8/赤い夕焼け、紅い礼拝堂
「疲れたあ」
ごろりと地面に寝転がって、暗くなりかけた空を見上げる。
午前中はずっと変質の練習。お昼にはメロンがパンを持ってきてくれたので、それを食べたらまたずっと変質の練習。
今日は一日、葉っぱを変質させることだけに集中していた。おかげさまで、一時間程度は魔法の効果が続くようにはなった。
上達は、しているのだろう。できることは少しずつだが増えてきている。その実感は少しだけれどある。
でもこれでは足りない。分かっている。
変質の魔法は練習を始めたばかり。まだまだ先は長い。
戦闘魔法の練習はしても、実際に魔物を倒したことはない。止まっている的にすらうまく当たらないことがあるのに、動く標的に当てられる自信はない。
強化の魔法だって、治癒魔法だって完璧とは言い難い。完璧にできるものなんて何一つない。
これでは救世主さまには程遠い。
焦っても仕方がないことは分かっている。それでもこのままでいるわけにはいかない。
早く上達しないと、早くできることを増やさないと。いつまでもシスターたちや神父さまに迷惑をかけたくない。早くこの教会を出なければならない。……それは、自分が陰口を叩かれたくないからという気持ちも、ほんの少しはあるけれど。
「いつまで転がっている気だ。もうすぐメロンが呼びに来るんじゃないか」
そうだ。救世主さまが地面に転がっている姿を見せるわけにはいかない。
ため息を吐いて身体を起こす。
正直、みんなのところに戻りたくない。また笑顔を作って、救世主さまらしく振る舞わなくてはならない。聞きたくない悪口を黙って聞き流さなければならない。
「……やだなあ」
早く本物の救世主さまが現れて、わたしが偽物の救世主さまだって証明してくれればいい。そうしたら、教会を出て晴れて自由の身。これまでできなかった分、好き勝手して過ごすのに。
……本当に?
「メロンのやつ、なかなか呼びに来ないな」
テイルは首を傾げながら、生活棟をじっと見つめている。
生活棟は暗い。まだ誰も帰ってきていないのか、明かりはつけられていないようだ。それどころか、物音一つしない。
もしかしたらまだ、みんな礼拝堂の方にいるのかもしれない。
教会の祈りの時間は朝、昼、夕方の三回。
わたしが参加するのは朝だけ。本当は全部参加しなければならないのだろうけれど、特別に不参加を許してもらっている。魔法の練習に集中したいとかなんとか言って。
普段なら今頃、みんなは夕方の祈りを終えて生活棟に帰ってきているはず。それがその気配がないということは、祈りの時間の後に神父さまが長話でもしているのかもしれない。時々、そういうことがあるから。
帰りたくはないが、誰も迎えに来ないのも寂しい。わがままな性格だ。
「行ってみるか?」
「そうだね」
テイルを肩に乗せて、礼拝堂に向かって歩き出す。
何の音も聞こえない。誰の声も聞こえない。
祈りの時間が長引いているのなら、裏から入ると目立ってしまうだろう。裏口から入ると礼拝堂の奥側に出ることになる。そうなると、お話をしている神父さまの後ろから登場、という感じになってしまうのだ。表から入って、邪魔しないように少し覗くだけにしておこう。
教会の表側に来ることは稀だ。こちら側に来ると、眼下にはムメイの街の街並みが見える。教会から真っ直ぐに、下に向かって道は伸びている。三角屋根の建物が所狭しと並んでおり、街の中央あたりには丸い広場のようなものも見えた。
教会正面の扉を開いて中へと入る。
「…………?」
ざわめきが聞こえる。
詳しい内容は聞き取れない。けれど、動揺。困惑。そういった雰囲気の声。
礼拝堂に入る扉へと近づく。それと同時に。
「ひっ——いやああああ!」
甲高い叫び声が、耳に飛び込んできた。
「!」
勢いよく扉を開けて中へと入る。
わたしが扉を開けたのと同時に、礼拝堂の中にいたみんなが振り返る。誰もが青白い顔をしていた。誰もが恐怖に引き攣った顔をしていた。
わたしが入ってきたこと、扉が開いたことに気がついて、みんなは一斉にこちらに向かって駆け出した。
「退いて、退いてよ! 早く逃げないと!」
「ひいいい。何よ。何なのよ! どうしてこんなことに!」
「待って。置いてかないで! 僕も逃げるから!」
阿鼻叫喚。これでは何が起きたのか聞くこともできない。
ヒトビトの波に逆らって、なんとか礼拝堂の中心へとたどり着く。
どろりと、鼻につくような嫌な臭いが立ち込めていた。
「……っ、神父、さま?」
腕で鼻を隠しながら、そこに転がっていたモノに声をかける。
顔はそうだ。間違いなく、その顔は神父さまのもの。
だが問題は身体だ。腹は引き裂かれ、足はぺしゃりと潰されている。
ニンゲンに殺されたわけではないことは、一目瞭然だった。
遺体に近づこうとして——ぬちゃりと。踏み出した足には嫌な感触が伝わってきた。神父さまだったモノから溢れた血液が、じわじわと広がっていく。灰色の石の床は、鮮やかな紅に染められていた。
「モルガーナ、奥」
テイルに促されて、礼拝堂の奥に視線を向ける。
外の世界の神様を象ったとされる石像。その正面に、うずくまっているニンゲンらしき存在の姿があった。
ニンゲンらしき姿をしているソレ。正しくニンゲンであると認識できる部位は頭だけ。身体は影のように黒く、その手足は獣のように変形している。身体からは黒い塵のようなものが排出されているのか、ソレが呼吸をするたびに空気に舞っていた。
ゆっくりと、ソレが顔を上げる。
「——あ、モルガーナ、さま?」
「っ、メロン?」
金髪碧眼のそのニンゲンは、苦しげな声を出しながら顔を上げた。
「……魔人か」
ぼそりと、どこか悔しそうな声でテイルは言葉を漏らした。
——魔人。
ニンゲンのような姿をした魔物、のようなもの。黒い影のような身体に赤い瞳。ヒトを襲うソレは、今から約五百年程前に出現するようになった。出現頻度は高くない。何週間に一度のこともあるが、基本的には何ヶ月かに一度程度である。出現場所は様々で、街の外を彷徨っていることもあれば、街中に突然出現することもある。
ニンゲンたちの間でいまだ正体不明とされる存在。それが、魔人。
けれど。
「魔人って、メロンはニンゲンじゃ」
「ああ、ニンゲンだ。それが、魔人に変質しているんだよ」
「それって、魔人はニンゲンが変質した存在ってこと? テイル、魔人の正体はニンゲンなの?」
ギリ、と。歯を噛み締めるような音がテイルから聞こえてきた。
「……ああ、そうだ。魔人は、ニンゲンが魔物へと変質した存在だ」
「どうしてそんなことが」
起きるのか、と訊ねようとしたところで、テイルはわたしの肩から飛び降りてしまった。
「それよりも、今は自分の身の安全を考えた方がいい。杖を出せ、モルガーナ。アレはもう、ニンゲンではないのだから」
「そんなこと言われても」
困る。だってメロンはわたしの大事な世話係だ。友達とは違うけれど、それでも大事な存在だ。
メロンは自分を押さえつけるように、変形した手でギュッと自分自身を抱きしめていた。
「モルガーナ、さま。どう、どうしよう、わたし。私、神父さまを、殺しちゃった。急に目の前が真っ暗になって、何も分からなくなって、気がついたら——気がついたら、神父さま、死んでた」
涙の溜まったメロンの瞳。澄んだ青色をしていたその瞳は、じわじわと赤く変色していく。首から下だけだった黒色は、だんだんと顔にも滲んでいく。
「やだ、やだやだやだ! 死にたくない、死にたくない! わた、わたし、殺したくて殺したわけじゃない! けど、けど」
ゆっくりと、メロンはわたしに顔を向けた。
「殺した罪は、ちゃんと償わないといけないから。それに、このままじゃ、みんな、シスターたちも子供たちも、モルガーナさまも。きっと、みんな殺してしまうから。だから——」
——やめて。やめて。
その続きを言わないで。
そんなこと言われても困る。そんなこと、わたしにはできない。したくない。
メロンはわたしの気持ちなんて知らないで、にっこりと下手な作り笑いを浮かべた。
「——お願い、モルガーナさま。私を、殺してください」
その言葉を最後に、メロンの顔は真っ暗な影に飲み込まれた。
そこにはただ、黒い影がいた。
輪郭はかろうじてヒトの形を保っていたけれど、それはもうヒトではなくなっていた。先ほどまで聞こえていた声はもうなく、だらりと開いた口からは呻き声のようなものが溢れている。瞳は赤く染まっていて、それは確かに、話に聞いていた魔人と同じような姿をしていた。
「……手遅れだ。殺してやれ、モルガーナ」
テイルの声は冷たい。
魔力器官を起こして、杖を編み上げる。
分かってる。そうするのが最善なんだって、そうするしかないんだって分かってる。
メロンだったモノが、叫び声を上げてこちらに向かって駆け出した。
「っ、魔力固定、
氷刃を発射する。
詠唱を短縮したせいか、わたしの意思が弱いからか、氷刃はメロンだったモノの身体を掠めて消えていった。
「————!」
獣のような声を上げながら、メロンだったモノは突進してくる。
詠唱をする暇はない。氷刃を用意する暇はない。
杖を強化して、飛びかかってきたメロンだったモノを弾き飛ばす。
メロンだったモノは礼拝堂の奥に。わたしは礼拝堂の入り口近くに。距離は十分。ここから詠唱をきちんとして、氷刃を当てれば確実にメロンだったモノを仕留めることができるだろう。
「っ、メロン……」
助ける方法はないのか。策はないのか。
「テイル、変質は」
視線をメロンだったモノから逸らすことなくテイルに問いかける。
「可能ではある。けど今のお前には無理だ。その場しのぎの誤魔化しにもならない。そもそもニンゲンでやるとなると、より高度な技術が必要になる。失敗したら目も当てられんぞ。それだけじゃない。アイツをニンゲンのままでいさせるなら、魔力器官をずっと繋げっぱなしにしなきゃならない。負担も大きい。やめておけ」
馬鹿か、とでも言いたげな声で却下されてしまった。
「いいか、あれはもうメロンじゃない。魔人なんだ。殺さなければこちらが殺される。杖を構えろ、モルガーナ」
切羽詰まった声に促されて、杖を持ち直す。
視線は動かせない。身体は動かない。唇が震えて、うまく言葉が紡げない。
黒い影にメロンの面影はない。
それでも戦う気になれない。殺すことなんて、わたしにできるはずがない。
夕日で赤く染まった礼拝堂。神父さまの血で紅く染められた礼拝堂。
そこには黒い影と、役立たずのわたしだけ。
黒い影が走り出す。こちらに向かって駆けてくる。
「モルガーナ!」
テイルの叫びも耳を通り抜ける。
駄目だ。わたしにはできない。
メロンだったモノがわたしのそばに来るまで、もう少しの猶予もない。
ぼんやりと立ち尽くしたままのわたし目掛けて、振り上げられた手が勢いよく下される。鋭い爪がわたしを切り裂く。そうして血液が勢いよく吹き出して、あかいこの場をさらに紅く染め上げる。
分かっているのに、見えているのに何もできない。
けれど、ああ、役立たずのわたしには当然の末路だろう。
「ちっ、仕方な——」
そうなるのが当然なのに。
「うん。ちょっと失礼」
どうしてか、黒い影は礼拝堂の床へと叩きつけられていた。
地面から突如現れた蔦に縛られた黒い影。ギチギチと音を立ててはいるが、蔦が引きちぎられそうな雰囲気はない。
さあ、と。背後から心地の良い風が吹き抜ける。
「うん。キミには荷が重いだろう。ここはボクが代わりにやってあげよう」
やけに華やかな声が礼拝堂に響く。
足音なく、気配すらなく、そのヒトはわたしの前に現れた。
茶色いケープコートを翻して、そのヒトは軽い足取りでメロンだったモノへと歩み寄る。そうして躊躇なく、手にしていた銀色の杖でその身体を貫いた。
「————」
悲鳴のような、苦痛に満ちた声が響く。
「メロ、ン」
わたしの声は届かない。
メロンだったモノはしばらく叫んだ後、さらさらと崩れ落ちて消えてしまった。
二つに結んだ髪の毛を揺らして、そのヒトはくるりと振り返る。コツコツとわざとらしく足音を鳴らしながら、こちらへと近づいてくる。
不自然なのに自然な、どこか不気味なその姿を、きっとわたしは忘れることはない。
そのヒトはわたしを見て、わずかに目を見開いた後、にっこりと胡散臭い笑みを浮かべた。
「初めまして、今代の救世主。ボクの名前はメルリヌス。キミを導く役割を与えられたものさ」
白い肌。べっとりと付着したメロンだったモノの返り血。この場にそぐわない不自然な笑顔。さらさらと揺れる若葉色の髪の毛。それを結ぶ可愛らしい深紅のリボン。漂う柔らかな花の香り。
その中で最も印象的な瞳が——翡翠の瞳が、じっとわたしを見つめていた。
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