かつてない恐怖

 ぶるっと身震いした自分に驚いてメグは目を覚ました。ぼやけた視界に広がるのは埃っぽい木の床だ。


 どこ?


 考えようとしたが、頭がぼうっとして目の奥が痛む。体が鉛のように重い。メグは腕を支えにやっとの思いで体を起こし背後の壁にもたれた。目を閉じゆっくりと深い呼吸を繰り返す。すると少しずつ頭が働きだした。


 コーラを飲んで、急に眠くなって……あたし気を失ったんだ!


 メグは慎重に辺りを見回した。メグがいるのは古びた木の小屋の中のようだ。右手には長いこと磨いてなさそうなガラス窓があり、少し傾いた太陽が覗いている。その左、メグの正面の壁には扉があり、更に左の壁には棚がしつらえてあってヘルメットや段ボールやロープが置かれ、その下には大きな木箱がいくつも積んである。十畳程のこの小屋は人が住むには粗末すぎる。恐らくは山小屋のようなところだろうとメグは思った。


 でも、なんで? まさか……監禁!


 やっとまともに働き始めた脳裏に凄惨なニュースや映画の場面が浮かんでは消え、メグの体が震え出した。心臓が突き上げるように脈を打ち始め、涙が勝手に溢れてくる。


 どうしよう。どうしたらいいの。助けて、お母さん! ゴン太!


 叫ぼうとしても、喉が詰まって声にならない。自分の体を強く抱きしめても震えが止まらない。


 私、どうなるんだろう……


 とめどなくあふれる涙を拭いもせずメグはしゃくり上げた。


 今日の私、泣いてばっかりだ。


「泣いてる暇なんてないのよ。これ以上手間を取らせないで」


 メグの脳裏に琴音ことねの言葉が蘇る。この時はまだ助けてくれる人がすぐそばにいた。けれど今はひとりぼっちだ。


 なんであの時疑いもせずにコーラを飲んじゃったんだろう。お婆さんだったから? 目の前で栓を抜いたから? 


「私は誰も信用しない。それが身を守る最善の方法だと思うからよ」


 一条さんの言う通りだ。一条さんならこんなヘマはしない。私ってばほんとバカ。


 メグは思い至った。自覚はなかったが、心のどこかで魔法使いとして生まれた自分は何か特別な存在だと自惚れていたことに。そして、今でこそ役に立たないけれど、それは本領を発揮していないだけでいざとなれば何とかなると勘違いしていたことにも。しかし、現状は魔法使い以前に人としてとんでもなく未熟で情けない存在だということを今まさに嫌というほど思い知らされている。


 足手まといって思われて当然だよね。役に立つどころの話じゃないもん。


「今はね。役に立ちたいと思うなら強くなりなさい」


 強く? どうやって? 何をすればいいの?


 メグは考えた。このまま泣いていてもどうにもならない。最低限命を守る行動をしなければならないと。


 落ち着いて、メグ。落ち着くのよ。できることを探すの。


 メグは両手で涙を拭うと鞄からスマホを取り出した。生憎と電話は圏外だ。助けを呼べないとなると自ら動かなければならない。しかしむやみに外に出るのは危険だ。まずは位置を確認する。地図を見るとこの小屋は展望台がある場所とは川を挟んで反対側の山の中にあって、あのバス停とは林道で繋がっているようだ。ただそこに戻るのは危険を伴う。メグは林道の先を辿った。すると林道はバス停とは反対側の麓の県道と繋がっていて、更にその先に比較的大きな集落があることがわかった。間もなく夕方の五時。暗くなるまであまり時間がない。


 ここを出て集落を目指そう。


 メグは立ち上がった。服に付いたほこりを払い、ぐしゃぐしゃの髪を手櫛で整えて両頬をパンパンと叩いた。


 扉に向かい力強く歩き出した途端、メグは何かに思い切り顔をぶつけた。


「いった〜い! 何よこれ」


 手を伸ばすとそこには見えない壁が立ちはだかっていた。ゴン太が魔法学校の体育館で見せてくれたあの空気の壁と同じだ。その壁がメグを取り囲んでいて外に出られないようになっている。


 だから手足を縛ったりしてなかったのね。魔法ってことは、私をここへ連れてきたのは


 再びメグの足がすくんだ。あの圧倒的な攻撃力を持つ敵に見つかったら終わりだ。メグは震える脚を両手で押さえた。


 弱気になってはダメよ、メグ。ここにいたら危ないし、逃げるなら奴がいない今しかないのよ。何とかこの壁を無くさないと。こんなことならゴン太に魔法の解き方を習っておくんだった。


 メグは知っている限りの呪文を唱えてみたが壁はびくともしなかった。それならばと叩いたり蹴ったりしてみたが、手足が痛むだけだった。


 あ、登ったら超えられるかも?


 メグは天井を仰いだ。透明なので上が塞がっているかどうかはわからない。メグは鞄から粒ガムを取り出すと、天井に向かって投げ上げた。すると天井近くで宙に浮いたままぴたりと止まった。


 ん? どういうこと?


 メグが目を凝らすと、ガムを支える何かが徐々に姿を現し始めた。それがくちばしだと気づいた数秒後にメグをじっと見つめるふたつの瞳が現れ、やがてそれは梁に止まった一羽のカラスとなった。


 漆黒の羽、金色の瞳、かなり大きなカラスだ。少しでも動いたらそのくちばしに射抜かれそうで、メグはその場に立ちすくんだ。


「どう、僕の魔法凄かったでしょ?」


 突然声が降ってきた。カラスからなのか、それとも他の場所からなのかメグにはわからない。しかし、その声はまごうことなき史人ふみひとの声だ。


「史人さん? 史人さんですか?」


「そうだよ、メグちゃん。さっきのショーは楽しんでもらえた?」


「え……」


 まさか、そんな、あれは史人さんの仕業だったってこと?


「まあ、ちょっとからかった程度やけどな」


「……ゴン太?」


 今度はゴン太の声がする。


「メグはほんまどんくさいよって、本気出すまでもないねん」


 どういうこと? ゴン太もいるの?


「どんくさい。確かに、こんな簡単な魔法も解けないんですから、出来損ないの役立たずではあるでしょうね」


 この声は天空たかあきさん! 何これ、いったいどうなってるの?


「こんな小娘にどんな価値があるって言うのかしらね。全く時間のムダとしか思えないわ」


 今度は琴音の声だ。しかし、メグは気づいた。琴音はきついことを言うがこんな物言いはしない。


「からかうのはやめて。あなたはいったい誰?」


「……ふうん、また泣き出すかと思ったのにな」


 今度は全く聞き覚えのない声だ。少し高い、青年か、少年のようにも聞こえる。


「さっきのお前たちの慌てぶりは面白かったなあ。ボスの作戦は最高だぜ」


 ボス? この魔カラスはの使い魔ってこと?


「ボ、ボスって誰よ」


「ふふん、お前に教える義理はない。しっかし、お前は泣くことしかできないんだな。そんな奴でも魔法使いとしてちやほやされて仕事まで保証されて、いいご身分だ」


「冗談じゃない! あんたに何がわかるのよ! あたしだって毎日必死なんだから!」


メグは思わず言い返した。


「必死でそれかよ。ますます無能じゃねえか。何でボスはこんな奴なんか……まあ、いい。そんな強気でいられるのも今のうちさ。ショータイムはもうすぐ終わりだ。結末を楽しみに待つんだな」


 それだけ言うとカラスの姿はふいに消え、メグの目の前に粒ガムがぽとりと落ちて、後には静寂だけが残った。


 メグは急に力が抜けてその場にへたり込んだ。結末を楽しみに待てとはどういう意味なのか。良い結末でないことだけはメグにもわかる。


 どうしよう、どうしたらいいの?


 メグは膝を抱えてむせび泣いた。


 ガチャガチャ


 突然扉の外から大きな音がして、メグは飛び退いた。鎖の擦れるような音だ。誰かが扉を開けようとしているに違いない。


 助けて、ゴン太!


 困ったときはいつもすぐに来てくれるゴン太が、いくら呼んでも姿を見せなかった。


 その間にも乱暴な音は続き、唐突に止んだ。やがてノブが周り、扉が軋む。メグは息を潜め身を固くして『結末』を迎えようとしていた。

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