閑話① 綾人の追憶


「うん、綾人は才能があるね」


「えっ! やったー本当に!?」


「あぁ、その才能は大切にしなさい」


「うん!」


 老爺はそう言いながら、ピアノ椅子に座っている綾人の頭を撫でた。

 九条宗介。この老爺は綾人にとって祖父だった。


「なんでおじいちゃんは才能があるのに音楽やめちゃったの?」


「……僕は音楽を愛していたけど。しかし僕は音楽に愛されなかった、音楽に呪われていたんだ」


「うーん……どういうこと?」


「ははっ、綾人にはまだ早かったかもね……綾人は音楽を愛しているかい?」


 宗介は温かい眼差しでそう聞いた。彼はもう決してもう若く無い。余生に希望もなく、人生でやるべきことは全てやった。

 そんな宗介の生きる糧は日々成長する綾人だった。


「愛しているかは分からない……でも音楽は好きだよ! ピアノも歌もギターもヴァイオリンも!」


「そうか、それで十分だ。その気持ちは才能よりも大事なものだよ。決して僕のようにはならないでね」


「えぇー! おじいちゃんみたいに上手になりたいよ!」


「はっはっはっ……じゃあもっと練習しなきゃな」


「うん!」


 宗介はとても優しかった。

 やがて、覚悟を決めたように重い口を開く。


「綾人、音楽をするならこれだけは覚えておきなさい」


「なに……?」


「これからも音楽を続けるならとても大切な話だ。」


 宗介はそう切り出した。宗介の話は綾人にとって全て大切だった。しかしその中でも特に大事だと思っえ聞くことにした。


「音楽は無声の叫び。だから唯一音楽だけが世界共通の言語なんだ。…………ただ音楽だけが世界中にいる他人の魂と、自分の魂との架け橋になることが出来る」


「うん」


「そんな強大な力だから、他人に伝え続けたらいずれ代償が来るんだ。勿論、一人で楽しむ分には何の心配も要らないけどね」


「……」


「綾人は音楽を他人に聞かせるのかい? それとも自分だけで楽しむのかい?」


「まだ、分からない……」


「急ぐ必要は無いよ。……でも、この選択はいずれ決めなくてはならない。そして、中途半端に決めたらダメだ。一生をかけて貫き通す覚悟が出来たら決めなさい」


 ***


「――本当に凄いね綾人は……。その歳で幻想即興曲を弾いてしまうんだから」


 宗介は感心したようにそう言葉を落とす。

 綾人はいつも通りにピアノを弾いただけだったので、何に感心したのか分からなかった。


「すごいの……?」


「もちろん、凄いよ。歌もとても上手だしね。……だからこそ将来が怖い、音楽を好きであり続けられるのか、それが不安だよ」


「嫌いには、ならないと思うよ?」


「そうかな……そうだといいね。とてつもない才能を持つと、大抵の人はそれを嫌いになる、好きでありたいのに。圧倒的な才能がそれをつまらなくさせるから。これは才能を持つ人間のジレンマだ」


 舌の根が乾かぬ内にどんどん言葉を吐く。思いが溢れ出ているようだった。

 綾人は意味を半分ほどしか理解出来ていない。しかし、自分を気の毒に思っているのだと汲み取った。


「……でも、極稀に才能を持っても好きであり続けられる人がいるんだ。才能にあぐらをかかずに努力を怠らない、トップに立つ人物はだいたいそういう人だ」


「おじいちゃんはどうだったの?」


「僕は、才能があったのかもしれない。でも自分ではそう思ってなかったらずっと努力していたよ。……音楽は徐々に嫌いになっていったよ」


 ***


「綾人、食べ方に品がないぞ」


 怜司は冷徹にそう注意した。

 九条怜司、彼は綾人の実の父親である。

 綾人はお父さんの冷ややかな眼差しが苦手だった。


「お父さんごめんなさい……」


「別に良いではないですか、怜司さん。綾人はまだ五つですよ」


 そう言葉を返したのは九条優香。綾人の母親であった。


「……もう五つだ。綾人は有栖川家に仕える執事にさせる、旦那様に仕えた時に失礼がないようにしつけなければならない」


「……本当に綾人はその道を望んでいるのですか? 執事になって欲しいというのは私達の勝手なエゴです。この子にはこの子の人生があります。将来を決めるのは私達ではなく綾人自身ですよ」


「九条家はお嬢様に仕えるべき家系だ。まして私達は子供に恵まれず綾人に兄弟はいない。継ぐのは綾人しかいないのだよ」


 怜司は冷酷にそう告げた。綾人に話の意味は分からなかったが、悲しい話だというのは雰囲気で理解できた。


 綾人は、自分の将来が有栖川家の使用人だと知っていた。

 物心のつく前から、お父さんが口癖のように言っていたから「お前は有栖川家に仕える、恥ずかしくない振る舞いを学べ」と。

 綾人には、何になりたいとかいう夢がない。

 そんな綾人にとって親に決められているレールというのは都合が良かった。そのために生まれてきたのだと分かっていたし、特別嫌な気持ちも湧かなかった。


「綾人が今の現状に不満を持っていない事が一番おかしな事です……。綾人は執事になる事になんの疑問も抱いていない、さも当然かのように流している。私はそれが一番辛いのですよ」


 なぜお母さんがそんなに悲しそうにしていたのか、綾人は全く分からなかった。


「そんなこと知らないな。綾人が執事になるのは絶対だ」


「……せめて、十いや、八歳まで待ちましょう。それまでに綾人の夢が見つかったらそれを追わせてあげませんか?」


「ダメだ。有栖川家の使用人になる、これは確定事項だ。父親のような、無能を生み出す訳には行かないんだ……っ!」


「怜司さん……」


 綾人は祖父が無能だと言われている事に驚いた。「無能」という言葉の意味は分からない。しかしマイナスな意味で他人を卑下する言葉である気がした。


「あのね、おじいちゃんすごいんだよ! ピアノも歌もすごく上手でね――」


 だから綾人はひたすら凄いと思っているところを話した。おじいちゃんは素敵な人だと分かってほしかったから。


「――父親の話をするな。あいつがいたから……っ!」


 怜司は綾人の思惑とは裏腹の反応をした。

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