2/起床
「……い、おい」
聞き慣れた声がする。ぶっきらぼうで、冷たくて、けれども温かくて優しい女性の声。
いつのまにか視ていた夢は消えて、暗闇が視界を支配していた。
「おい、そろそろ起きないとメロンが起こしに来るぞ」
だから早く起きろ、と身体がゆさゆさと揺すられる。
分かってる。分かってます。だからあともう少しだけ待ってよ。ここで目を開けちゃったら、また今日が始まってしまうじゃんか。
「ああもう。いつになったらお前は一人で起きられるようになるんだ。ほら、起きろ!」
我慢の限界だ、とでも言いたげな声が聞こえたのと同時に、背中に感じられていたベッドの感触が消える。
唐突な浮遊感。
何事かと目を開けたのと同時に、
「う、わあ!」
わたしの身体は床へと叩き落とされた。
「い、たい」
幸いと言うべきか、生活棟の部屋の床は板張り。だから多分、この痛みはまだマシ。これが教会の部屋だったなら、固い石の床に叩きつけられるところだった。
痛みに耐えながら身体を起こすと、わたしの目の前には見慣れた黒猫もどきがいた。
わたしを床に叩き落とした張本人であるソイツは、ふんと不機嫌そうに鼻を鳴らす。ぽっかりと空いた穴のような目はじろりとこちらを睨みつけており、怒っています呆れています、という感情を表現していた。
「さて、起きたか?」
ため息混じりに問いかけてくる黒猫もどきに、うん、と頷いて立ち上がる。
「おはよう、テイル。今朝も起こしてくれてありがとう」
「はいおはよう。モルガーナ、いい加減一人で起きてくれ。わたしがいつまでもお前の面倒を見ると思ったら大間違いだからな」
ビシッと尻尾のようなものでわたしを差しながら、テイルは不機嫌な声で言った。
このやりとりはいつものお約束のようなもので、毎朝起きるたびに同じような会話をしている。だから多分、明日も明後日も、テイルは同じようにわたしを起こしてくれるのだろう。
テイルはわたしの唯一の友達だ。
一年前。
自分が誰なのかも、ここがどこなのかも分からず彷徨っていたわたしをこの教会に連れて来てくれた謎の魔物。……いや、本当に魔物なのかどうかはよく分からない。けれど普通の猫ではないみたいだし、多分魔物、だと思う。
何もないわたしのそばにいたテイルは、それからずっと、わたしと一緒にいてくれている。
「おい、ぼんやりしてないで早く着替えろ。そろそろメロンが来る時間だって言ってるだろ」
「あ、うん」
そうだった。早くしないと世話係のメロンが起こしに来てしまう。その前にきちんと身だしなみを整えておかなければ。
机の上に置かれていた黒一色のワンピースに袖を通し、長い空色の髪の毛を櫛でとかす。
準備はたったそれだけ。
普通の女の子なら、もっとこう、髪の毛を可愛く結んだり髪飾りをつけたり、色とりどりの洋服を着たりするのだろう。
そういう女の子を、何度も窓の外に見かけたことがある。自分の好きな格好をして、楽しそうにお喋りをしながら友達や恋人と歩く。
それが、普通の女の子。
だけどわたしにその普通は許されない。ここは教会で、わたしは普通の女の子ではないのだから。
ちょうど支度が終わったところで、コンコンと部屋の扉が叩かれる。
はい、と答えると、扉は勢いよく開かれた。
「おっはようございます! って、モルガーナさま、もう起きてたんですか。たまには起床時間ギリギリまで寝ていてくれてもいいのに」
むっと唇を尖らせながら、金髪碧眼の少女が部屋へと入ってくる。
「おはようございます、メロン。いえ、早寝早起きは当然のことですから」
なんて大嘘を吐きながら、にこりと笑顔を作って応える。メロンは不満そうな顔から一転、ぱあと顔を輝かせて自然な笑みを浮かべた。
「さっすが救世主さま! でもでも、せっかく私という世話係がいるんですから、ちょっとくらい寝坊してくれてもいいんですよ?」
ね、と十五歳のカノジョは年相応の、子供らしい笑みを浮かべながらわたしの顔を覗き込んだ。
メロンとわたしは同い年くらいだろう、という話だ。断定できないのはわたしが自分の年齢を知らないから。見た目だけで言えば、きっと年は近いはず。
だからこうして救世主さまなんて、モルガーナさまなんて呼ばれるのは少し複雑な気分になる。なんていうか、距離を感じてしまって。
「モルガーナさま、朝ごはんの支度もできていますし、食堂に行きましょうよ」
もう少しだけ部屋で時間を潰したかったけれど、そういうわけにもいかない。どうせ遅れて行っても、結局はみんな揃うまで食事は始まらない。ここでぼんやりしても、みんなを待たせてしまうだけだ。
「……そうですね。行こう、テイル」
にゃあ、とわざとらしい返事をしながら、テイルはわたしの肩へと飛び乗った。
部屋を出て、食堂へと向かう。
生活棟の二階はシスターや子供たちの部屋になっている。わたしの部屋は二階の一番奥、階段から最も離れた場所。階段を降りた一階には食堂やお風呂場などがある。
食堂に入ると、すでに他のシスターや子供たち、神父さまの姿があった。
「おはようございます」
「あ、モルガーナさま! おはようございます!」
声をかけると、入り口近くにいた子供たちが元気に挨拶を返してくれた。それに少しだけ安堵して、自分の席に向かう。
その途中、ひそひそと小声で何かを話しているシスターたちの姿が目に入る。
「……おはようございます」
「おはようございます、モルガーナさま」
シスターたちに挨拶をすると、カノジョたちもにこりと微笑んで挨拶をしてくれた。
メロンとは違う、子供たちとも違う笑い方。表面上はこちらに親しみを持ってくれているように見えるけれど、本当はそうではないことをわたしは知っていた。
みんなに朝の挨拶を終えて、自分の席に座る。
それと同時に、朝食のパンとスープが運ばれてきた。
教会の食事はシンプルだ。野菜スープに硬いパンが一つ。
正直物足りない。みんな本当にこれで足りているのか、と訊きたくなってしまう。いやいや、文句はよくなかった。そもそも何もないわたしを無償で置いてくれているだけでもありがたいのだから。
みんなで手を合わせて食事を始める。食事の時間は静かに、淡々と進んだ。
食事の時間は好きではない。みんなで集まらなければならないし、そうなると必然的に嫌な視線を向けられたり小声で何か言われるわけで。
けれどシスターたちの反応はもっともだ。わたしは、期待されていたような救世主ではなかったし、今だって期待に応えられないままのただの役立たずなのだから。
食べ終えると朝の祈りの時間。
みんなで礼拝堂に移動して、外の世界の神様とやらにお祈りを捧げる。
長椅子の並ぶ礼拝堂。一番奥、壁際には主教の神様を象った石像が置かれている。礼拝堂の側面、窓はステンドグラスが嵌め込まれており、綺麗で厳かな空間を作り上げていた。
ここは主教派の教会。
主教の教えではこの世界……ステラの外には別の世界が存在するらしい。そしてその外の世界の神様が本物の神様で、ステラを治めるアステールさまとやらは本物の神様ではないという話。
うん。正直よく分からない。
まず外の世界なんて本当に存在するのだろうか。教会の外すら知らないわたしには、そんなことは想像もできない。
あとあと、神様なんて本当にいるのだろうか。そもそもアステールさまとやらの存在すらわたしはよく知らないのだ。それで外の世界の神様を信じろと言われても困る。
でも残念ながら、そんな本音を言うことは許されない。
主教には救世主の予言が存在する。
——これは決められた未来の話。
世界の救世主。魔法使いの女の子。
救世主はやがて城へとたどり着く。
心臓は砕かれ王は消える。
玉座に戻るのは真の王。
あなたが王になるのなら、この世界はきっとこれからも続くでしょう——。
さて、予言の内容を簡単に言えば、魔法が使える女の子が救世主。その子が今の王様を倒して本当の王様になり、その結果この世界はこれからも続いていく。
この予言によって、この予言のせいで、魔法が使えるニンゲンの女の子は問答無用で主教派から救世主扱いされてしまうのだ。
五十年前にも、救世主が存在したという。
詳しく知るものは少ないが、東にあるフレウンという街の出身だったらしい。
わたしが知っているのはそれだけ。
まあ詳しく知ろうにも、神父さまもシスターたちもそれ以上のことは知らないみたいだし。そもそもわたしに話しかけられたくないみたいだし。
それに、五十年前の救世主さまのことを知っても何にもならないだろう。
ともかく、ただ魔法が使えるというだけの理由で、わたしはこの教会に閉じ込められ、みんなから救世主さまと呼ばれていた。
救世主さまと呼ばれる存在が、外の世界や神様の存在を否定することは許されない。そんな素振りを少しでも見せたら睨みつけられる。主に神父さまに。
どうやら信仰の自由さえ、わたしにはないらしい。
許されていることといえば、救世主さまらしく振る舞うことくらい。
おしとやかに大人っぽく、親切で正しく、善人のように振る舞うことがこの教会で過ごす上での最低限の決まりだった。
「モルガーナさま、今日はどうされるんですか?」
祈りを終えた教会のヒトビトはそれぞれの仕事に向かう。
メロンはわたしの世話係なので、今日一日わたしがどのように過ごすのかを把握しておく必要があった。
まあ、答えはいつも同じなんだけど。
「いつも通り、裏庭で魔法の練習をしようかと」
わたしの答えを聞いて、メロンは満足そうににっこりと微笑んだ。
「さっすが救世主さまです! 毎日魔法の練習を休まずするなんて、モルガーナさまはやっぱりすごいですね!」
ううん。さすがでもなんでもない。だって他に許されていることなんてないから、みんながそう在れと望むから、わたしは決められた答えを言っただけ。
わたしの気持ちに気がつくことなく、メロンは尊敬の眼差しを向けてくる。
その後ろでは、シスターたちがひそひそと小声で何かを話し合っているのが見えた。わたしに向けられた視線は冷たい。何を言っているのか、大体の予想はつく。
これ以上ここにはいたくない。
何もかもが辛くて、わたしは視線を床へと落とす。
「え、っと。それじゃあ、行ってきますね」
「はい、行ってらっしゃいませ! あ、お昼ご飯を渡しておきますね」
どうぞ、と差し出されたバスケットを受け取ってお礼を言う。
そうしてわたしは、今日も逃げ出すように生活棟の裏庭へと向かった。
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