1/雨音
ざあざあと、音がする。
風に揺れる草の音。空から落ちる雨の音。
泥だらけの身体を引きずって、前に進む。
身体が重たいのは着ている服が雨水を吸ったせいか。それとも身体を動かすエネルギーが不足しているせいか。
周囲には草が生えているだけ。
正面。少し離れたところには木で作られた門が見える。門は開け放たれているから、あそこまで行けばなんとかなるかもしれない。
ずるずる。ずるずる。
重たい身体を一生懸命に動かす。
何を考えているわけでもなかった。
ただ、寒いなと。このまま死ぬのは嫌だなと思った。
ここがどこなのかは分からない。それどころか、自分の名前すら分からない。
それでもこのまま消えるのは、何もないまま消えてしまうのは嫌だった。
にゃあ、と。
わざとらしい、猫のような鳴き声が聞こえた。
視線を落とすと、わたしと同じようにびしょ濡れになった黒猫のようなものがいた。
その子はもう一度、にゃあ、と鳴くとゆっくりとわたしの前を歩き始めた。一瞬だけちらりとこちらを振り返って、黒猫もどきはてとてとと歩いて行く。
着いてこい、と言われている気がした。他に当てもなかったから、わたしはその子に着いていくことにした。
普通ならほんの少しの時間しかかからないであろう道を、たくさんの時間をかけて進んだ。誰もいない門を通り抜け、誰もいない街並みを歩き、そうして坂の上の教会へとたどり着いた。
そこで、身体は限界を迎えた。
雨の勢いは先ほどよりも激しくなっていて、身体はどんどん冷たくなっていく。手足は強ばり、指一本動かすことすら難しい。
もうすぐ目の前に教会は見えているのだけれど、本当にあと一歩で教会の扉を叩ける距離まで来ているのだけれど、それでもこれで助かったとは思えなかった。
そのくらい、わたしの身体は空っぽだったのだ。
黒猫もどきはわたしが倒れたのを見て、ててて、と教会の扉へと走って近づいた。
それを見届けて、瞼を閉じる。もう目を開けていることすら難しかった。
にゃあ、にゃあ、とわざとらしい鳴き声が何度か聞こえた後、ギイ、と扉が開く音がした。
それを聞いて、わたしの意識は完全に闇に溶けた。
——それが一年前。わたしが、この教会にやって来た日のこと。
どうしてこんなことを思い出しているのかと、働かない頭でぼんやりと考える。
ああ、夢を視ているのか。そう思い至って、記録の再生に思考を奪われた。
「……い、おい」
誰かの声が聞こえる。焦っているような、心配しているような女性の声。
「ほら、起きろ。頼むから起きてくれ」
誰かは懇願するような声を出しながら、わたしの身体を揺すっているようだった。
何度か身体を揺すられるうちに、視界がだんだんとハッキリしてくる。
目の前には板張りの天井。ゆっくりと眼球を動かして周囲を確認するけれど、この部屋には見覚えがない。どうやらわたしはベッドに寝かされているらしい、と考えて、すぐ近くに何やら黒い物体があることに気がつく。
知らないことだらけの部屋の中、唯一見覚えのある黒猫もどきが、わたしの顔を覗き込んでいた。
「ようやく起きたな、モルガーナ」
「モル、ガーナ……」
掠れた声で、黒猫もどきの言葉を繰り返す。
モルガーナ。どうやらそれが、わたしの名前らしい。
黒猫もどきはわたしの身体に巻きつけていた長い尻尾のようなものをシュルシュルと縮めて、今度はわたしの額にぽんと乗せた。そのまま数度瞬きをする。ぽっかりと空いた穴のような目を閉じてしまうと、黒猫もどきは真っ黒な影のように見えた。
「……記憶なし。想定内。記録も……なしか。ま、そりゃそうか。魔力残量……少ない。起動がうまくいけば問題ないだろう。あとは、魔力器官の解析…………なんだ、これは。嘘だろう」
一際大きな声を出すと、黒猫もどきは重たいため息を吐いた。
「ああ、信じられない」
「なに、が?」
「お前の魔力器官の質が、だよ。平凡も平凡。これじゃあ五十年前の救世主の方がよっぽど——ああ、いや、言っても仕方ないか」
黒猫もどきはもう一度ため息を吐いて、わたしの額から尻尾のようなものを退けた。
「わたしの名前は……テイルだ。一応聞いておくが、お前、自分の状況を理解しているか?」
理解も何もない。正直言って何も分からない。
素直に首を振ると、テイルはだよなあ、と悲痛な声を出した。
「いい。お前のせいじゃないからな。説明してやるからよく聞けよ。ここはムメイの街にある
ビシリ、とテイルは尻尾のようなものをわたしに突きつける。
「お前の名前はモルガーナ。魔力器官持ち。というわけで、確認のためにも一度使わせてみるか。おい、起き上がって手を出せ」
言われるがまま、上半身を起こして両手を前に出す。
何をさせられるのか全く検討もつかなかったけれど、それでもテイルの口ぶりから必要なことであるのだろうということは察せられた。
「とにかく魔力を出してみるんだ。やり方は、クソ、口で説明できるもんじゃないなこれは。身体の中にある魔力器官を働かせるんだ。とにかくやってみろ」
頷いて、身体の中にある魔力器官とやらを探してみる。
しばらく身体の中を探って、やがて、それらしき反応を見つけた。捕まえた反応を逃さないように、魔力器官とやらを強く意識してみる。
「——っ」
途端、身体の内側が熱くなる。何か熱い液体が湧き出て、全身を駆け巡っている感覚。じわりと額に汗が滲んだ。
「よし。魔力の生成はうまくいってるみたいだな。あとは排出か。とりあえず魔力を手に集中させるんだ。言ってること、分かるか?」
分からないが、分からないなりにやってみるしかないだろう。
全身を駆け巡る熱い液体を、差し出した両手に集中させてみる。液体はじわじわと両手に集まっていき、両手は燃えるように熱くなる。
熱の溜まった両手から、じわりと何かが漏れ出た感覚。
「!」
驚いたことに、両手からは水が湧き出していた。
「水か。となると属性はやっぱり……っ!」
ガチャン、と。
「ああ、その容姿からまさかとは思っていましたが、まさか、本当に」
部屋の入り口。そこには落ちて割れてしまったコップと、呆然と立ち尽くす男のヒトの姿があった。
お年寄り、だろうか。黒い衣服に身を包んだ白髪混じりの男のヒトは、しばらくわたしを信じられないモノを見るような目で眺めた後、こほんと咳払いをして近づいてきた。
「お名前を伺ってもよろしいですかな?」
「あ、えと、モルガーナ、です」
モルガーナさま、と男のヒトは何やら仰々しい様子で繰り返す。
「わたしはプロトス。この教会の神父です」
どうぞよろしく、とプロトスさんはベッドの横に置かれていた椅子に腰掛ける。そうして、じろりとテイルを睨みつけた。
「それで、その黒猫のような魔物のようなモノはあなたの使い魔か何かでしょうか。もしそうでないのなら、今すぐ処分をしていただきたい。教会に得体の知れないモノを軽々しく入れるわけにはいきませんので」
プロトスさんは冷たい目でテイルを見下している。テイルを腕でその視線から隠しつつ、いえ、とわたしは首を横に振った。
「処分は、しません。テイルはわたしの、ええと、その、使い魔? のようなモノなので」
実際には使い魔でもなんでもないのだが、ここまで連れて来てくれたテイルを殺されるのは嫌だった。
「……そうでしたか。救世主さまの使い魔であれば、見過ごすしかありません」
「救世主、さま?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。
ええ、とプロトスさんは重々しく頷いた。
「先ほどの魔法を見て確信しました。あなたさまが、今代の救世主さまなのだと」
まあ、要するに。
うっかり魔法が使えることが見つかってしまったせいで、わたしは救世主さまと呼ばれるようになり、この教会に囚われることとなったのであった。
それから少しして、プロトスさん……神父さまと、それから他のシスターたちの前で魔法を披露させられて、勝手にがっかりされて。
それでも救世主さまの扱いは終わらなくて、世話係なんかも付けられて、教会の外には出してもらえなくて。
まあそれでも、教会のみんなのことは嫌いじゃないし、助けてもらった恩だってある。
救世主さまだって、本物でなくともみんながそう在って欲しいと望むから、偽物でもそう振る舞いたいと思っていて——ああ、視界が暗くなっていく。
記録の再生は、そこで終わった。
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