第16話 決して落とせない男

 結海は朝倉が男にルーズなのを知っていたが、時間にもルーズなことを身をもって実感した。


 ――もう約束した7時から40分以上も経つのに、まだ来ないのかしら?



「お酒のおかわりはいかがですか?」バーテンダーの男が結海の空のグラスを見て言った。


 するとその時、「もうその辺でオレンジジュースにしとくんだな」男の声がして、結海は驚いて振り向いた。



「あっ!」


「こんな場所に来るなんて、君にはまだ早いんじゃないのか?」

 背後で裕星が笑っている。



「パ、じゃなくて、海原さん! やっぱり、あなただったの?」

 結海はもうすでに泣きそうな顔になっている。



 するとバーテンダーの男が裕星を見て慌ててグラスを置いた。

「海原裕星、様ですね? ラ・メールブルーの。お二人はお知り合いでしたか。いやあ、僕は本物の海原さんにお会いできて嬉しいです! ラ・メールブルーのファンなんですよ」とそわそわしながら言った。



「―—あの、今、海原さんとは初めて会ったって言いました?」

 結海が恐る恐るバーテンダーに訊いた。



「はい。ずっと以前から会いたかった方です! 僕は彼のお父上、バイオリニストの海原唯月かいばらいつきさまのファンでもありまして、ご子息である彼のことはデビュー当時から応援しておりました。


 海原さんはお若いけれど、お父上のDNAを受け継いだ才能を持った方で、僕らファンには神も同然ですから。会いたくてもこんな偶然にお会いできるチャンスなんてありませんでしたよ」と興奮冷めやらないと言ったように、話し終わっても指先が震えているようだ。



「そんな……。じゃ、じゃあ、朝倉さんの彼氏じゃ……」

 結海が裕星を見上げると、裕星は「だからずっと言ってただろ?」とニコリとした。



 すると、ちょうどそこに一時間遅れで朝倉リンがゆっくりこちらに向かってくるのが見えた。

「お待たせ! 結海ちゃん、ごめんねえ。ちょっと友達と話し込んじゃってたの。

 ――あら? その人は? えぇっ? やだ、海原裕星じゃないの! どうしてここにいるの?」






「初めまして。僕の親戚の結海がお世話になったとか? 今日はあなたと一緒に食事をすると聞いてきましたが、約束された時間よりだいぶ遅いみたいですし、僕がたまたまここに来たんで、彼女は連れて帰ってもいいですか?」



「―—え? あ、いえ、ちょっとお話だけでもしませんか? 結海ちゃんの親戚だったなんて……やだ、結海ちゃん、もっと早く教えてくれたら良かったのに。

 私は朝倉リン、知ってますよね? トップモデルとトップアーティスト初顔合わせで飲みません?」




「いや、止めておきます。週刊誌ご覧になってないんですか? もうこれ以上ガセを出されるのはコリゴリなんでね」

 裕星は冷たく言い放つと、結海の腕を引いて「さあ、帰るぞ」と出口に向かおうとした。




 すると、朝倉が追いかけてきて裕星の前に回り込んだ。


「ねぇ、せめて連絡先だけでも交換しない? これから仕事で会うことがあると思うから」





 裕星は結海の腕を放して、ハァーとため息をついた。


「断ります。仕事でも会うことはないと思いますよ。もし一緒になっても僕の方がキャンセルするんで」




「な、何を言ってるの? それに、私はあなたのファン、そう、ラ・メールブルーのファンよ。少しくらいファンサしてくれてもいいんじゃない?

 じゃないと、SNSで言いふらすわよ。裕星がファンに冷たい態度を取ったって」



「どうぞ、何とでも」

 そういうと裕星は一刻も早く立ち去ろうとして背中を向けて歩き出した。


 するとその時だった。

「痛い! ああ、痛い痛い! 足をくじいたわ。今、海原さんが私にぶつかってきて、転んじゃったわ!」

 朝倉が周りに聞こえるような大きな声で叫んだのだった。






 裕星が背中を向けたまま呆れたように首だけ回して窺うと、背後に大理石の床にスカートを広げてペタンと座り込んでいる朝倉の姿があった。


 そこへ、向こうから慌てて駆け寄ってくる男がいた。

「大丈夫か? リンちゃん、立てる? ほら、俺の肩に掴まって!」


 すると、朝倉はその男の手を乱暴に振り払った。

「いいからっ! 余計なことしないでよ。私は海原裕星にお願いしてるんだから!」



 裕星はその男を見て、驚いて声を掛けた。

「お前、潤じゃないか!」




 男がその声に驚いて顔を上げると、視界のすぐ先には先日酒を飲んで話したばかりの旧友の姿があった。


「裕星、お前、なんでここに……」




「まさか、お前が今付き合ってる人って、この人のことだったのか?」




 裕星が朝倉を一瞥いちべつして冴羽を見ると、冴羽は眉をひそめながら「あ、ああ、そうだ」と答えた。



「や、やだ、私、こんな人と付き合ってないわ! ただの飲み友達よ! 裕星、私は今フリーなのよ。この男は勝手に私に付きまとってるストーカーよ!」

 朝倉が座ったままの恰好で裕星に向かって必死に叫んでいる。



「リンちゃん、そんな……。だって俺たちはいずれ結婚するって……」

 冴羽が震えながら言うと、「言ってない! そんなこと一言も言ってない! ただ、一緒にいたら楽しいねって言っただけでしょ! それを勝手に付き合ってると思ってたのはあなたの方よ!」と冴羽の顔も見ずに叫んだ。



「あなたはさいて……」裕星が眉をひそめて言い捨てようとすると、「朝倉さんてほんっと最低な女ね!」裕星よりも先に結海が叫んだ。



「なによ、あなた、後輩の分際ぶんざいで私のことよくもそんな風に言えるわね。いいわ、あなたのこと、この世界から引き釣り落として消してやるから。覚悟しておきなさい!」

 朝倉は立ち上がりながら結海を睨みつけている。




「あら、望むところよ。すぐにでもこの世界からは消えてあげるわよ。文字通りにね!」

 結海は裕星に意味深いみしんなウィンクをしてうふふと笑った。




 すると裕星も、「さあ、こんなとこにいつまでもいる理由がないな。俺たちはもう帰ろう。潤、お前には悪いが、この人は最低だな。


 もし、考え直せるなら、婚約者の彼女のことをもう一度しっかり大切にするんだ。彼女が許してくれるならな」と言い捨て、二人は出口へと向かったのだった。






 冷房でガンガンに冷えたバーから外に出ると、7月半ば、日中の炎暑に比べ、だいぶ柔らかくなった夜風が頬を撫でて、結海は緊張が解け思わず深呼吸をした。

「あ〜、やっと息ができる!」



「夏とはいえ、そんな薄っぺらい格好じゃ風邪ひくぞ」

 そういうと、裕星は自分が来ていた薄手のジャケットを脱いで結海の肩に掛けたのだった。



「ありがとう、パパ。そして、ごめんなさい。私、すっかりパパのこと誤解してた。あの週刊誌と同レベルだったわ。本当にごめんなさい」

 両手を膝において深く頭を下げている。



 裕星は頭を下げたままの結海を見て、フッと笑った。

「似てるな……」


「え?」


「君のママにそっくりだよ。そういう純粋で素直な美羽に俺は惚れたんだ。良かったよ、そんなところが君に遺伝してくれていて」ハハハと笑った。



「パパ……ありがとう」



「まあ、まだ25なのに、22の娘にパパ呼ばわりはされたくはないけどな」

 二人は顔を見合わせて笑った。




 裕星は道路わきの駐車スペースに停めた車に結海を乗せ、二人は清々しい気持ちで自宅マンションへと向かったのだった。









 マンション前に着いて、車が地下駐車場に降りようとしたときだった。結海が突然裕星を止めた。


「パパ、ここで止めて。私、今日も寮に帰るわ。ここからなら歩いて10分もかからないから、ここで降ろしてくれる? 大丈夫、まだ9時前だし、コンビニに寄って買い物していきたいから」



「そうか? 本当に大丈夫?」



「うん。ママによろしくね。明日、週刊誌の記事が出ないことを確かめて、パパたちのバンドの演奏を聴いたら元の時代に帰るわ。

 私があまり長くいると、支障をきたすかもしれないから。ママとは明日帰る前に会うことにするね。

 あ、このジャケットありがとう」

 そういって脱ごうとしたが、「肌寒いからいいよ。そのまま着て行け」と裕星はまた結海の肩にジャケットを掛けた。


「ありがとう。じゃあ、明日ね」

 急いで帰ろうとした結海のハイヒールのかかとが道路の溝に挟まり、バランスを崩してしまった。


 キャッ! アスファルトに背中から倒れそうになる結海を裕星が咄嗟に抱き上げたのだった。


「ふう、お前はつくづく美羽に似てるよ。おっちょこちょいで目が離せないな。本当に気を付けろよ」


 そう言うと、そっと結海を地面に降ろして笑顔を見せた。




「お酒飲みすぎたかも。ごめんね、パパ。じゃあ、今度こそおやすみなさい」


 結海は今度は慎重に足元に気を付けながら、暗がりのマンション前から明るい大通りへと消えて行ったのだった。

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