第9話 夕焼け、しょっぱいソフトクリーム(1)


 紅茶を飲んでアイスクリームも半分ほど食べ進めたころ、彼は”コホン”とわざとらしい咳払いをして話を始める。

「今日はちょっと話したいことというか、相談があってさ」


 ”何か重い話がありそうだ”と軽く覚悟を決める。

「相談?私で良ければいくらでも聞くけど、私でいいの?」

「まぁ相談というかなんと言うか、進路のことなんだけど……。やっぱり大学って行った方が良いと思う?」


 大学か。遠くの未来については具体的に考えたことがない訳ではない。でも、なんとなく行くところではないと思っている。

 大学は授業料が高い上に4年も人生を消費してしまう。でも、行かなくちゃ高い給料やホワイトな職場は望めない。

 うーむ。ときどき私の頭の隅にも巡っていることを質問されるとは。


 私は少し考えて、当たり障りのない答えを返す。

「将来したい仕事が大学に行かなくてもなれるなら、わざわざ行かなくても良いんじゃないかな?」

 そう答えると同時に、心に小さなトゲが刺さるのを感じた。


 このトゲには心当たりがある。

 将来の妄想だ。同じ高校に行って、同じクラスになって……なんて妄想。

 彼も大学に行くと当然のように思っていた。彼も私と同じように、どれだけ目を凝らしても綺麗な形には定まらない、けれどなんとなく楽しそうな将来像を見ているものだと思っていた。

 将来なんてただ眺めているだけでなんとなく落ち着くような雲のように感じていると、そう思っていた。


 でも彼は違ったみたいだ。聞き方からして、自分の将来像について小さくても何かを見出している。だから彼は大人びて見えていたのかもしれない。

「そうだよなー、やっぱり将来の夢だよなー」

 彼は独り言のように呟いて黙ってしまう。



 無音のカフェには老夫婦の談笑する声がよく響く。

「えっと……、どうするつもりなの?」

「科技高に行こうかなって思ってる」

「え?普通科じゃないの?」

 彼も近くの普通科高校に行くと思っていた。一緒だったらいいなと、ずっとずっと思ってきた。

 人生思ったように行かないものだな。


 考えるフリをして意気消沈を悟られないようにしていると、彼が話を続ける。

「うちはそんなに裕福じゃないから、高校出たら就職して、家にお金入れようかなって思ってさ」


 初めて聞く話だ。

「家計、そんなに苦しいの?」

「正直よく分からない。よくは分からないんだけど、最近母さんがパートを始めてさ。俺を大学に行かせるために頑張ってるのかも知れないって思ったら、なんだか心苦しくてさ。嬉しいのは嬉しいんだけど、苦労は掛けられないっていうか」


 衝撃だった。

 いつも笑顔で話してくれる彼には悩みなんてないと思っていた。部活で走り回る彼の姿は無邪気で可愛かった。

 でも、本当のところはそうでははなかった。彼は苦悩を周りには悟られないように、悩みを振り払うように笑顔で走っていたのかもしれない。


 私は彼の理解者になりたいと思っていた。だんだんと解り始めてた気がしていた。けれど私は彼のことなんて何も知らなかったのだ。彼は仮面の下に悩みを忍ばせて笑っていたのだろうか。

 教室で彼は友達の進路相談にも付き合っていた。誰も彼の悩みなんて知らなかっただろうし、悩みがあるなんて露ほども思わなかっただろう。

 そんなの寂しい。寂しすぎる。



「難しいね」

 こんなことしか言えない自分が情けない。

 学校で私の成績は良い方で、自分は”ちょっと賢いんだ”という自負があった。でも、彼の葛藤している問題に対して良い答えが思いつかない。


 きっと大学には行った方が良い。でも、家族に負担をかけたくない気持ちも理解できる。まして、彼には2人の弟がいる。彼が働けば弟たちは何も考えずに大学に入れるのかもしれない。

 でも、弟の立場からしたら、自分たちのせいでお兄ちゃんが進学を諦めたなんて思いたくないし、もっと自分の人生を楽しんで欲しいはずだ。

 彼のことだから家では「この仕事をしたかったんだ」なんて笑顔で言ってのけるのだろうか。それが想像できてしまいさらに悲しくなる。



「ごめん、こんな話して」

「いやいや、大事な話をしてくれて嬉しいよ」

 そんなに暗い顔しちゃってたかな。

 どんな顔をすればいいんだろう。笑顔にはなれない。



「俺さ、隠してたけど夢があったんだ。でも最近はそれも小さなことだなって思えるようになったんだよね。どんな仕事でもやってみればそれなりの面白さがあるだろうし、手に職つけられたら何でもいいかなって」

「夢ってなに?」

「学校の先生だよ。5年生のときの担任の先生がさ、優しくて面白くて正義感も強くてカッコ良かったんだ。俺が何にもできなかったイジメもすぐに解決しちゃって。それで、こんな人になりたいなって思ったんだ」

「すごく良い先生だね。憧れたならなろうよ、なれるよ」

「言うのは簡単だけどさ、なかなか難しいもんだよ」

 また彼は笑った。感情を隠している笑顔だ。

 いつもの笑顔じゃない。笑っているのに悲しい顔だ。


「私は、個人的には普通科の高校に行って、大学にも行くのが良いと思う。ずっと悩み続けてる人に簡単に言うことじゃないかもしれないけど。あくまでも私の意見としてはね」

「やっぱりそう思う?」

「親の負担は大きいかもだけどさ、親としては我が子が夢を叶える方が嬉しいんじゃないかな」

「でもさ、母さんも体強い方じゃないから、父さんも気負っちゃってる感じがするんだよね。上の弟も部活初めたから弁当作るために土日も早起きしてて、送り迎えも大変そうだし。ここで俺が大学に行きたいって言っちゃったらお金のことで心労がまた増えるし」

「そっかぁ、それは私も大学に行きたいって言えないかも……」

「そうだよなぁ~」

 彼は背伸びをして諦めたように言う。


「このこと伝えたくてさ。海でも見て穏やかな気持ちになりながらね」

「もう心は決まってるってこと?」

「半分くらい。そんな簡単には諦めきれないけどさ、仕方ないよね」



「仕方ない」か。もう彼の中では結論が出てしまっているんだ。

 そしてきっと私に背中を押して欲しいんだ。

 望んではいない未来の、その先の希望を探しているんだ。本当は怖いのに、家族のために暗い道に進もうとしている。本当に底抜けに優しい人だ。



 家が貧しいから進学を諦める、なんてテレビの中の出来事だと思っていた。

 でも、こんな悩みや問題はありふれた話なのかもしれない。

 街を歩いてみても幸せそうな顔で溢れているが、みんな優しくて強いから、そうじゃないと生きていけないから、苦しさなんて平気で隠しているのかもしれない。


 でも、本当はみんな、誰かに、何かに縋りつきたいはずだ。でもそんなことをしても誰も助けてはくれない。だから独り隠れて苦しむしかない。

 きっと街を歩く大人たちの中には、家族のために笑顔で頑張って働いて、最後には擦り切れてしまう人もいるのだろう。

 彼はきっと両親の弱音を聞いてしまったとかそんな感じだろうか。私だってお父さんやお母さんが苦しそうだったら支えずにいられないだろう。


 なんだか悔しい。将来を考えるって、もっとワクワクしたものであるべきなのに。

 将来を考えてどうしてこんなに悲しくならないといけないんだ。



 私はどれだけ恵まれていたんだろう。平和な国に生まれて、お父さんは残業もするけど土日はお休みで、生活にはゆとりがある。家計は分からないけれど、豊かに暮らしていることは確かだ。

 彼から相談を受けることで初めて気づくなんて、私はちゃんと世界が見えていなかった。貧困問題なんて遠い世界のどこかの話だと思っていた。世界の不平等はこんなにすぐ目の前にあったんだ。どうして気づけなかったのだろう。


 私の悩みなんて自分の恋の行方くらいしかない。なんてお花畑な頭だろう。彼はこんなにも苦しんでいたのに。

 色々な感情が生まれて泣きそうになる。目を閉じて深呼吸をして涙を抑える。



「相談しといて勝手に納得しちゃってるや。良くないよねこういうの」

 彼は言う。まだ私のことを考えてくれている。

 自分のことで必死になってもおかしくないのに。

 どうにか彼のことを助けてあげたい。何かないかと考えて提案をしてみる。


「そういえば、奨学金とか聞いたことあるけど、そういうのはどうなのかな?」

「奨学金については先生に聞いたんだけど、けっこう大変らしい。仕組み自体は借金と変わらないみたいで、卒業まで借りたら学費だけで国立でも200万超えるみたい。

 教員になったら返済が免除される仕組みが復活する可能性もあるんだけど、それでも教員採用試験に受からなくて返済に苦しんでる人もいるらしいよ」


「「学費も生活費も家賃も、バイトだけじゃ何とかできないですかね?」って聞いたら、「確実に留年するからやめとけ」って言われたよ。「先生は応援してるぞ」って言ってくれたんだけどね。応援なんて助けにならないよ……」

「そっか、何にも知らなかった。ごめんね適当なこと言って」

「俺も先生に聞くまで知らなかったよ。将来は先生になるものだと漠然と思ってたんだけどね。社会は厳しいらしい。まぁ、どうしようもないことだし、どうしようもないよね。

 大学に行くなら、大きな借金をするか、身を粉にして働きながら通うか、親に苦労かけるかのどれで、それだけ苦労しても先生になれるかどうかも分からない。それでも大学に行きたい!なんて言えないよ」

「優しいし、勉強も運動もできるし、悪さもしてないのに。なんでだろうね。悔しいよ」

 我慢できなくなった涙がひと粒落ちたから指でさっと拭う。

 よかった彼は海を見ていて気づいていない。


 涙を悟られないように言葉を絞り出す。震えないように慎重に。

「自分のやりたいように生きるべきだと思うよ。一度きりの人生なのにもったいないと思う」

「そうだね、やりたいように生きるなら普通科高校に行くかなぁ」

「一緒に行こうよ」

 彼は「ははっ」と乾いた笑いで私のお誘いを躱し、話題を変える。


「でもさ、大卒が当たり前みたいになってるけど、同世代の半分は高卒らしいし、高卒もけっこう普通なんだよ。科技高に行けば専門学校卒みたいなものだし。大丈夫さ。手に職付けて頑張るよ」


 彼は私に話しているんだろう。

 海を見ているから自分自身を説得しているみたいだ。

「そっか」

「うん」



 努力が報われなくて夢を諦めたならそれは仕方がないと諦められる。

 でも、自分の努力と関係のないところで諦めなくちゃいけないなんて、諦めるにも諦めきれない。悔しい。

 話を聞いてるだけで悔しいんだ。彼はどれほど苦しんだだろうか。

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