油断

 展望台には相変わらず人の気配はなかった。もし誰かいたらもっと大変なことになっていただろうとメグは恐ろしくなった。自分の身さえ自分で守れないメグに他人の面倒を見ることなど不可能だ。


 遮るものがないここで攻撃されたら防ぐことは難しい。先程までいた場所を確認する余裕もなく、ふたりは三六〇度警戒しながら展望台を通り抜け、そこから駐車場へと続く階段を下りた。機敏な琴音ことねとは違い及び腰のメグはなかなか前に進めないでいたが、幸いにも車にたどり着くまでの間攻撃が仕掛けられることはなかった。


 ドアを締めると、メグは一気に解放感に包まれて安堵のため息をついた。先程たっぷりと水を飲んだはずなのに既に喉がカラカラだ。


「気を抜いてはだめよ。奴の気配が消えたわけではないわ。私は運転に集中するからメグは外を警戒してちょうだい」


「わかりました」


 メグは助手席の窓にぴったり額をつけて外を見た。車は一車線の坂道をぎりぎりのスピードで下っていく。大きく体を揺さぶられ、時折おでこをぶつけなら、メグはこれからどうなるんろだろうと漠然と考えていた。


「あの、麓に下りたらどうすればいいですか?」


「すぐに天空たかあきが来るからその車で待機してなさい」


「……あの、課長も来てますよね? なぜ課長じゃなくて天空さんなんですか?」


「当たり前のこと聞かないで。天空の方が信用できるからよ。それでも五割程度だけれどね」


「え、たったの五割ですか?」


「私は誰も信用しない。それが身を守る最善の方法だと思うからよ」


「はあ……」


 到底理解できない発想だが、ありとあらゆる面で秀でた琴音ならではの真理なのかもしれないとメグは思った。


「ひとつ聞いていいですか?」


「なに?」


「さっきに襲われた時、一条さんが『強い相手だけど、でも』みたいなこと言ってて、その続きが気になってたんです」


「ああ、それね。あの攻撃、あれはふざけてやってるだけで本気じゃないと思ったのよ」


「え? どういうことですか?」


「ヤツは奇襲をかけてきたわよね。あれ程の力があれば一撃で私たちを倒すことができたはずよ。でもしなかった」


「それはなぜですか?」


「さあ、なぜかしらね」


 琴音はそれきりまた黙ってしまった。


 麓の国道にあるバス停にメグを降ろすと、琴音の運転する車は明らかに法定速度を超えて今来た道を戻っていった。国道といってもほとんど車の通らない川沿いの山道で、バス停前の昭和を感じさせる雑貨屋は開いているのかいないのか入り口のガラス戸が閉まったままだし、曇りガラスの向こうは灯りが点いているかどうかすらわからない。時刻表を見るとバスは数時間に一本で、人の気配が無いのも頷ける。


 とりあえず落ち着こう。


 メグは乾いた喉を潤すために店先の古びた自販機の前に立った。しかしどれも売り切れのランプが点いていて買うことができない。仕方なくペンキの剥げたベンチに腰掛けて天空を待つことにした。


 不意に背後でガラス戸がガタガタと音を立てた。振り返るとかなり高齢の老婆が左手にはコーラの瓶、右手には昔ながらの栓抜きを持って立っていた。曲がった腰を幾分か伸ばしてメグを見ると笑顔でコーラを持つ手を掲げた。


「ごめんね、こんなのでいいかい?」


 恐らくは店内からメグの様子を見ていて持ってきてくれたのだろう。メグはその気遣いがとても嬉しくて、にっこり微笑み返した。


「ありがとうございます。おいくらですか?」


 老婆はメグの隣にぺしゃっと座るとコーラの栓を手慣れた様子で抜き、人懐こい笑顔と一緒にメグに差し出した。


「なあに、いいんだよ。その代わり、バスが来るまでこの年寄りの話し相手をしておくれよ」


「喜んで」


「さあ、おあがり」


「いただきます」


 メグはよく冷えたコーラをゴクゴクと音を立てて飲んだ。喉を滑り落ちていく液体が心地いい。やがてそれが十分に胃を満たした頃、メグの手から瓶が滑り落ちて転がった。


 意識を失ったメグをベンチに横たえると老婆はしゃんと立ち上がってメグを見下ろした。その体から白い煙が立ち上り、遠くでカラスが鳴き出した。


「知らない人から物を貰っちゃいけないって、幼稚園で習わなかった?」

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