第3話 押しの強い許嫁

 午後の授業は剣術の授業が続けて2コマだったから、剣術が終われば自由時間となる。学院では基本的には午前中で全ての授業が終わり、時々午後に授業が入る。そのため、午後の時間は基本的にクラブ活動となる(高等教育の他、人脈を深める事にも主眼を置いている)。馬術や決闘といった校庭を使うクラブが邪魔だとばかりに剣術を選択していた生徒を校庭から追い出す。俺もその流れに乗って一度寮に戻ろうとしていた時だった。

 

「レオ様。 少しよろしいでしょうか」

 冷たい、凛とした声が響く。声の持ち主はフィオナ様。いつからそこに居たのか、木陰から抜き出てきて顔には笑顔が張り付いているが、声に笑みはない。

 

「すみません。汗がひどいので」

「私は構いません」

 反射的にこの場を逃げようとするが、ぴしゃりと言われてしまって二の句が継げなくなってしまう。覚悟を決めて先に謝罪をしておく。

 

「すみません。先ほどの失礼な物言いは余りにも失礼でした、大変申し訳ありません」

「そんなことはどうでもいいのです。 私は少し怒っています。何故怒っているか分かりますか」

 

 一番面倒な質問だった。まだ直情的に怒りをぶつけられた方が楽だ。面倒くささが顔に出るのを意識して止める。

 

「申し訳ありません。 何かご不興でしたでしょうか」

 

 フィオナ様が作り笑顔のまま近づいてくる。

 そして俺の眼を見据えて問うてくる。


「随分と仲がよろしいようですね」

「? すみません、何の話でしょうか」

「あの赤髪の娘です」

「赤髪? あぁイルティナの事ですか。 えぇ、彼女は学院1の剣士ですよ。稽古を付けてもらっているのですが、これが一向に勝てる気配が無い。 大海の広さを思い知りますよ」

「…………その娘の話は楽しそうになさるのですね」

「えっとフィオナ様? どうされました?」

「レオ様。私は許嫁です。婚約者ですよね。 そんな私よりもあの娘との方が仲睦まじいなんておかしくはありませんか?」

 フィオナ様の笑みが無くなって、すっと目が細められる。


「私の他に仲の良い女性は居ないと言っていたのに、その舌の根も乾かない内に随分と仲睦げに談笑されていたではありませんか。あんな笑顔一度も私に向けてくださらないのに」

 

 綺麗な人が怒ると凄みがある。少しだけ言葉尻に力があるだけで普段と変わらない平坦な声音。しかしその目には怒気が孕んでいる。

 確かに彼女の視点から見れば、自分がないがしろにされていると感じるはずだ。面白くない訳が無い。身分違いといえど自分は婚約者であろうとしている、それなのに相手が自分に向き合わず好き勝手にやっていれば怒りを覚えて当然だろう。悪役令嬢とか、そういうことは関係なくそれがきっと普通の反応だろう。

 思わず彼女から視線を逸らしてしまう。


「ねぇレオ様。 もう5年ですよ。5年間ずーっと私ばっかり。それなのにあの娘にはすぐに心を許していらっしゃる。 あんまりじゃないですか」

「……申し訳ありません。今後は出来る限りイルティナとは距離を取るように心がけます。フィオナ様」

「ひどい人。 そんなことを言ってほしい訳じゃない事くらいわかっているくせに」

「…………」

 

 ここで彼女を突き放せるような度胸と覚悟と力があれば、きっとこんなことで悩んではいないのだろうと改めて思う。しかし彼女の恨みを買うような真似は出来る限り慎まなければならなかった。

 子爵家等、侯爵家がその気になれば赤子の手をひねるように潰される。そのくらいの歴然たる力の差がある。

 あくまで婚約者として相応しくないと出来る限り穏便に話を進めなくてはならないのだ。

 

 じぃっと非難がましいフィオナ様の眼が俺を捉え続ける。それがどれくらい続いただろうか。

 たっぷりと10秒以上はたった後、気まずい沈黙は彼女によって破られる。

 ふっと、小さくフィオナ様が息を吐く音が聞こえた。彼女の冷たい真顔はもうそこにはなくて、いつもの微笑みが浮かべられている。

 

「すみません。感情のままに喋ってしまいました。 レオ様の交友関係に口を挟みたい訳ではないのです。ただちょっと羨ましくて、嫉妬、しただけなんだと思います」

 

 あまりの切り替えの早さに驚きは隠せない。彼女が貴族の中の貴族なのだと強く思う。どんな理不尽でも笑顔で受け入れて、笑顔で後ろから刺す。そういう怪物の片鱗を見たような思いだ。

 俺には絶対に出来ない生き方だと、尊敬すら浮かぶ。

 

「いえ、ご不興を買ったようで本当に申し訳ありません」

「謝らないでください。 そもそもここに来たのは私がレオ様に謝りたかったからなのです。

 先ほどは申し訳ありませんでした。レオ様の心情も考えず性急に事を進めようとしてしまいました」

 

「俺の方こ……いえ、ご配慮ありがとうございます」

 貴族間での、身分が上の人間の謝罪は特別な意味を持つ。先ほどのやり取りは彼女の厚意を無下にした俺が悪い。それでもこうして謝罪を行う真摯な態度は、少し眩しくすらある。

 

「これで、仲直り、ですよね」


 彼女の声音に穏やかさがあって、様子を窺うように少し上目遣いでのぞき込まれる。それだけで先ほどまでの緊迫した空気が、あっという間に弛緩する。彼女の変貌に面食らっている俺がいる。

 

「え、えぇそうだと思います」

「あぁよかった。 もしも許してくださらなかったどうしようって不安だったんです」

「そんな事はあり得ませんよ」

「えぇ知っています。レオ様は優しいですから。 でも初めての事は不安ですよ」

 

 彼女の顔に笑顔が咲く。微笑みではなく、花が咲いたような笑顔。

 前世の事とか、冒険者の夢の事とか。そういったものがなくただ純粋にその笑顔を受け取ることが出来たら1撃で全てをやられただろう素敵な笑顔だった。

 しかしそれは本の一瞬の事。瞬き程の時間で、いつもの微笑みを浮かべるフィオナ様に戻っている。

 

「でもレオ様。 婚約者として私よりも親しい女性が居る事は不満です。良い気分ではありません。埋め合わせをお願いします」

「……どういう事でしょうか」

「今晩。食事に誘ってください」

 

「…………申し訳ありませんがフィオナ様が好まれる店を俺は知りません」

「そんなことはいいのです。 レオ様がよく行かれるお店に連れて行ってください」

「いやそれはちょっと本当に困ります」

「あら。どうしてでしょうか。 何かやましいことでもあるのですか」

「そうではないのですが…。俺が行く店はホントの大衆食堂ですよ? まかり間違ってもフィオナ様が足を踏み入れるような場所ではないです」

「心配無用です。 メイドのアリーにお願いして市井の者の装束を取り寄せてあるのです。 お忍びデート、というものですね。楽しみです」

「……少し性格が変わりませんでしたか?」

「レオ様はどうやら快活な女の方がお好みのようですから」


 本当に唐突の事で理解が追い付かない。

 フィオナ様に叱られていたと思っていたら強引に約束が取り付けられてしまっていた。

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