第10話 夕焼け、しょっぱいソフトクリーム(2)
2人とも黙ってしまい、静かになった空間にピアノの音色が流れ始める。
カウンターの方を見るとマスターが微笑んで頷く。
私は目が赤くなっていないか気になって目を伏せてしまう。
奥さんはどこかに行ってしまったようだ。話し相手のいないマスターに私たちの会話は筒抜けだろう。
マスターはいい答えを持っていないのだろうか。どうか教えてくれないだろうか。
そう言えば入口近くのテーブルに座っていたダンディな人がいなくなっている。
ふと窓の外を見ると、サングラスを掛けたダンディなあの人と柴犬が堤防の下を歩いていく。柴犬が吠えてサギが飛んだ。
サギが飛ぶのを見ていた彼がこっちを向き、私と目が合って驚いた顔をする。
「なんで泣いてるの?」
「……悔しいもん」
「俺の問題だよ」
「そんな寂しいこと言わないでよ」
ほとんど溶けたソフトクリームをすくって口に運ぶ。涙の味がしょっぱい。
「でも、もうちょっと考えてみるよ」
彼はそう言って、笑いかけてくる。
「なんとかなるよ」
私は笑い返すが熱い空気が鼻を抜けていく。目頭もますます熱くなる。
カウンターの棚に置かれたスピーカーはシックな木目の高そうなやつで、そこから流れる音楽は優雅で心地いい。
この曲はなんだったっけ。そうだ、トロイメライだ。
その懐かしさを感じるメロディに耳を預け、小学生の頃に通っていたピアノ教室を思い出す。そこの先生は沢山のクラシック曲を聞かせてくれ、作曲家についても詳しくて話も面白かった。
先生はトロイメライは夢や夢想という意味だと語っていた。作曲家のシューマンとその妻は大変な苦労の末に結婚をしたと習った。
これはマスターからの「諦めるな」というメッセージだろうか。だとすれば分かりにくすぎるったらありゃしない。
私がピアノを辞めたのは小学校を卒業するタイミングで、友達がみんな辞めてしまうからだった。ピアノは楽しいし続けてもいいかなと思っていたが、私はあの頃から何も変わらずに周りに流されて生きている。
それに比べて、彼は周りに流されることなく自分の未来を掴み取ろうとしていた。
私みたいな人がのうのうと生きているのに、彼のような人がどうして暗い未来を見なければいけないのだろうか。
悔しい気持ちと同時に寂しさもやって来ていることに気づく。どうしてこんな感情になっているんだろう。お別れじゃないのに。
そもそも付き合ってすらいない。なのにこんなに苦しいなんて。きっと、彼と一緒にいる甘い未来を妄想していたせいだ。妄想の後遺症だ。
たぶん、やっと両想いになれたかもしれないのに。
今、お別れが決まった。
彼の家は自転車で行ける距離にあるから会いたければいつでも会える。
なのに強い別れの予感に襲われてる。
彼の方を見ると頬に涙の筋が出来ていた。きっと彼も同じことを考えている。私の頬にも冷たい一筋を感じた。抑えられたと思ったのにまた零れてしまった。
彼もこっちを見る。1秒間目が合う。彼はまた微笑む。私もつられて微笑む。大丈夫だ。私たちはきっと繋がっている。
それから二人はまた黙って海を見つめた。
日が傾いてきて、テラスのパラソルにオレンジ掛かった日が掛かる。
海には白波が立っている。海風が強くなってきたようだ。
太陽のオレンジが濃くなってきたことに気づいた彼が口を開く。
「もう夕方か」
「そうだね、そろそろ帰らなくちゃ」
「なんか、重たい話でごめんね」
「話してくれて嬉しかったよ」
「ありがと。相談というか自己完結しちゃったけど」
「俺さ、ほんとは同じ高校行けたらなって思ってたんだよね」
「私も思ってたよ。けど、しょうがないね」
「なんだか人生って感じだね、また大人になっちまった」
「調べてみたら教師以外にも面白そうな仕事はあってさ。電気工事士とか興味あるんだよね」
「電気工事士?」
「ビルの配線とかするんだって、よくわかんないけどさ。面白そう」
「いいじゃん。なんかカッコイイ」
「でも、科技高に行けばもう人生が決まっちゃうなぁ」
「決まらないよ。きっと。人生はいつでも選べるよ」
「力強い言葉だね」
「でしょ。どっかで読んだ言葉だけど、例えば弟くんが大学を出た後とかさ、自分の好きなことできるように準備しとこうよ」
「いいね、それ。考えておくよ」
彼は最後の紅茶を飲み干して立ち上がり、伸びをする。
「いやぁ、話せてスッキリしたよ。頑張れそう」
「悲しいけど、会えない訳じゃないし」
「そうだね、また連絡するからさ、高校行っても会おうな」
「もちろん」
私も立ち上がって伸びをし、お支払いのためにレジに向かう。しかしマスターに「お会計をお願いします」と言うと、「もういただきました」と返される。
マスターに聞くとあのダンディな人が私たちの分を払ってくれたらしい。
名前も知らない人にご馳走されるなんてあるものなんだな。
優しさは嬉しいけど、お礼も言えないのはなんだか寂しいな。
日が暮れる前には帰れるだろうか。
お店を出て少し歩き、振り向くと彼はまた海を見ていた。
「何見てるの?」
と問いかけると
「感傷に浸ってるんだよ」
と彼はぶっきらぼうに言う。
太陽が夕日に変わる少し前の時間。夕日を見て帰るのも良いかもしれない。
「夕日が沈むまで見てく?」
「いや、もう大丈夫。夕日を背に帰るのも悪くない」
「そう?」
「またいつかさ、一緒に来ない?」
「いいね。夕日は楽しみにとっておこう」
やっと彼が本当の笑顔を見せてくれる。
やっぱり私は彼のことが好きだ。
高校で離れ離れになってもきっと好きなままだろう。
また汗だくになりながら家の近くまで帰ってきた。
昨日の帰りと同じ場所で止まる。知らないうちにセミの合唱は、アブラゼミの部からヒグラシの部に変わった。
今生のお別れのような、そんな重たい空気。できるなら明日も会いたい。お買い物でも散歩でもコンビニでも、なんでもいい。
お盆が終わってしまえば、私は塾の夏期講習がまた始まる。それは彼も同じ。でも私は「今の学力があればあまり苦労することはない」と言われたから週に3回お休みがある。
彼は8月の頭まで部活があったから「少し頑張らないと」と言った。けど、そんなに頑張らなくても良いんだと私は理解した。
つまり、お互い会えないほど忙しくない。
私たちは自分の成績やこれからのスケジュールを躊躇いもなく話した。でも、次の約束の話は出てこない。
昨日よりも心の距離が近づいている。そんな感じがする。自転車なんて離してしまって、今すぐ抱きつきたい。でもできない。できないよそんなこと。
感情のわがままが鼓動を早くさせる。
「顔、紅(あか)いけど大丈夫?」
彼に言われてハッとする。
「夕方でもまだまだ暑いね」
パタパタと手で顔を扇(あお)いでごまかす。
「そうだね」
きっと彼は私の緊張に気づいている。
でも、私も彼の緊張に気づいている。
お互いに言いたいことがある雰囲気を隠しきれず、ぎこちない。
「お、空がきれいだ」
彼が西の空を見て言う。
「ほんとだ」
夕日が沈みかけており、空には鮮やかなオレンジ色から紺色へのグラデーションが広がっている。本当に美しい。
カラスが遠くの山に向かって飛んでいく。
二人は黙ってカラスの鳴き声を聞く。
さよならの空気が流れる。
街灯が点いて彼の帰る道を照らす。
「なんか、勉強のやる気も出てきたな」
彼はぶっきらぼうに適当なひと言を呟く。
ぬるい風が吹く。
帰り道で飲み干したペットボトルが自転車のかごで揺れてカラカラと鳴る。
「シャワー浴びたいね」
「俺臭くない?」
「全然匂わないよ」
「今日の晩ご飯なんだろう」
「何が良い?」
「肉ならなんでもいいかな」
話題を探しては投げる。そんな繰り返し。最後の悪あがき。
分かっている。こんな会話も別れの雰囲気の1つ。
でももう少しだけ。あと少しだけ。
そうしている内に、私たちの横をヘッドライトを付けた車が通り過ぎる。
日はとっぷりと沈んでしまい、ヒグラシの声も遠くなった。
ひっそりと佇んでいた街灯の存在感が増している。まるで「早く帰りなよ」と急かしているようだ。
私たちは車の音に会話を遮られて少し俯く。
お互いに言いたいことが言えていない。肝心で重要で大切なことが。
「じゃあ、また」がいつ出てもおかしくない、そんなときに彼が勇気を出した。
「あのさ……」
「なに?」
とても長い時間が過ぎる。集中してるときの感覚。また鼓動が速くなる。
「あのさ、」
彼は繰り返す。
「うん」
私は受け止める。
「やっぱりいいや」
彼は顔を紅くして笑う。
「え~、なにそれ」
勇気が足りなかったみたいだ。
私の頭に酸素が返ってくる。真っ白になっていた頭に色が戻る。
まったく、緊張させてくれる。
「なんか、こういうの難しいね」
「そうだね」
「また今度、今度会うときには言うから」
「わかった。じゃあまた今度に聞くね」
やっぱり本人を前に勇気を出すのは本当に難しい。
私からは明日も会えないか聞くのすら難しい。
いつでも連絡できるし何とかなる。
面と向かっていない方が伝えやすいし、また今度勇気を出そう。
車が通りかかり、二人はまた静かになる。
もうこれ以上の延長は無粋だ。ここらが良い引き際、去り際、潮時、幕切れ。
つまり、お別れだ。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
彼は振り返り自転車にまたがる。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
「じゃあ、行くよ」
「うん」
二人でフフッとなって、また
「じゃ、ほんとに最後」
「うん、じゃあ、またね」
彼は自転車を漕ぎ始めてぐんぐん進み、すぐに見えなくなった。
彼は昨日の様に振り返らなかった。
彼は何を考えながら帰っているだろう。
私のことを考えてくれているのだろうか。私と同じように。
それとも将来のことについて考えているのだろうか。私とは違って。
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