台北迷子
野田詠月
短編 台北迷子
台北は雨の街だ。
七八九月の灼熱の夏よりも雨の印象のほうが強く、雨の似合う街だ。
半年も暮せば、雨が好きになり、雨を呪って生きた半生を勿体なく思うようになる。
この街の雨は鬱よりも幸福を降らせている。
傘もささずに南京東路林森公園前の交差点の雑踏に立ち尽くしていると、いつの間にか記憶喪失になり、人生からはぐれてしまいそうで、だからと言って、そうなってしまうことを厭う気は全くなくて、ただただ雨に濡れながらどこまでも歩いていきたくなるのだ。美食と親切と快楽に溢れたこの街のどこかへ流れつきたいのではない。ただただ雨に濡れていたいのだ。
楽園の午後の最後の自由時間に降り注ぐものは陽光ではなく、雨であるべきだ。
この街の雨は暖かい。冷たいと思ったことがない。
太陽がデブでヨレヨレで無能というわけではなく、雨が素敵すぎるのだ。
今日は北へ向かう。
きっと雨が導いているのだろう。
公園を抜けて右折したところにある欣欣秀泰影城は、二十三四の頃、小姐と一緒に来たっけ。観たのは金城武主演の『心動』という切ない青春ラブストーリーものだった。その子とは二度ほどデートしてそれっきりだったので、何もなかったどころか、顔も名前も思い出せない。
他愛もない記憶。
ただ、その映画のヒロインを俺は殊の外、気に入ってしまい、その後、痩軀、貧乳、ショートカットの女性が好みになってしまった。
林森北路のほぼど真ん中にある銭櫃では朝まで仲間と歌って騒いだ。
何分、頭と胃袋が融通が利く頃だったので、歌を通じて中国語など三か月で不自由しなくなった。あの頃のヒット曲なら今でも歌詞を見ずに歌える。
伍佰、劉徳華、張學良、張信哲、任賢齋、王力宏、F4。BEYONDに至っては広東語だったな。
そのくせ、その当時、日本で流行っていた歌はあまり知らない。YouTubeなどなかった時代の話だ。
あの頃の仲間たちはいったいどこへ行ったのだろう?
あの日「再見」と言ったっきり。
彼らも亦、この街のどこかでこの街の優しい雨に打たれ続けているのだろうか?
日本と台湾。
近いようで遠い。
さらに北へ歩き、ほとんど民權東路寄りのマッサージ屋豪門世家理容名店には入ったことはないが、まるで台北の街を興味津々にそぞろ歩いているような志村けんの看板がよく目立つ。
日本人には意外と知られていないが、俺より少し下の世代の台湾人男子は「変なおじさん」を踊れる確率が高い。
即ち、台湾でも志村けんは爆笑の神であり、彼らは幼き頃の俺と同じものを見て笑っているのだ。
誇らしいと同時に、彼を奪い去った武漢肺炎が恨めしい。
あの日俺は、出張先の富山で悲報を聴き、松川沿いの満開の桜道を歩きながら男泣きをした。
あれいらい、俺は桜を見るのが辛くなった。
ほどなく、民權東路に出て、雙城街方面に抜ける長い信号待ちをしている間にも細い糸のような雨は降り続いている。まるで朱夏の想い出に余計なことは言わず、手を握って寄り添ってくれているように(だから、地下道を通るなんて野暮天は雨に申し訳なくてできない)。
俺は黙って空を見上げ、雨に感謝する。
ホテルサンルート台北前のバス停の人ごみが雨に霞んで、何やら揺れてねじ曲がって見えるので、人なのか物なのか判然としない。もっとも、身内でないのなら人でも物でも別に構わないのだが……
信号を渡って、二番目の角を左折。
晴光公園前の黄記は四半世紀は屋台だったのに、立派になったものだ。湿気を含んだ八角の匂いが否が応にも今、台北にいることを思い知らさせる。
あの頃、どれだけの日本人が魯肉飯を知っていただろうか?
亦、どれだけの日本人が台湾と中国の区別がついていただろうか?
常客だった俺は行けばいまだに「余りもんだけど食べてね」と豚足がサーヴィスされるのがささやかな自慢だ。老台北の友情の篤さにも感謝だ。
午後の早い時間なので、夜市は閑散としていて退屈なので、雨の匂いと獣臭と濃い香辛料と野菜やフルーツと汗の匂いが混在した晴光商場を熊のようにウロウロと徘徊し、油飯や三明治を買い食いし、美和行を右に入ったところのアーケード街入ってすぐの果物屋で見るからに新鮮で瑞々しいバナナやパパイヤを手に取りながら、俺は面白いことを考えついたので、いじめっ子の目で笑った。
レモンがあればベストなのだが、ここは台北だ。
グアバを一斤(六百グラム)ほど買い求め、踵を返し、民權東路から行天宮の手前の信号のビルまで歩き、一階のピアノの生演奏の流れるカフェを抜けて、エスカレーターで地下一階の何嘉仁書店へと降りる。目的は誰かさんのように元の場所に戻す腕力もないのに画集を何冊も書棚から引っ張り出す迷惑行為をする為ではない。
この美術館のギフトショップのようにアカデミックで整然とし、広々とした書店は、故宮博物館と業務提携をしているようで、書物や掛け軸や茶器やお土産になりそうな小物以外に陶器のレプリカなんかも販売している。
白磁に如何にも中国チックな青い花鳥が染めつけられた八千元ほどするどこか女体のように色っぽい荷口瓶の前で立ち止まった俺は、躊躇わずにずっしりと重い黄緑色のグアバを一個縦に置いて瓶の口を塞ぎ、誰かさんのようにこの荷口瓶を中心にビルが木っ端みじんになるテロルの想像に遊び、ニヤニヤしながらテロリストのように穢れなき魂を悪魔に売り渡してしまったような、どこか高所にいるような落ち着かない気持ちで架空の虐殺の現場を立ち去った。
ビルの外に出ると雨脚が強くなっていた。
構わず、行天宮を目指す。
勿論、恐るべき過ぎた悪戯を行天宮の関羽様に許しを請う為に。
台北迷子 野田詠月 @boggie999
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます