背負ってくれてた父の温もりは、ランドセルの重みに慣れた頃にはなくなっていた。若くして酒に溺れたから、あの日見た海が何もかも連れ去ったと皮肉交じりに祖母が教えてくれた。当時は何が皮肉かは分からなかったが、父が無くなって数日経った夜更けに「毎度、早くに保険金を掛けとくべきじゃったよ」と聞こえた時に、我が家の居心地悪さを強く覚えた。加えて、寵愛を受けて育ち、何もかもを失った事が無さそうなカオリに黒い感情が芽生えたのもこの頃だったかもしれない。



 そして、初めて自分の意思で乗りだした物が、古びれた戦隊者が飾られた自転車だった。生前、父から受けた「綺麗な景色は沢山ある」という言葉を信じ、多くの痛みを耐えて漕げる様に覚えた。いつも公道を挟んで映る見せかけの綺麗では無い、汚された心が洗われる様な感覚になれる場所を求めて、足を動かし続けた。隣人のカオリは、たかが私立への移動に黒のベンツが過ぎ去ろうとも、努力は辞めなかった。

 祖母も母も自ら動きだした事に歓びの声をあげていたが、自身の行動範囲は教育と言う名の制限。漕げるだけという魅力だけでは、たかが公立でも学級からの差別的な視線は消える事も無かった。


 取り残され、誰に対し何をぶつけていいか分からず、黒い感情は疼きを超えて行動に起こそうとしたある日。黒い感情は祖母を飲み込んだのか、病院での生活になり、数日間憎き宮殿に預けられる事になってしまった。

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未完成の地球儀 受戒 @hinokiii

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