現れたのは

 メグには扉を開けた人物を見る勇気はなかった。咄嗟に両手で頭を覆い、扉に背を向けてしゃがみこんだ。自分の身に何が起こるのか考えたくなかった。


 暫しの沈黙の後、パキッと小枝の折れる音がして誰かが入って来たことがわかった。わずか数メートルの距離からこちらを窺っている気配がする。メグは息を殺した。もう気を失いそうだ。


「メグ君……かい?」


 聞き覚えのある声がして、メグは恐る恐る振り向いた。灯りのない小屋の中は既に薄暗くよく見えないが、この声と影は……


「課長?」


「ああ、やっぱりメグ君だ」


「課長!」


 遠山はふくよかな体を揺らしながら駆け寄ると、メグの両肩をがっしりと掴んだ。その瞳には緊張と安堵が入り混じっている。


「無事だったか。良かった。メグ君が消えたと聞いて肝を冷したよ。大丈夫? どこも痛いところはないかい?」


「かちょお〜っ! うわ〜ん、怖かったぁぁぁぁ!」


 メグは幼女のように声を上げて泣いた。それは遠山がたじろぐ程の激しい泣き方だった。


「大丈夫、もう大丈夫だよ。僕がついてる、僕がメグ君を守るから、安心して」


 遠山は優しくメグの背中をさすった。程なくメグは落ち着きを取り戻し、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を遠山に向けた。


「ひっく、ありがとうございます。ひっく、もう大丈夫です」


「そうか、良かった。ここは危険だ。ひとまず僕の車に移動しよう。立てるかい?」


 遠山はメグの腕を掴むとゆっくりと立たせた。少しふらついたメグだったが、遠山がいてくれる安心感は絶大だった。ふたりはそのまま外へ出た。


 小屋の前は広々とした空き地で、赤茶けた広場に木々の影が長く長く伸びていた。丸太が山積みにされているところを見ると林業関係の作業場か何かなのだろう。


「あっ」


 メグは自分がいた小屋を振り返った。


「どうしたんだい?」


 遠山が歩みを止めた。


「さっきまで見えない壁に閉じ込められてたんです」


「見えない壁?」


「ええでも、いつの間に……」


 首を傾げつつも、メグは遠山の車の助手席に落ち着いた。心地よいシートが疲れた体を包み込み、ようやくちゃんと息ができる気がした。


「これを飲むといい」


 そう言って遠山が湯気の立つ紙コップを差し出した。仄かに甘い紅茶の香りがする。メグは自分がとても喉が乾いていたことを思い出した。しかし、メグの脳裏に老婆のコーラが蘇り受け取ることが憚られた。


「大丈夫、これには何も入ってないよ」


 遠山の優しい笑顔に促され、メグはコップを受け取った。両手で包み込みゆっくりと口に含むと、カチカチに固まった体がほぐれていくのがわかった。


「美味しい」


「でしょう? 遠山家秘伝のブレンドティーだからね。それを飲み終えたら山を下りよう。今日は疲れただろうから、詳しい話は明日にしてこのまま家まで送っていくよ」


 メグはこくりと頷くと、シートに深く体を沈めた。


 言葉通り、遠山はあれこれ詮索することなくメグを家に送り届けた。礼を言って車を降り玄関のノブに触れた途端、メグは足の力が抜けてしまってその場にしゃがみこんだ。今夜は父も母も帰りが遅くなると言っていた。こんなややこしい状況を説明しないで済むことにホッとしながら這うように家に入った。


「メグ! 大丈夫か?」


 部屋着に着替えて間もなく、不意にゴン太が現れた。ひどく慌てた様子で、ベッドに横たわるメグの目と鼻の先で声を荒げた。


「いったいどこにおったんや。何で連絡せえへんかった。わしらがどれだけ捜した思うてんねん!」


 メグはむくりと起き上がると、目の前のゴン太を思い切り突き飛ばした。ゴン太は空中で二回転すると襖のギリギリ手前で止まり、尚もメグを睨みつけた。


「気を失ってたんだから連絡なんてできるわけないじゃない! そっちこそ何してたのよ! 変なカラスに脅されて、どんだけ怖い思いしたと思ってるの! バディなら私の居場所くらいわかってもいいでしょうに、この役立たず! 課長が助けてくれなかったらあたしは、あたしは……」


 メグはまたしても溢れ出した涙でそれ以上何も言えなくなってしまった。目尻がヒリヒリと痛む。泣くのはもう限界だ。


「そないに元気なら安心や」


 そう言うと、それまで浮いていたゴン太が空気が抜けるように落ちて床に突っ伏した。メグもまた振り上げた手を下ろしてベッドに座り直した。言葉は悪くても、ゴン太が掛け値なしに心配してくれていることがひしひしと伝わってきたからだ。


 暫しの沈黙を破ったのはメグだ。メグにはどうしても納得のいかないことがあった。


「ねえ、ゴン太。どうして私の居場所がわからなかったの? いつもどこにいたってすぐに見つけてくれるじゃない?」


 ゴン太はやっと体を起こすと、憔悴し切った顔をメグに向けた。


「わしはメグがたとえ100キロ先にいても見つけることができる。例えて言うならGPSのようなもんや。その信号が今日は完全に消えとった。ほんまはどこにおったんや」


「バスの停留所から川を渡って反対側の山の中腹の小屋」


「なんや、そない近くにおったんか」


 メグは琴音と別れてからの経緯を順を追って説明した。ゴン太はいつもと違って茶々も入れずに静かに相槌を打った。


「ん? 遠山が助けに来たんは何時頃や?」


「多分五時半は過ぎてたと思う。課長が熱い紅茶をくれて生き返った気分になったよ」


「おまえ、毒入りコーラの後でよう飲めたな」


「だって課長だよ? 何も入ってないって言ってたし」


「毒入れた奴が自分から『毒入りです』って言うかいな」


「だから課長はそんなことしないってば」


「まあ、ええわ。ところで、遠山はどうやってメグの居場所を知った言うてた?」


「う〜ん、何も言ってなかったからわからないけど、部下を思う心が起こした奇跡かもしれないね」


「そんな訳あるかい」


 ようやく笑顔になったメグに愛想笑いを返すと、ゴン太は難しい顔になりそれきり黙ってしまった。あまりに長い沈黙に耐え切れず、メグはいつの間にか眠りについた。

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