第11話 夕焼け、しょっぱいソフトクリーム(3)


 彼は遠くに行ってしまう。私たちは終わるのだろうか。

 始まってもいないのに。


 私は家に帰ろうと振り返る。

 そうしたら心臓が熱くなってきて、涙がこぼれてきた。

 突然のことに動揺してしまう。


 不意に強い感情に襲われてしまった。

 彼が私の生活から居なくなってしまう。

 いつでも話しかけられた世界はもう終わってしまうのだ。


 自転車が無かったら座り込んでしまっていた。こんな顔じゃ帰れない。

 けど、そろそろ帰らなくちゃ。晩ご飯の時間だ。



 空を見て、深呼吸をしながら星を数える。

 どれから数え始めたか分からなくなってやめる。

 感情のざわつきが静まってきた。


 目を閉じて深呼吸を繰り返す。

 別に今生の別れじゃない。少し勇気を出すだけで会うことができる。何も問題はない。彼も多分、私のことが好きだ。今日言えなかった言葉はつまり”あれ”だ。何も心配することはない。私たちは終わっていない。

 自分に言い聞かせる。

 我ながらもっともな理由たちだ。

 そう、きっと大丈夫。


 しばらくすると涙は止まった。

 落ち着いて見てみればこの街のオレンジの街灯は等間隔に並んでいて趣がある。 

 かいた汗はすっかり乾き、夜風に涙の筋がヒンヤリとする。

 もう家に帰ろう。



 家に向かって歩き始める。

 まだ涙は涙腺にスタンバイしている。自分の感情に気づくと溢れてくるだろう。

 何か別のことを考えないと。

 晩ご飯はなんだろう。なんでもいいな。

 家が近づいてくる。カレーの匂いがする。

 空腹に気づいてしまった。早く晩ご飯を食べたい。

 匂いに釣られてお腹が鳴った。彼が傍に居なくてよかった。



 自転車を止めて、玄関に入る。

 「お、帰って来たか」と言っているお父さんの声が聞こえ、お母さんが顔を覗かせ「おかえり」を言ってくる。私が「ただいま」を返すとお母さんはキッチンへ戻る。


 階段を上るとおばあちゃんが部屋から出てくるところだった。

「おかえり。もうすぐご飯みたいよ」

「ただいま。すぐに行くね」

 笑顔を作ってすれ違おうとすると「ちょっと」と声を掛けられる。

「ご飯は部屋で食べるかい?」

「なんで?」

「なんでって、目が赤いからよ。一人になりたかったら部屋まで持って行くわよ?」

「ううん」


 今は泣いてしまいそうだから優しくしないで欲しい。

「だいじょうぶ」

「そう?声が震えてるように聞こえるけど」

 全部話したいけど恥ずかしくて言えず、俯いてしまう。

「晩ご飯に文句つけて時間作るから、落ち着いたら来なさいね」

 おばあちゃんは私の頭を撫でで微笑む。

「……おばあちゃん」


 私は中学生にもなっておばあちゃんに抱き着いて泣いてしまう。

「あらあら、小さい頃が懐かしくなるわね。でもそうやって傷ついて少しずつ大人に近づいていくのよ」

 私は昨日のエスカレーターの話はどうなったんだと思ったけど何も言えず、おばあちゃんの温かさを感じるしかなかった。

 おばあちゃんは幼子をあやす様にゆっくりと背中をトントンする。

 私は声を上げて泣きたくなるのを我慢して嗚咽を漏らし、憂鬱を巡らせる。



 もうダメだ。どうしてこんなに悲しいんだろう。もう会えない訳じゃない。今日のお別れも明るい雰囲気だったし、また連絡するとも言ってくれた。

 でも、もう会えない気がしている。心の奥にある小さな恐怖が私の涙腺を緩めて止めない。そして、おばあちゃんの温かさがそれを加速する。


 でも、お母さんが「ごはんよ~」と声を掛けてくる。

「じゃあおばあちゃんがちょっと時間作るから、落ち着いたら降りてくるのよ」

「うん」


 おばあちゃんがまた頭をポンポンとして、階段を下りて行く。

 私はその場で座り込んでしまう。

 数分経つと少し落ち着いてくる。

 静かに部屋に入って鼻をかむ。




 メッセージアプリを開き、彼のアイコンを眺める。

 ダックスが幸せそうに眠っている。今日は本当に彼と通じ合えた。

 そんな気がする。なのにもう終わりだなんて。


 私はこれからのことを沢山想像していた。同じ高校に行って、大学も一緒のところを目指して、無理矢理に同棲なんかしたりしちゃったりなんて……。

 なんてバカバカしい。愚かで非現実的だ。

 現実は気持ちも伝えられず、付き合うことすらできずに高校もバラバラになって。

 なんて情けなくて私らしいんだろう。


 私の気持ちはその程度だったのかな?

 いや、そんなことない。絶対にそんなことない。

 私は世界で一番、何よりも誰よりも彼のことが好きだ。本当に好きだ。


 でも、告白はできなかった。回りくどく遊びに誘おうなんて考えて、それすら出来ずに終わった。

 あの瞬間の関係に満足して、この関係が終わってしまうことが怖かった。もっと近くに居られる幸せよりも、遠く離れてしまわないことの方が幸せに思えた。

 だって好きなんだから。


 断られたら二度と喋れなくなる。私の心はクシャクシャになって、その先は真っ暗闇だ。彼にとっても告白を断ることはストレスだろうし、告白なんてしないに限る。

 だって好きなんだから。


 ボロボロと涙を流しながら自分に言い訳をする。わかっている。

 この涙の本当の理由は後悔だ。



 彼が進路を決めてしまうよりも前に「好きです」のたった一言を言えれば一緒に居られたんだ。いや、彼が心を決めてからでも「離れたくない」と言っていれば彼は進路を変えたかもしれない。

 でも、できなかった。

 恥ずかしくて勇気が出なくて今も言い訳ばっかり。

 こんなので彼と結ばれるわけがない。

 こんなので彼の横に立てる訳がない。

 わかってる。


 彼は心が決まって清々しそうだったから、言わなくてよかったと思う。

 そう、私が彼の人生に横入りすることはできないのだ。

 でも、私の一言で大学に行ってもらえたかもしれない。それで高卒よりもいい人生になったかもしれない。反対に奨学金やバイトの毎日で苦労することになったかもしれない。さらにご両親には確実に苦労を強いただろう。

 いや、もう全て終わってしまったんだ。今さら何を考えたところで仕方ない。



 それからティッシュの箱が軽くなるまで泣いていた。

 泣いて泣いて、泣き疲れた頃にノックが聞こえた。

 私が返事をしないから「入るわよ」と、おばあちゃんが呆れた顔で入ってくる。


「ご飯は食べてきたみたいって伝えたから。お風呂に入りなさいな」

 微笑みながら言う。



 おばあちゃんはしばらく見守ってくれたが、それでも動かない私に呆れ、座ってゆっくりと話を始めた。

「フラれたのか上手くいかなかったのか分からないけどね、全部終わっちゃったの?まだやれることはないの?絶望するのはちゃんと全部やりきってからよ」

 

 おばあちゃんは私が考えている顔をしているのを見て言葉を続ける。

「私もおじいちゃんが死んじゃったときは何も見えなくなって、ただ悲しくて仕方なかった。だけどね、私はおじいちゃんにできることは全部やってあげたわ。だから後悔はないの。前を向いて、おじいちゃんと作った家族を私が支えて行こうって、そう思えたの。

 いい?できることは全部やるの。若いから続きばかり考えちゃうかもしれないけど、終わりはいつも不意に訪れるの。いつ終わってもいいように全部やり尽くして満足しなさい。諦めるのは満足してからでも遅くないから」


 私はしゃっくりを抑えて声を出す。

「……うん。頑張る」

「そう、イイ子ね。今日はもうお風呂に入って、ぐっすり眠って、また明日から頑張りなさい」

 おばあちゃんはまた頭を撫でてくれる。



 とぼとぼお風呂に向かうと、リビングからお父さんの笑い声が聞こえる。

 そういえば、昔お母さんから聞いたことがある。お父さんとは会社で出会って、お父さんから告白してきたらしい。

 お父さんも勇気を出すところでは出せるんだ。今じゃ少し太ってて、ナシだなあって感じだけど。昔はカッコ良かったんだな。


 はぁ。ため息が出る。

 今日はお母さんを呼びたくないから着替えを忘れずに持ってきた。

 沢山汗をかいたから入念に頭と体を洗い、ゆっくりと湯船に浸かる。

 やり残したことか……、沢山あるかも。

 まだこの気持ちも伝えていない。


 ぽつりと涙が落ちてくる。

 鏡に映る腫れた目はブサイクで、こんな顔で彼と居たなんて信じられない。

 はぁ、お腹空いた。



 お風呂から上がると喉が渇いてることに気づき、冷蔵庫に向かう。

 するとキッチンには洗いものをするお父さんが居た。

「お腹空いてないか?さっきカレーおかわりしたから、まだ温かいと思うぞ」

「そうなの?じゃあ食べようかな」

「喉がカスカスじゃないか。クーラーが効いてても水分補給はしっかりな」

「うん、ありがと」


 お父さんがコップに水を注いで差し出してくるので大人しく受け取る。

 久しぶりの水は美味しくて一気に飲み干してしまう。

 おかわりを注いでいると、お父さんがカレーの用意をしてくれる。

「ご飯の量、こんくらいでいいか?」

「うん、ちょうどいい。ありがとう」

「じゃ、お父さんお風呂入ってくるから」

「わかった」


 なるほど。お母さんは良い人を選んだものだ。

 カレーをむしゃむしゃと食べる。むちゃくちゃ美味しい。

 夏のカレーは他の季節に比べてなぜか美味しい。



「あら、結局食べてるのね」

 お母さんがやって来てソファに座り、テレビを点ける。

 テレビには私が小さいときに何度も見たアニメ映画が流れている。

「お父さん、いい人だね」

「うちのお父さんには敵わないけどね」

「……そうだね」

 私が言ったのは映画の中のお父さんじゃなくて”うちのお父さん”のことなんだけど。まぁいいや。



 シャワーを浴びたお父さんがやって来てお母さんの隣に座る。私の彼と想像する未来はこれだ。なんてことない普通の幸せ。

 でも、付き合ってもないのにこんな妄想は重すぎるよね。はぁ。



「重いため息ね」

 お母さんが聞いてくる。

「夏休みももう終わりだからな」

 お父さんが謎のフォローを入れてくる。

「宿題は終わりそう?」

 お母さんが聞いてくる。

「たぶん終わるよ」

 適当に返す。

「今までも終わってたし、心配しなくてもいいよな」

 またお父さんが謎のフォローを入れてくる。


 カレーを食べ終わり、食器を洗い、歯も磨いてしまって、部屋に戻る。



 時刻は9時半。早い時間だけどもう眠い。

 でも、今を逃したらタイミングは無い。

 とりあえず何か送らないと。明日じゃなくても、近いうちに会う約束をしたい。

 ベッドに入ったら寝ちゃいそうだから勉強机に向かう。


 彼のアイコンを見る。

 「かわいい寝顔のダックスだね」って、アイコンの感想でも送ろうか。

 それはさすがに今さら過ぎるか。なんて送ろう。


 悩みに悩んで「好きです」と打って、すぐに消す。これは直接言うべきだよね。

 彼が目の前にいるのを想像してみる。小声で練習しようとしても声に出せない。

 今日はあんなに喋れていたのに。どうしてもその言葉だけが言えない。



 グーグルで”告白する方法”なんて調べてみても告白できるようにはならないのだ。

 ……夏休みはあと2週間。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る