第12話 失望と絶望の淵で

 その頃、美羽は教会の寮を出てマンションに向かっていた。結海からの連絡が来ないので、一旦自宅マンションにもどるためだ。


 ケータイは結海に貸してある。すぐに連絡を取れないもどかしさがあったが、何かあれば家の電話にかけてくるように言ってある。それまでは待つつもりだった。





 美羽が部屋に戻ると、裕星もまだ帰っていないようだった。事務所に連絡を入れると、裕星はすでに退社しているはずだと社長秘書の大沢が応答した。



「変ね、裕くんはどこで道草してるのかしら?」

 美羽は自宅のキッチンで夕飯の用意をしながら結海と裕星からの連絡をまっているのだった。







 そこ頃、裕星はふと思い立って電話を掛けていた。今年も7月にロックフェスティバルが行われることになっているのだが、その中にCD売り上げが長年低迷していたロックグループの名前があったためだ。


 彼らよりも二年早くデビューした裕星たちラ・メールブルーの勢いに未だ追いつくことが出来ずにいた。そのグループ『デンジャラスゾーン』のリーダーでボーカルの冴羽潤さえばじゅんは、裕星と同じライブハウスで苦労を共にし、当時よく一緒に飲み明かした仲だった。

 年齢も同じとあって意気投合したが、今は命運を分けたように両極端の地位になってしまっていたのだ。

 二人で飲みに行く機会も、その時間さえもなくなっていた。

 しかし、そんな冴羽たちのバンドも今年春に出した新曲が大ヒットし、このフェスティバルへの出演権を得ることが出来たのだった。


「ああ、潤か。久しぶりだな。どうしてた? 10日のロックフェスティバルに出るんだろ? その前にお前と久々に飲みたいなと思ってね。

 俺の方? 相変わらずだよ。お前の方はどうだ? 


 当時お前、結婚を約束した人がいるって言ってただろ?

 もしかしてもう結婚したのかなと思ってさ。俺も婚約したから聞いてるんじゃないけど。


 ん? そうか。俺の方は彼女のことを変わらず愛してるよ。何があっても彼女を失いたくないからね。俺は一生彼女のことを守るつもりだよ」


 裕星は旧友に確認しておきたいことがあって続けた。


「今、時間は大丈夫か? 実は、お前と久しぶりに話がしたいなと思って。これからどっかで会えないかな?」







 結海は男が電話を終えるのを待っていた。

 やっと話が終わったのか、男はケータイを切り、ポケットにしまって歩き出した。結海は急いで背後から近づいていった。


 男の背中を追いかけて、もう少しで背の高いその男の肩に手を触れようとしたときだった。


「おっと、危ない!」

 トレーにグラスワインを載せたホールスタッフと出会い頭にぶつかり、結海はグラスの中の酒を頭から浴びてしまった。


「すみません、すみません!」

 スタッフは何度も謝りながらナフキンで結海の服のシミを拭こうとしているが、そんな騒ぎにも気づかず去って行く男の背中を見て、結海は焦ってスタッフの手を払いのけた。

「大丈夫です。本当に結構ですから」


 しかし、目を離した隙に男の姿はもう見えなくなっていた。

 結海が急いで朝倉のいるカウンターに行くと、そこでは朝倉が一人で飲んでいるだけだった。




「朝倉さん!」

 結海が思い余って声を掛けると、朝倉は驚いて振り向いた。

「え? あなた、この間の……」


「結海です。あの、さっき隣にいらした男の人は?」



「え? あら、見てたのね? ここだけの話、実は私の新しい彼なの」


「か、彼、なんですか? でも、今どちらに?」



「ああ、なんか昔の友達と大切な仕事の話があるとかで帰ったわ。もうすぐロックフェスティバルだから、彼、何かと忙しいのよ」




「ロックフェスティバルって……まさかバンドをされてるの?」



「あ、つい口が滑っちゃったわね。でも、あなたならいいわ。ほら、私ワイドショーで騒がれてるけど、今は何も言えないのよ。双方の事務所がノーコメントで通しましょうってことになってるから。それに彼にはまだ彼女がいるし、複雑なのよ。そのせいで、京都では、人目を忍んで夜が更けてから夜明け前まで逢うのがやっとだったわ」




 ──京都では夜中に会っていたというの……?

「 彼女がいるって……まさか婚約者のことじゃないですよね?」



「――どうしてそんなことまで知ってるの? 情報早いわね、今の子って」



「そんなの、良くないわ! 婚約者の女性の気持ちはどうなるんですか?」

 結海は震える手を胸に当てながら言った。





「彼ね、彼女とはたぶん予定通り結婚すると思う。仕方ないのよ。――だって、その彼女に対して彼はかなりの恩があるからね。付き合いも長いし、無下には出来ないでしょう?

 でも、子供が生まれたら完全に別居して私の元に来てくれるはずよ」



「そんな……。どうして彼は彼女さんと結婚して子供まで生まれても貴女とずっと付き合うと思うんですか? そんな理不尽なことってないわ」



「結海さんて純粋培養じゅんすいばいようなのね。子供はその彼女が望んでることなの。生みたいって。まだ私たちの関係にも気づいていないみたいだし、きっとあなたみたいな純粋な娘なのね。


 でも、私はこの関係を続けていくつもりよ。不倫と言われようが、私たちの方が愛し合ってるのは確かだもの。だから、もし彼女との間に子供が生まれても、彼の愛は私だけのものだと思うわ。

 そのことで、私にはわだかまりも何もないわ。私がそうするように勧めたことだからね」



「勧めたって、彼が相手の女性と結婚して子供を産むことをですか?」


「そうよ。それが彼女への慰謝料だと思えば大したことはないわ」


 淡々と恐ろしいことを言い切る朝倉に、結海は涙が溢れてきた。





「―—生まれた子供の気持ちはどうなるの? 自分のお父さんが他の女性を好きで、お母さんには愛情がないとしたら。それに、それに、その子だって生まれて一度も父親に愛されることがなかったら……。それを考えたことがあるんですか?」





「何もそこまで感情移入しなくても。まさか、あなたのお家の事情と似てるのかしら?」



 結海は震えながら何も答えずうつむいている。



「そうだとしても、私は仕方ないと思ってる。本当の愛というのはね、どんなことをしてでも奪うものなのよ。そうしないと得られないから。だから私は相手の事情なんて考えてる暇はないの。分かる? きっと貴女みたいなお子さまには一生分からないと思うけど」



「わかりません! わかりたくありません! だけど、これだけは言わせて! 彼に言ってください。婚約者さんと結婚して子供を作らないでって。不幸になる子供ならいない方がいいから」




「結海さん? 私たちのことに口出しするのはやめて。それに、ここにどうやってあなたみたいな子が入れたの? あなたが来れるような場所じゃないでしょ? さあ、お子ちゃまはお家にお帰りなさいな。私たちは大人の恋愛をしてるんだから」


 朝倉は結海の顔を見ずにグラスをグイと一気に飲み干すと、「マスター、おかわり」とグラスをガチャッとテーブルに置いたのだった。



 その声を背中で聞いて、結海は足早に出口に向かっていた。心の底からの失望感にさいなまれながら。

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