幸せの種

のらしろ

幸せの種


 国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。


 これは有名な小説『雪国』の冒頭の一節である。

 しかし私はこの作品を読んだことがない。

 なので、この作品がこの後どういう展開を迎え、その後どういう結末を迎えるかに至っては全く知らない。


 しかし、私はこの作品の、この一節だけは、なぜかしら良く覚えている。

 いや、ただ単に覚えているというだけでなく、耳に残って頭から離れない。

 しかも、この冒頭の一節を正確に覚えているのではなく、「長い長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。」という風にやや違ったように覚えているのだ。


 なぜ私がこの作品の、しかも今のように誤った形で知ったのかは覚えていない。

 多分、テレビか他の小説で引用されたのを読んで覚えたのだろう。

 しかし、初めてこの一節を見た時、聞いたときに、私は非常に衝撃を受けたのはいまだに良く覚えている。  


 この冒頭の一節が、その時に何か人生における大切なことを言わんとしているような気がしたのだ。

 そうこの部分は何かしらの比喩的表現で、人生の真理を言わんとしている、その時にはそのように感じた。


 何をどのように比喩しているかというと、最初の長いトンネルは生きていく上での苦悩などのネガティブな状況を示していると今でも思っている。


 トンネルから受けるイメージは、決して明るいものじゃない。

 昨今、高速道路などにあるトンネルは非常に明るいものがあるが、この小説にある時代ではすべてのトンネルの中は暗くなっている。


 そこから受ける印象は、孤独や苦悩もしくはその両方の比喩だと思っていた。

 ましてやトンネルには出口があり、長いトンネルからはなかなか見えない出口が、やっと見えたそれこそ、そこだけ明るいもので、そこには苦悩の人生における希望のようなものがあるように思えた。


 長い長い苦悩の先には一筋の希望が見えており、そこに向かってあがいて生きていかなければならないと言うことを、その最初の長いトンネルという表現で表しているのだ。

 少なくとも私はそのように理解していた。

 さらに悪いことに私が覚えていた表現には長いという表現が重ねてあり、人生における苦悩というものは非常に長く続くというような錯覚に陥っていたのも覚えている。


 それだけでなく、トンネルの先にある雪国もまた曲者だ。

 私がただひねくれているだけかもしれないが、この雪国という表現もまた先ほどトンネルの中から見た希望とは程遠いものだと思っている。


 雪国のイメージとは何だろう。

 スキーなどのウインタースポーツをたしなむ人たちにとっては、決してネガティブなものじゃないだろうが、雪国に暮らす人たちにとっては、もろ手を挙げて歓迎するものじゃないものだそうだ。


 昨今、日本においてはというより地球全体暖かくなってきているので、昔ほどじゃないにしても、こと豪雪地帯に暮らす人たちにとっては雪の本格的なシーズンでは歓迎するものじゃないだろう。

 それがひと昔前の事ともなればそれこそ命にもかかわってくることになる。


  地元の人たちは、時折雪の事を『白い悪魔』と呼ぶことがあるそうだ。

 悪魔なんて物騒な呼び方だとは思うが、その前に白いと雪を表す形容詞がついている。

 この白いという形容詞は悪魔の持つイメージから一番遠い存在だと思う。


 おおよそ悪魔のイメージカラーは殆どの人が黒を思い浮かべるだろう。

 その黒と対極にある白色には天使などの良いイメージが浮かぶのが普通だと思うが、こと雪に関してはその色が白いためにこの形容詞が付いたのだろう。


 雪そのものというよりも吹雪などの気象現象では、一つの油断で簡単に人の命すら奪っていくのだ。

 それこそ無慈悲な悪魔のように。

 だからこそ、雪に対してわざわざ白いと形容詞を付けて悪魔と呼んでいるのだろう。


 それだけ雪に対して良いイメージが付いていない証拠だ。

 先の冒頭の一節は総じて、生きていくうえで延々と感じる苦悩を比喩しているのではないかと私は今でも思っている。


 まさしく私の今まで置かれていた状況が、この表現でぴったりなのだ。

 私は学生時代、友達付き合いのうまい方ではなかった。

 いや正直に言うと非常に下手だった。

 それほど酷いいじめには、幸いなことに会うことはなかったが、いつも一人でいた、いわゆるボッチだったのだ。


 そのために常に孤独との戦いだった。

 毎日「明日には良いことがあるのかな」などと考えながら毎日を生きていた。

 ちょうど長いトンネルの中から見た一条の光を求めて出口に向かって進んでいくような気持と似ている。

 

 そんな学生時代もどうにか終え、社会人として会社に就職したら、今度は今までと違う苦悩に今でも悩まされている。 


 さすがに社会人にもなるとボッチは許されなくなる。

 仕事をする上で、どうしても色々な人と協力していかなければならない。

 だからと言って、必ずしも仲良くはならないが、最低限のコミュニケーションは取っていく。

 寂しくは無いかというと、寂しくは感じなくもないが、そういう次元ではなくなっているのに気が付く。


 とにかく忙しく生きていくので必死なために、自分が寂しいとすら考えられなくなっていた。

 今の生活が苦しくは無いかというと、正直苦しい。

 学生時代に感じていたものとは違うが、苦しいことには変わらない。

 今冷静に振り返ってみると、学生時代は静かな苦しみ、現在の生活が激動の苦しみといった感じか。


 学生時代がトンネルに比喩されるような静的な感じの苦しみに対して、現在は雪国における吹雪などのような荒々しい動的な苦しみと言った感じだ。


 先の小説の冒頭に話を戻すと、トンネルには静的な苦悩を感じており、雪国には、その激しく吹き付ける吹雪のようなイメージから来る動的な苦しみを感じていた。

 そんな自分に重ね合わさるので、小説「雪国」の冒頭の一節が頭から離れなかった。


 なぜ今そんなことを思い出したかのように考えているかというと、私はひょんなことから雪国にある寺のとある高僧と話す機会を得て、現在豪雪地帯で知られる十日町郊外のその高僧が住む寺に向かっているのだ。


 小説の冒頭で出てくる国境の長いトンネルも現在では新幹線であっという間に通り過ぎてしまった。

 それも暗いトンネルを感じることもなく、明るい新幹線の車内で暖かなコーヒーを飲みながらだというのだから、ちょっと皮肉すら感じていたのだ。


 小説になぞるのなら、国境の長いトンネルを抜け、越後湯沢の駅に着いた私は、在来線に乗り換えて十日町を目指した。

 まだ昼前だというのに外はどんよりとした雲のため薄暗く、先ほどから降り始めた雪はその降雪を強め、今では吹雪といてもいい状態にまでなってきている。


 私を乗せた列車はその吹雪のために、やや遅れて十日町に着いた。

 ここ十日町は、今では高級絹織物産地として有名であり、また、今年はもう終わってしまったようだが、冬の一番雪の多い時期の2月に雪まつりを開催しており、全国的に有名で、1年を通して観光客が訪れる街でもある。

 たびたびサスペンスドラマでの舞台としても登場しており、ややもするとそちらの方が有名かもしれない。


 しかし、十日町の駅を降りると駅前ロータリーは閑散としていて、誰もいない。

 雪まつりのような一大イベントが終わったばかりだからなのか、それとも、ここは観光地と言うにはあまりに生活感が漂っており、地元の人しか利用しないためなのか、あるいはその両方なのかはわからないが、そこはどこにでもある地方都市と同様にシャッターストリートの様相を示していた。


 唯でさえ小説『雪国』の冒頭で、あまり良いイメージが無い私にとっては、見ている風景が白い悪魔の登場シーンのようにすら見えてしまう。

 もっとも、その白い悪魔ってどんな格好かと言うと全くイメージを持ち合わせていないのだが。

 それこそ昨今流行りのかわいらしいゆるキャラの様ではないだろうが。


 寂しい駅前のロータリーに唯一止まっている一台のタクシーを捕まえ、行き先を伝えた。

 運転手は一瞬どこか分からなそうにしていたのだが、すぐに思い出して「お客さん、観光かね。あの寺にはそれほど見る物も無いがそれでも行くのかな。ここからだと1時間ばかりかかってしまうがいいかね。」


 運転手が言うには、夏だとそれこそ30分ばかりあれば行けるが、この時期には雪のため使えない道も多く、倍の時間がかかるそうだ。


「観光じゃありませんよ。あそこの住職と約束がありましてね」


「それじゃ~、雪の中でも行くしかないか。帰りはどうするね。バスなど無いから、帰りはタクシーを呼ばないと帰れないぞ。良かったら電話くれれば迎えに行くけど時間を見ておいてくれ」


「そうして頂けると助かります」


 そんな会話をしながら運転手から一枚の名刺を頂いた。

 タクシーは、駅前から私を乗せ走り出した。

 街中はまだいいのだが、タクシーが郊外に差し掛かると窓の景色は白一色に染まる。

 凹凸はあるが一面の白だけだ。


 よく言えば幻想的だが、私には先ほど来頭にこびりついた悪魔の登場と言う妄想の為か恐ろしく感じていた。


 話は変わるが、雪国と言われる道を車で走ったことがあるだろうか。

 私は正直これほど雪の積もった道を車で走った経験がなかったので、走行中の車の騒音が非常に小さいので驚いた。

 何でも積もった雪が音を反射させないので雪国では当たり前の現象なのだとか。


 それよりもさらに驚いたのが、小さな音で走っていたタクシーの音を聞いたのか目的の寺の山門でご住職が私の事を待っていらした。

 北海道に比べれば極寒と言われるほどは冷えてはいないがそれでも十分に外は寒い。

 何より雪が吹き込んでくるのでご住職は既に雪まみれだ。


 私はタクシーが止まるとすぐに清算を済ませご住職の元に駆け寄った。

 都会人の浅はかさなのか、履いている靴は革靴で、足元が非常に滑り易く、案の定山門の前で派手に転んでしまった。

 ご住職に心配されながら助けて貰い、そのまま寺の中に案内された。

 寺の中に招き入れられた私は本堂の前を通り過ぎてご住職の私室に案内された。

 部屋の中は十分に温められ、少し冷えた体にはこれだけでもごちそうだ。


 ご住職は微かに聞こえてきたタクシーの音を聞いて山門の前で私の事を待っておられた。

 また、それほど大きな寺でないここでは本堂に通されるものかと思っていたのだが、この時期の本堂は本当に底冷えがする。

 ご住職は毎日の御勤めを本堂でされることなのだが、慣れている自分でもこの時期の本堂は堪えると言っておられた。


 私はご住職のこのさりげない配慮がことのほか嬉しく、心の中のしこりのようなものが解けていくように感じられた。

 ご住職のこのようなふるまいから、またその雰囲気から持ておられる徳のようなものを感じられた。


 もともと持っておられたのか、それとも厳しい修行の末に得たものなのかは分からなかったが、本当に徳を持っておられる方とのお話はそれだけで心地よい。

 今回、私の相談を快く受けて貰えたご住職に心の中で合掌をしながら感謝していた。

 手紙のやり取りで、自分が感じている地獄のような生活について愚痴のような相談を持ち掛けたら寺にご招待下さったのだ。


 部屋の中の小さな炬燵に促されるように座って、お茶を頂いて、私が十分に落ち着いたのを確認した後に、ゆっくりと話を始めた。


「地獄のような環境で生きておられるとか。本当によく頑張っておられるご様子。今まで大変でしたね。ここではあなたの置かれてきた状況は詳しくは今お聞きしませんが、別の質問をさせて貰ってもいいですか」


「え? 私の方がご招待に甘えてここまで来たので、何なりとお聞きください」


「そんなにかしこまらずに。地獄のような生活とかおっしゃっておられましたが、地獄のイメージをどのようにお持ちですか。今の生活の方の地獄でなく、本来の地獄の方のイメージですが」


「地獄ですか。そうですね。今の生活そのものが地獄なんですけれども、ご住職のお聞きしたいことは別の話ですよね。あまりに一般的で、恥ずかしいのですが、私の知っている地獄は、針山や血の池、それに窯茹で地獄のような苦痛や痛みを伴う環境に落とされた亡者がたくさんいる世界でしょか。あ、それから、賽の河原なんて言うのもありましたね。河原でただ石を積み上げさせ完成まじかになると鬼に壊され、また始め方というのを延々とやらされるような精神に来るような苦痛を与えるなんて言うのもありました。正直私のイメージしている地獄なんてこんな感じですが。それが何か」


「安心しました。私の持っているイメージもそれとそれほど変わりません。大方の方の感じている地獄なんてそれほど変わり映えしないのでしょうね。ところで知っておりますか。この地獄という思想ですが、西洋にも同じようなものがあることを」


「西洋ですか」


「はい、私もそれほど西洋に詳しい訳ではありませんが、英語ではHELLと言うそうで、ここでも永遠の罰をそこで受けているそうです。キリストの教義については私は全くの門外漢なので、この地獄をどのように扱っているかは知りませんが、面白いとは思いませんか」


「面白いですか。私には何が面白いか見当もつきませんが」


「これはすみませんでした。私が言いたかったのは、洋の東西を問わず同じような思想が存在することなのです。これは人間が持つ本質的な何かに起因しているのかどうかはわかりませんが、人間の多くが地獄の存在を考えたことがあるということを」


「はあ。私はそこまで他人がどのように感じているかについて考えたことが無くて、ご住職が言われたことがいまいちピンと来ておりません」


「そうですね。この地獄と言う存在が、どちらも死後の世界と考えていることが共通していおりますが、私はそのようには考えておりません。これは仏教で言われていることや、本山の高僧から聞いたことじゃなく私のいわば妄想のようなものですが、お聞きして下さりますか」


「ご住職がそのように言われるのなら是非にでもお聞きしたいと思います」


「最初から説明しますが、仏教の開祖であるお釈迦様は、なんでもご自身では死後の世界について何にもおっしゃっておられなかったというのをご存知でしょうか」


「え?死後の世界をお釈迦様は認めてなかったというのですか。それでは歴史で習ったことですか本願寺などの末法思想はどうなりますか」


「多分、あなたが思っておられる末法思想について誤解されておられるような。この説明は避けますが、これは死後の世界ではなく、お釈迦様の教えが長い時間できちんと伝わらなくなるので、阿弥陀如来様にお祈りをして救われようという思想のはずです。この場合多くの方は阿弥陀様にすがって極楽浄土に移りたいという教えです。しかし、この極楽浄土と言うのは正確には我々の思っている『あの世』とは違うのです。仏教では修行ののちに悟りを開けば行くことのできる世界で、私は、精神世界のことを指していると思っております」


「私には、とても難しくてよくわかりませんが」


「あくまでも私の妄想の範囲としてご理解ください。お釈迦様はこの苦悩のあふれる世界から救われるためにはどうすればいいかを考え、当時ご自身が釈迦族の王子と言う地位も、家族も捨てて厳しい修行に臨みました。その当時の宗教界での厳しいし修行をしても一向に救われなく、菩提樹の下で静かに瞑想しているときにお悟りになられたと聞いております」


「そうなんですか」


「お釈迦様の修行については詳しくは延べませんが、お釈迦様の考えの根底にある部分だけは知ってもらいたいのです」


「根底の部分ですか」


「はい。あなたは『四苦八苦』と言う言葉を聞いたことがありますか」


「四苦八苦ですか。まさしく私の毎日がそれにあたります。四苦八苦しながら生きております」


「そうですね。ご苦労なさっておるのですね。ところで、その語源をご存知でしょうか」


「語源ですか。いや、知りませんが、それが何か」


「それこそお釈迦様のお考えの元にあると私は考えます。これは、仏教用語からきている言葉なので、簡単に説明させてください」


 ここでご住職はお茶を一口たしなみ、一呼吸おいて話をつづけた。


「この四苦八苦の四苦には『生』『老』『病』『死』の4つの事を言い、まさに生きること、老いること、病になること、死ぬことの4つの苦しみを言います。次に来る八苦はこの4つにさらに別の苦しみを4つ加えて八苦と言い、まさにこの世に生きとし生けるものすべてが、この世で苦しみを感じながら生きているという考えで、その苦しみからいかに脱することができるかを説いたのが仏教の始まりだと思っております」


「仏教の始まりが、この人生の苦しみから救われるためにですか」


「生きる苦しみと言ってもいいかもしれませんが、四苦八苦には肉体的苦痛や精神的苦悩を含み、簡単に言うのならば、ありとあらゆる苦痛や苦悩と言ったところでしょうか。私の友人の一人で口の悪い奴が言うには、西洋のパンドラと言うやつのせいだと言っていました。彼が言うには『パンドラという奴が開けてはいけない箱を開けてしまったのが原因なのだから西洋人がどうにかすればいい』などと乱暴なことをことあるたびに私に言ってきましたが、さすがにそれでは誰も救われません。それに苦悩や苦痛の原因がパンドラの箱だけと言うわけじゃないだろうにとも思いますしね。話がそれましたので戻しますが、お釈迦様は、それこそ苦痛に耐え厳しい修行に末に悟りを開かれ、その人生の苦悩や苦痛からの救済方法をお示しになられました。それが仏教だと思います。あ、勘違いしないでくださいね。私はあなたを我々の宗派に勧誘しようとなど考えておりませんから。私たちの考えに共鳴して入信してくださる分には歓迎しますが。それにこの考えはあくまでも私の妄想だということを忘れないでください。それよりも、ここまでで何かお気づきになりませんか」


「え? 何のことやらよくわかりませんが」


「肉体的な苦痛や精神的な苦悩。ありとあらゆる苦痛や苦悩がそこら中にあふれるように存在する世界。今までのお話でもたびたび出てきましたがお気づきになりませんか」


「え?何のことでしょうか」


「最初に地獄のイメージのお話をしたのをお忘れですか」


「あ、そういえばそんな話をしていましたね。そうですね、地獄の事を言っているようにも聞こえますね」


「先にも申しましたように、これはあくまでも私の妄想ですが、ひょっとしてお釈迦様のいた時代でも今の時代でも変わらずに、この世は地獄そのものではないでしょうか。私にはそう思えてしょうがありません」


「この世が地獄ですか。確かに地獄のような生活をしていたと言いましたが」


「ですから、地獄のような生活ではなく、地獄で生きておられるのです」


「地獄での生活ですか。それではこの先には生きていても希望がないと」


「いえ、そうではありません。お釈迦さまもその解決方法をお示しになられました。もっとも、全員ができる訳じゃありませんが、解決方法があるということなのです。お釈迦様はその方法の一つをお示しになられたと思っております」


「では、私にも修行しろと」


「いえ、誰でも修行で悟りを開けるわけじゃありません。古今東西、本当に多くの方が修行しながらお考えになりました。その中の一つに先に上がった末法思想があります。阿弥陀様にひたすらお祈りをして阿弥陀様に救っていただくという思想ですが、私は別のことを考えております」


「別のことをですか」


「まずは、現状をありのまま認めてしまうことです。どんなにあがいたって現状だけは変えようがありません。私の知り合いの一人が言うのに、とにかく現状を認めるだけでも気持ちが楽になるというのです。何かまずいことがあっても、既に発生したことなら、良い悪いを考える前に、まずは現状そのものを素直に認めてしまえば、心待ちが非常に楽になるとか。私もそう思います。現状苦しい立場にいるのならその苦しい立場そのものを冷静になって全部認めたうえで、そこから何ができるかを考える方がどれだけ建設的か」


「でも、現状を認めるだけで苦しみはなくなりませんよ」


「確かのそうですね。先に申しましたようにこの世は苦しみに満ち溢れております。どんなに逃げようとしても早々に逃げられるものじゃありません。しかし、逃げよう逃げようとあがくことで必要以上に苦しみが襲ってくるように思われます。それよりも視点を変えてみませんか」


「視点を変える?」


「はい、苦しみはとりあえずそのままで、それ以外にもあるということを理解してみたらどうでしょうか」


「それ以外ですか」


「どんなに些細なことでもいいのです。嬉しかったり、気持ちよかったりしたことはありませんでしたか。それこそ、東京からここに来るまでの間に、ちょっとだけでも良いことはありませんでしたか」


「そういわれましてもねえ」


「例えば、ここに来るまでに利用した新幹線の隣に美人が座っていたとか、おっと、これはあまりに煩悩が過ぎますね。それ以外でしたら、途中で買った駅弁がおいしかった、もしくは買った駅弁に自分の好物が入っていたとかでもいいです」


「え?そんなことでいいのですか」


「はい、何でもいいのです。割と日常生活の中でも、こういったちょっとした幸せというのですか、気持ちが楽になること、気分が良くなることなど結構あることに気づかされます。そんなことと言いましたが、そんなことでもほとんどの方が忘れがち、見落としがちな事でもあるのです」


「確かに苦しみばかりに気が取られていたことは否定しませんが」


「私は、こんなちょっとした良いことを『幸せの種』と呼んでいます」


「幸せの種ですか」


「はい、種ですから本当に小さなものですがこの種を自分の中で大切に育てていくことで大きくなると。また、小さなものですから見落としがちですが、意識することで割とたくさん見つけられるものだと思っております」


「でも、ご住職。それでは確かに幸せな部分が大きくなるかもしれませんが、最初からの苦しみは消えないような気がするのですが」


「苦しみは消えないでしょうね。でも、苦しみにも種類が在るように思います。知っておりますか。何の著書だったか忘れましたが、その人は心配事と言っておりましたが、心配事の8割は現実には起こらない。また実際に起こる2割のうちのさらに8割はそれほど大したことにはならないといったようなことを言っていたと記憶しております。記憶が定かじゃないので、これがその通りなにかは分かりませんが、まあ、ほとんどの場合が取り越し苦労となるものだと言ってるのだと私は今でも思っております。これは心配事を言っておりましたが、今ここで話題にしている苦悩や苦痛についても同じような物じゃないかと。苦しみは感じている自分がさらに悪いことを考え自分を苦しめているのではないかと思っております。少し落ち着けば、確かに苦しい状況ではあるが、以前感じていたほどの物じゃないなってことがあるかもしれませんね」


「そんなものですかね。でもその苦しみが多ければ同じでは」


「そうですね。確かに、そういった面はあるでしょう。苦しみばかりでは誰もが辛くなりますね。ですがそれは、私たちは地獄で生かされていると考えたらどうでしょうか。地獄に居るのですから苦しいのは当たり前なのです。ですが、人の心は簡単に変わりますから。今幸せを感じていたかと思ったらすぐに苦しみに襲われるなんてことも割とある、しかし、その逆もまた然り。ならば少しばかりの工夫をしてみませんか」


「工夫ですか」


 ご住職はここでお茶を一口飲み、一息入れておもむろに話を始めた。


「ここで話は変わりますが、六道をご存知でしょうか」


「六道ですか。さすがにこの言葉は初めて聞きました」


「多くの方はそうでしょうね。六道、または六道輪廻何て言い方もしますが、転生輪廻または輪廻と言う言葉は割と頻繁に聞く言葉ですが、その輪廻に関する思想の一つとお考え下さい。簡単に言ってしまえば天国から地獄までの間に4つの世界があり、それに天国と地獄を合わせて6つの世界を生まれ変わるというやつです。多くの場合、今の行いが来世の運命を決めるといった考えがあり、善行を沢山積めば天道ですか、いわば極楽のようなところに生まれ変われ、逆に、悪行をすればするほど、地獄に近づく世界に落とされるという考えです。しかし、これも別の見方があるそうです。これは私が学生時代の恩師から聞いた話ですが、この六道が示す世界観は、そのまま今生きている私たちが感じる自分の感情その物で、その感情はいくらでも天国から地獄までの世界の間を回りまわると言った話でした」


「え、ちょっと難しくてよくわからないのですか」


「私も学生時代にはあまりよく理解していなかったのですが、先のこの世は地獄と言う考えに行きついた時に私なりの理解ができました。」


 ここでご住職は、私が落ち着くのを待って静かに話をつづけてくれました。


「この六道ですか『天道』、『人間道』、『修羅道』、『畜生道』、『餓鬼道』、『地獄道』の6つを言い、先の極楽のような世界を天道と言います。地獄は説明の必要がありませんね。転生輪廻の多くの考えはそれぞれの世界に生まれ変わるというもので、より高次元になるように功徳を積まなければならないというものなんです。末法思想でも出ましたが、阿弥陀如来様におすがりして唱えることなどこの功徳を積む行為とされております」


「でもご住職は、別の見方もできると」


「はい、これは私の考えでなく高校時代の恩師の受け売りなのですが、この六道は人の感情その物と考えることができると。輪廻は感情が変わることだと言っておりました。もう少し砕けた言い方をしますと、気分が非常に良い時には誰にでも優しくなれるように感情は天道にあると。色々と悩みが多く苦しんでいる時は人間道、怒りが収まらくどうしようもない時は修羅道、社畜の言葉が最近流行の様ですが、それこそ馬車馬のように働かされ心身ともに疲れている時の感情を畜生道、餓鬼道は空腹などを表す言葉ですが、これをどんなに持っていても満足できない、自分の所有欲が抑えられない時の感情、最後は地獄ですね。こうしてみると、どの感情も誰でも持ち合わせる感情ですが、今の自分の感情はどこにあるかかが問題なのです。本来お釈迦様のように修行により悟りを開けばこの感情は天道だけにあるのでしょうが、普通の人には無理です。恥ずかしい話ですが長く修行をしてきた私ですら悟りは開けておりません。言ってみれば、私の感情も修羅や餓鬼、地獄もあると言う事です」


「ご住職でもそうなのですか」


「恥ずかしい話ですが、私もまだまだ未熟な人間ですから。でも、そんな私は生きるヒントを見つけてからは本当に楽にはなりましたよ」


「生きるヒントですか」


「それが、先ほどの話に出てきました『幸せの種』なのです。この幸せの種を一つでも多く見つけ、一つでも多く大切に育てていくようにすれば、それだけ自分の心の持ちようは天道にいる時間が長くなります。言うならばその間は苦しみから解放されるわけです」


「その間は苦しまない」


「まあ、見方によってはごまかしでしかないかもしれませんが、それでもできるだけ苦しまない方が人生を幸せに過ごせますからね。私はそのように考えております。それに、天道にはずっと留まってもいられませんしね。ある意味ずっと留まっていたいとも思いません」


「え、それはどういう事なのでしょう」


「先ほどは地獄のイメージをお聞きしましたが、今度は天道いやご地獄の反対の極楽、天国でも構いませんがどのようなところだと思いますか」


「天国ですか。天国だと洋風で天使が舞い、きれいな草原、この場合花畑かな。そんなところで静かに幸せを感じながら過ごしているような。極楽も同じか。花畑が蓮の花の咲く傍で仏様がほほ笑んでいるそばで幸せに暮らしているような場所ですか」


「私のイメージもそんなところですかね。でもちょっと考えてからお答えしてほしいのですが、ずっとそんな生活をした場合、本当に楽しいですかね。退屈しませんか」


「あ!」


「私は、その時に考えました。確かに素晴らしい物でしょうが、ずっとは良いかなと。私は人間ができていないのでしょうか、私の場合は絶対に退屈しそうで、何度でも行きたいとは思いますが、ずっとそこに留まるのは勘弁してほしいかなとは思います」


「そうですね。私もそうです」


「少し前に読んだ本の中にうまい事を言っておられたコンサルタントの方がおりました。彼が言うには極楽だけでは生きていけないそうです。なにせこの極楽に続く言葉はこの日本では往生しかないそうなのです。この『往生』とは、お葬式なので聞かれるように死ぬことを意味します。つまり極楽だけでは死ぬことになるそうです。色々と変化があって初めて人の営みだとか。その変化には当然苦しみもあるが、その代わりに幸せもあります。幸せだけでは、この幸せを人は感じなくなるみたいですね。人と言うのは本当に業が深い生き物なんですね。それだけに人生もまた深みが出てくるのかもしれません。先にも話しましたが、どうせ地獄での生活だと思えば、少しでも幸せを感じるだけでも儲け物だと考え軽い気持ちで試してはいかがでしょうか」


「苦しみも人生の深みになるのですか」


「死んでしまっては元も子もありませんが、まずはそのままを受け入れてみてはいかがでしょうか。私の経験から申しますと、それだけでだいぶ心の持ちようが楽になります。余裕が出てくれば、わずかの時間でもいいのですから幸せの種を探してみてはいかがでしょうか。少なくとも今よりは悪くはならないと思いますよ。どうせ地獄での生活ですし、苦しみは無くなりませんしね」


「地獄の生活をありのまま受け入れることで楽になる」


 この時の私の中で何か始めるものを感じた。

 今までとは違った感情だ。

 苦しくとも、それが当たり前だ。

 そのことで悩むことはない。

 別に苦しくたってそれでいい。

 そんな考えができるようになってきた。


「何だか、ここに来た時より明るくなった感じがしますね。今タクシーを呼びましたから時期に来るでしょう」


 だいぶ時間を取ってしまったようだ。

 しかし、ご住職の云われるようにここに来る時までには考えられなかったようなことが考えられるようになってきた。

 何より自分だけでなく、人は誰でも苦しむと言う事が分かっただけでどれだけ心が楽になったことか。

 しかも、それも少なくともお釈迦様の生きておられた時代までさかのぼれているというのだ。


 これはもう人間の持つ本質のようなものじゃないか。

 何だか今まで悩んでいたことがばからしくなってきた。

 具体的な苦労や悩みは何一つ変わっていないのだが、それでも明日からはもう少し前向きに物を考えられるような気がする。


 私は長らくお時間を頂いたご住職にお礼を述べ山門のところまでやってきた。

 すでに来る時にはあれほど降っていた雪は止んで、雲の合間から青空も見えてくる。


「きれいだ」 


 雲の合間からさす日の光が何か奇跡の光のように思えて思わず独り言をこぼしてしまった。

 あ、これがご住職の言っておられた『幸せの種』だと言う事が、私にもはっきりと理解できた。

 同じ景色なのに、ただ見ているだけで心の中から何やら暖かな物がこみあげてくる。


 ここに来る時に乗ってきたタクシーの運転手が笑顔で私を迎えてくれる。 


 昨日までの私と状況は何ら変わらないのだが、明らかに明日から私は変わることができる。 


 ここに来るまでは考えられないくらい穏やかな気分で私は東京に帰っていった。

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