05「集結」

 【数週間前、ヲタの記憶】


 


 親父が何の仕事をしていたかは知らない。


 俺にも母にもやさしかったが、あれはやさしいのではなく弱い人間だった。


 夜遅くまで働いて家には寝に帰るような奴だったが、『仲間といっしょに新しい会社を作る』と言い出してから、家は壊れた。


 


 母の言っていたことだから本当かどうかは怪しいが、親父の会社は経営がうまく行かずに他の起業した仲間が飛び、借金だらけの会社だけを押し付けられたらしい。


 家に帰ってくると安酒を飲み「俺は社長だぞ!」と怒声を吐いて母を殴るようになった。母がいない時は俺を殴った。


 弱い人間が追い詰められると、より弱い奴を殴るようになるということを知った。


 


 母も弱い人間だったが、俺という存在自体がある分、まだギリギリ耐えることができていた。


 子を守るという母性らしきものはあり、それにすがることが生きることの支えだった。


 殴られそうな俺をかばっている時だけ、母の顔に生気が宿っていた。


 


 この地獄がいつまで続くのだろうと思ってたが、意外にあっけなく終わった。


 会社に行かず酔ったままパチンコ屋で暴れ、警官に担がれて家に帰ってきた夜に親父は姿を消した。部屋には首を吊ろうとした布がぶら下がっていた。


 自分で自分の生き方を決めることができない、親父らしい逃げ方だった。


 そして数日後に警察が来て、親父が死んだと分かった。


 空港に向かう特急電車に体当たりして、ようやく自分の人生にけりを付けたらしい。


 


 これで地獄が終わったと思ったら、より深い地獄に落ちただけだった。


 生命保険も下りなかった。借金まみれの会社の社長が自殺しても、保険金は出ないらしい。


 鉄道会社からの賠償金請求もあり、母は相続放棄を選んだ。


 あの男は結局、母には俺だけを遺し、俺には何も遺さなかった。


 俺には俺の命やら人生やらを遺したとも言えるけど、それを俺が望んでいるわけでも無かった。


 


 専業主婦だった母は働き始めたが、親父に虐待され続け勝手に死なれた状態で世間に出ても長くはもたなかった。


 母子家庭が不遇な境遇にもめげず仲むつまじく生きていく、なんてのはおとぎ話だ。


 俺は俺自身のことは分からない。ただ、学校生活とか友人関係とか何の印象も残っていないから、心が凍っていたのだろう。


 母が疲れ果てて朝起きることができずパートを休むと言った時に、俺は言った。


 


「もう母さんには無理だよ」


 


 この一言で、母は壊れた。


 家の唯一の収入が、母親の障害年金になった。


 俺は中学生のガキだったから自分では何もできなかったが、児童相談所の福祉司が頭の逝っちまってる母を見て手続きしたのだ。


 二言目には「君は悪くない」と言う笑顔のうさん臭いおっさんだったが、俺をなじることも殴ることもない大人である時点で、許してやってもよかった。


 他にもこの国にはいろいろと俺のようなガキを生かしておく仕組みがあるようで、クソのような公立高校だったが通うことができた。中卒で働くことも考えたが、ガキなりに得策でないと考えた末だった。


 


 こういう道をたどったガキは、肉体労働者として生きるか、踏み外して半グレになるか、奇跡的に頭が良くてお国の援助レールに乗って出世するからしい。


 俺は中途半端でどれも選ぶ気にならなかったが、さすがに高校を出たら稼がなければならない。


 そう考えた時、俺は生前の親父の足跡を追った。


 


 気が狂う前に言っていた母親の言葉はだいたい間違っていなかった。


 親父のやっていた会社は今では跡形もなく、インターネットにもリンクの切れたホームページらしきものが残されているだけだった。


 親父が自殺した駅のプラットホームには、飛び込み禁止のホームドアができていた。


 こんなものが何の役に立つのか疑問だった。本気で死にたい奴は、こんなもの飛び越えるだろう。でも、死ぬかどうか悩む親父のような奴には案外効くかもしれない。


 


 そして親父が酔って暴れたパチンコ屋にも行ってみた。


 俺は高校生だったが、店員に怪しまれることもなかった。


 客はサラリーマンや爺さん婆さんばかりだと思ってたが、それはパチンコの話でメダルを入れてレバーを叩くスロットのコーナーは自分のような若者ばかりだった。


 それが、俺とパチスロとの出会いだった。


 


 ──クソみたいな人生だったけど、ようやく己の手で稼ぐ道が見えてきた。


 


「…………それって最強じゃない…………」


「だが期待値的には…………リスクはたしかに少ないが……」


 


 ──リスクは少ない方がいい。いや、あってはならない。


 


「そしたらさ、ルーレットの赤黒に…………倍プッシュってやつ…………」


「…………それは0と00の存在が…………それにパンクするまで」


 


 ──パンクしたら終わりなんだよ。金がないなら勝てる戦いだけをすればいい。


 そう、勝てる戦いだけを……戦いだけを……ん……?


「ん……?」


「あ、起きた!」


 俺はたしかタイム3を張ってて、ようやく空いて打ちながらクソみたいな人生を思い出して、その後は……?


 それより、何だこの甘い香りは? いつも泊まっている個室ビデオのタンパク質の腐った匂いと芳香剤が混じり合った、あの最底辺の悪臭とはまるで違う。


 今まで生きてきて、一度もこんな香りを感じたことは無い。


「本当に心配したんだから! 具合は大丈夫?」


 何だか優しい……温かい感触が……


「うーん、熱はないみたいだし大丈夫なのかな。怪我とかしてないよね……」


 何だろう、体を包み込むようなこの温かさは?


「僕がいるのを忘れるな!」


「え~、別にいいじゃない? アタシ、人の肌を触るの好きだよ?」


 女性と……男性の声も……?


「好き嫌いが問題ではない。君は人との距離感が少しおかしいんじゃないか?」


「そう? 男女の距離感なら仕事柄、得意な方なんだけど。そんな怒らなくていいじゃない、エリちゃん」


「その呼び方はやめろって言ってるだろ!」


「じゃあ、あのキラキラネームがいい? 何だっけ、アダムだったかイ……」


「ああもう、勝手にしろ! それより、彼に説明した方がいいだろ?」


 目を開けると、そこはピンクめいた家具やグッズが置かれた部屋が広がり、どこかで見覚えのある女性と、見たことがあるかもしれない男性がいた。


「ビックリしたよ~、今どき行き倒れとか! しかもホールで!」


 俺の人生で出会うことのなかった美人が、俺の心配をしてくれている。


「病気とかではないのか?」


 俺とは違う人生を歩んできたような男も、俺の心配をしてくれている。


「……いや、個室ビデオでまともに寝られなくて……昨日の朝から何も口に……」


 ここは、この美人の住んでいる部屋らしく、この男が俺を運んでくれたらしい。


「済まない……俺みたいな男が2人の邪魔をして。すぐ出ていく……」


「付き合ってるみたいな言い方をするな!」


「そうだよ。アタシ、エリちゃんと話したの今日が初めてだから」


「ああ、それに君には話があるんだ」


「そうそう、それにご飯食べていきなよ、もうピザ注文したし。いい身体してるんだから不摂生しちゃだめだよ、ちゃんと食べなきゃ」


(俺は、どこかに売られるのだろうか)


「アタシは……そうだな、キャバとでも呼んでキャバ嬢だから。名前は恥ずかしいし。こっちの子はエリートっぽいからエリちゃんね」


「ちゃん付けは──まあいい」


 名前は明かせない? いや、部屋の外に出れば表札もあるしそういう訳でも無さそうか。


 ただのあだ名みたいなものか。


「キャバとエリートか……分かった、それでいい」


「で、アンタなんだけど。何て呼んで欲しい?」


 そう言われると名を明かすというのはたしかに嫌なものだな。


 でも、あだ名など付けられたこともないし、名前以外で呼ばれたこともない。


 俺が返事に困っていると、キャバはいたずらっぽい笑みを浮かべて口を開いた。


「じゃあさ、ヲタでいい? ヲタクっぽいから」


「安直だな……それに馬鹿にしてないか」


 エリートがすかさず反対する。


「そんなんじゃないよ、ヲタクってすごいじゃない、一つのことに全てを投げうってさ」


「そんなものか。本人が嫌でないなら僕は構わないが」


 本人を置いてきぼりにして、俺のあだ名が議論されていく。


 そもそも家族でも児童相談所の人間でもない他人に、俺自身のことを話題にされたことがない。不思議な感覚だ。


「そうだね、ヲタ……ヲタくんでいい?」


 ヲタ──“くん”!?


 何か見下げられているような保護を受けているような、男として情けないような感じだ。


 だが……今の俺はその程度の存在に過ぎないし、助けてもらった恩もある。


「それでいい……好きに呼んでくれ」


「じゃあ、決まりね、エリちゃんにヲタくん!」


 キャバが嬉しそうに手を合わせてから、俺とエリートの手を両手でつかんだ。


 今から青春映画でも始まるのか?


 俺がキャバの手を思わず反射的に振り払うと、エリートも全く同じ反応をした。


 キャバは2人の男に振られた格好となりキョトンとしていた。


「フッ」


 無意識のうちにおかしくなって、笑い声が漏れてしまった。


「何よお、これでも道玄坂では結構な指名取ってるんだから!」


 キャバが頬を膨らませて両手で太ももを叩いて怒りを示す。


「子供か……」


 エリートの言葉は突き放すというよりもツッコミだった。その証拠に表情に笑みを隠せないでいる。


 何だ、この空気。


 俺が笑ったのっていつぶりだろう? いや、笑ったことなんて今まであったか?


 


 


「ヲタくんさ、寝てる時すごいうなされて汗かいてたけど、嫌な夢でも見てたの?」


「……昔のことを……それより……これヤバいな」


 宅配ピザというものを初めて食べたけど、こんな美味しいものがあるとは知らなかった。金のある奴はいい思いができる仕組みになっている。


「でしょ~、アタシのお気に入り。これを家で尻かきながらネットで注文するだけで食べられるんだもん。カロリー的にもお金的にも危ないから月一くらいにしてるんだけどね」


「いい商売だよ。この強気な価格でも注文が絶えず、原価率も低いし、人件費の高さや設備投資の減価償却を考えても利益率は高いはず」


「ふ~ん、だから2枚目から半額とかやってるんだ」


 エリートの解説にキャバが返す。少し考えてその意味が分かった。


「それは……ピザ1枚にかかる金は少ないから……それをエサにして一つでも多く注文を取った方が儲かる……ってことか」


「その通り」


「アタシが働いてるような所だと、中に入れてお酒とかフルーツとかで金使わせた方が割良かったりするけどね、お店的には」


 客に金を落とさせる仕組みか。ふと、別のことが思い当たった。


「ホールも同じか……設定で釣って客を集めて、中に入れさせてしまえば客は自然と金を落とす」


 エリートとキャバのピザを食べる手が、一瞬止まった。


 俺は何かに踏み込んだのか。


「そっちの話、もうしちゃう?」


「僕は食べながらでも構わないが」


 そっちの話……もしかしたらこれが俺の人生で最後に喰うピザになるのか。この後に怖い軍団とかヤクザがやって来て脅された挙句に奴隷としてホールで打ち子をするか内臓を売るか迫られるのか。


「君は朝から一切打たず、あの台をマークし続けてたのか?」


 エリートが鋭い視線を向けて質問してきた。


「……そうだけど……それが悪いか……?」


「悪いとは言ってない。その理由を聞かせて欲しい」


「他の奴らは朝から台に座って……さっき言ったみたいに金を落とす。それに設定があるかも、勝てるかもどうかも分からずに」


「続けて」


 キャバも身を乗り出して俺の話を聞きだした。


「俺は……地元のホールで何も打たず、三カ月くらいずっとパチスロを観察してきた……。ほとんどの客が……適当に打って勝ったり負けたりして帰っていった。ただ……よく見たらどの日も最終的に客側のプラスで終わる台が1~2台あった。ジャグとかハナハナとか……単純に光ったら当たりの……ノーマルって言われてる台だった」


「アタシには絶対ムリだ」


 何が無理なのか俺にはさっぱり分からないが。


「でも……そんな台でもたまたま出てしまった場合もある。だから、打たないで家に帰ったらずっとノートに記録した……そうしたら、出てる台の場所や種類にルールらしきものがあるのが分かった」


「その店はデータ公開をしてなかったのか?」


 エリートの疑問は当然なのだろう。どこのホールに行っても、打てる気配をただよわせてる奴らはスマホで今いるホールや明日以降の狙い目ホールのデータをチェックしている。


 馬鹿な奴らはデータどころか周囲のチェックすらせず、スマホを台の上に置いてアニメかパチスロ動画をアホ面さらしながら見ている。


 そして、俺はどちらにも当てはまらない。


「スマホは持ってない……その時はパソコンも無かった。だから、データ公開をしてない店を選んでいた」


 エリートとキャバの視線を受けながら、俺は話を続けた。


「ずっと打たずに観察し続けて……これ以外に無いという日と台を絞れて……俺は悩んだ。……打つべきかどうか」


「そんなの打った方がいいに決まってるじゃない?」


「ノーマル機で十分な根拠があるなら、朝から推測をかける意味はあるとは思うが」


(お前らには分からないか)


「次の母の年金支給日まで残り10日、家の全財産1万3000円を持ち出してそれを賭けられるか?」


「…………」


「…………」


「お前ら……飢え死にって実感したことあるか? 気の狂った親がまき散らしたクソの匂いのする狭いアパートで喰うもやしの味が……分かるか?」


 気付いたら、肩で息をして声を荒げていた。何を俺はこいつらの前で興奮してるんだ。


 頭に血が一気に上り、それがすっと下りていくと目の前が真っ白になって自分がどこにいるのか分からなくなっていく。


 このまま体が消えてなくなってクソみたいな人生が終わるのも悪くないか。


「ごめんね、アタシたちヲタくんのこと何も分かってないのに」


 背中から温かい包み込まれるような感覚とキャバの声が耳元で聞こえた。


「すまなかった。そして話してくれてありがとう」


 右手を強く握手のようにつかまれ、意識が引っ張り上げられエリートの言葉が脳内に届いてくる。


「決めたよ、君に」


「うん、いっしょにやろ?」


 頭の中にいくつもの疑問が浮かんだが、頭に上った血がすっと引いてくるのが分かる。


 いっしょに? 俺と何を?


 そして、今まで感じたことのないこの感覚は何なのだろう。

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