暗夜に灯火を失う
杉下によって拘束された結斗は暴れることなく、素直に指示に従っていた。
抵抗の意志はないようだ。
彼を他の警官に引き渡した杉下は、座り込む莉佳に声をかける。
怪我はないと言うが、どこか上の空で様子がおかしい。
恋人に命を狙われるなんて、そうあることじゃない。
精神的には相当追い込まれているはずだ、ひどく混乱しているのが見て取れる。
ひとまず莉佳も警察署へ連れて行き、事情聴取を行う。
が、彼女の精神状態を考慮してその日は最低限の取り調べとなった。
聴取を終えた莉佳は、塚田の連絡を受けて迎えに来ていた母・香織に連れ添われ帰っていく。
杉下は小さくなっていく二つの背中を見送ったが、母娘が寄り添うことは最後までなかった。
莉佳は一睡もできないまま朝を迎える。
衝撃が大きすぎて、気持ちの整理が追い付かない。
莉佳の頭の中では、結斗との一連のやり取りが何度も何度も繰り返し再生されていた。
◇
翌日。
莉佳は、前日にあんなことがあったというのにいつも通り登校していた。
ベッドに入っても、目を瞑っても、一向に眠れないので外が明るくなると同時に起きだし、学校へ行く準備を整える。
食欲がないので弁当は作らなかった。
すると当然その分の時間が余る。
普段より三十分程早かったが、とくにやることもないので莉佳はそのまま家を出た。
七時半頃には学校に着いた。
体育館の方からはキュッキュッとシューズが体育館の床を蹴る音と、ボールが弾む音が響く。
バスケ部は今日も朝から汗を流しているようだ。
陽菜詩も参加しているのだろうか。
まだ他の生徒がほとんど登校していない校舎の階段を、莉佳は一歩ずつ登る。
数日前のように大荷物を抱えている訳ではないのに、足取りはあの時よりも重い。
何とか四階分の階段を登り、教室の前に立つ。
しかし、どうしても教室の中へ入ることができない。
莉佳の頭の中で、結斗の最後の言葉がこだまする。
「いたんだよ、協力者が。君のすぐ近くにね」
莉佳はあれからずっと考えていた。
協力者とは誰なのか。
莉佳の情報を結斗に流していた身近な人物とは誰なのか。
そしてある人物にたどり着く。
───三ツ橋まひろ
まひろと陽菜詩とは入学当初から気が合い、いつも三人でお昼を食べていた。
五月の連休前のある昼休み、莉佳は二人に『連休中は常盤台高校の近くにある大きな図書館で勉強する』と教えていた。
そして、それを話したのは彼女たちの他に誰もいない。
ただ、これだけならまひろだけじゃなく陽菜詩にも可能性はある。
しかし莉佳には気になることが一つあった。
特別夏期講習が開かれていた夏休みのある日。
いつものようにまひろと駅まで向かい、途中で結斗と合流した時があった。
そのとき結斗は、莉佳とまひろにコーヒーショップで販売しているクッキーを一つずつ渡した。
莉佳にはお気に入りのシナモンクッキー。
まひろにはチョコチップ入りのクッキー。
あの時結斗は『莉佳からまひろちゃんは甘いものが好きって聞いてたからチョコチップのクッキーにしたんだけど、大丈夫かな?』と言っていた。
しかし、今考えるとまひろが甘いもの好きだという話を結斗にしたのか、記憶が定かではない。
二人の友人の話は何度か話題に上がっていたので言ったような気もするが、いつどのタイミングで、どんな流れでその話になったのか全く思い出せない。
まひろが甘いもの好きだと教えたのは、本当に自分自身なのか……。
もしかすると、莉佳の知らないところでまひろと結斗は繋がっていたんじゃないだろうか……。
そんな最悪の想像が膨らむ。
大体、まひろと結斗は初めて会った時から親しげだった。
莉佳が結斗と待ち合わせをする日は、いつもまひろも駅まで一緒だった。
そして、莉佳が恋愛に関する悩みを話すきっかけを作ってくれていたのは、ほとんどがまひろだった。
莉佳は、誰にでも笑顔で接する裏表のないまひろが好きだ。
だからいろんな話をしてきたし、たくさんの本音を打ち明けてきた。
しかし今は疑いの目しか向けられない。
考えれば考えるほど、まひろ以外の協力者に検討がつかない。
こんな心境のままでは、まひろに会えない。
そう考えると、足の裏に根が張ったように教室への一歩が踏み出せなくなっていた。
鼓動が速くなる。
上手く息ができない。
苦しい。
そんな時、左側から「大丈夫?」と声がした。
冷や汗を流しながら立ち尽くす莉佳を現実に引っ張り戻したのは、飛鳥だった。
「教室、入らないの?」
聞きながら飛鳥は近付いてくる。
それはそうだ。
莉佳は今飛鳥が進もうとする軌道上に立っているのだから。
いつまでも動かないままでいれば、まちがいなくただの邪魔者だ。
しかし、なかなかどうして足が動かない。
呼吸の乱れも整えられない。
さすがにこの状態を見れば、莉佳の様子が普通ではないことくらい誰にでもわかる。
飛鳥は莉佳を支えるようにすぐ隣に立ち、彼女の歩行のサポートをした。
ただし、行き先は教室ではなく保健室。
莉佳は少し前にもこんなことがあったな、と模試の日の事を思い出しながら、飛鳥から差し出された救いの手を掴んだ。
「……ごめん」
「気にしなくていい」
廊下を歩く二人の会話はそれだけだった。
◇
保健室は無人ではあるものの空いている。
机の上には【会議中。緊急時は職員室までお願いします】と書いたボードが置いてあった。
朝の職員会議には少し早い気もするが、早めに行って準備でもしているのだろう。
前回同様、鍵がかかっていないということは入っても問題ないと考えた飛鳥は、莉佳と共に保健室へと足を踏み入れる。
主が不在の保健室で飛鳥と二人。
やはり少し前の光景と重なる。
ただ今回莉佳はベッドには横にならず、保健室に設置されているソファーに腰を掛けた。
向かい合う形で設置されているもう一つのソファーに飛鳥も腰を掛ける。
どうやら一緒に残ってくれるようだ。
これもまた、この前と同じ。
違ったのは、飛鳥の方から声をかけてきたこと。
「どうかしたの? 話したくないならいいけど」
たった一言。
相変わらず感情が読み取りにくい抑揚のない声で、ただそれだけ。
しかし今の莉佳にはその声掛けが何より嬉しかった。
聞き出すでもなく、話さなきゃいけない状況に持って行くでもなく、ただ莉佳に委ねてくれていることがありがたかった。
思えば昨日の昼休み、陽菜詩の話を聞いたあとの莉佳の異変に気付いてくれたのも飛鳥だった。
あの時は飛鳥に迷惑をかけてはいけないと、何も話さなかった。
うまく誤魔化せていたとは微塵も思えないが、飛鳥はそれ以上踏み込んではこなかった。
先に心の扉を閉めたのは莉佳の方だ。
でも今、もう一度飛鳥はその扉をノックしてくれている。
甘えても良いのだろうか……。
莉佳は意を決して口を開く。
「飛鳥さん、私ね……」
それは自分でも驚くほど、か細く弱々しい声だった。
それもそのはず、莉佳は昨日の昼休みからずっと気を張り詰めた状態で、ほとんど声を出していない。
結斗に対しては碌な受け答えができず、警察署での聴取は何を話したかあまり覚えていない。
迎えに来た母とは特に何も話さないまま今日を迎えた。
莉佳は少し掠れた声のまま続けた。
中学の同級生たちが次々と襲われたこと。
その犯人が自分の彼氏だったこと。
昔あったいじめの制裁のために彼氏は事件を起こしていたこと。
時に言葉を詰まらせ、時に涙を流し、ぽつりぽつりと。
飛鳥は口を挟むことなく、たまに相槌を打ちながら聞いていた。
莉佳は、自分がいじめをしていたことも、それが原因で最初から結斗の復讐対象になっていたことも包み隠さず話した。
これまでの悔恨の全てを吐き出すように。
ここ数カ月間、莉佳を悩ませてきた粗方を話し終えたところで打ち明けるのは、今一番の懸念。
それは、協力者がいると言われたこと。
莉佳の身近にいる誰かが結斗へ情報を流していた。
だから彼は合理的に莉佳に近付くことができた。
そしてそれが可能な人物は、三ツ橋まひろだと考えている。
全てを話し終えた莉佳は、言葉にしたことでより現実味を感じたのか顔を
友人だと思っていた人物に、恋人だと思っていた人物に裏切られた莉佳は、失意のどん底にいた。
莉佳の心をへし折り、絶望させたいと思っていたのならば、結斗の言う通り効果は
美結の兄である結斗が、莉佳を目の敵に思うのは分かる。
しかし、まひろは何故結斗に協力したのか……。
「友達だと思ってたのに……。」
思わず漏れた声に反応するように、ようやく飛鳥が相槌以外の言葉を発した。
「ひどいね」
それは、初めて得られた共感だった。
飛鳥の一言で莉佳は救われる思いになる。
分かってくれる人がいる、その事実は人を安心させる。
──ただし、それが本当の共感なのであれば。
莉佳が飛鳥の言葉で安堵したのも束の間。
飛鳥は莉佳の反応を待たず、真意を語る。
「三ツ橋さんは柿崎さんの友達なんでしょ? 友達の事、裏切り者だと思うなんて……柿崎さんはひどいね」
相変わらず飛鳥は表情一つ変えず、しかし確かに莉佳を批判した。
友人を疑うことへの批判。
それはある種の正論なのかもしれない。
ただ、飛鳥が言っているのはそういうことではなかった。
「三ツ橋さんは何も知らない。もちろん東條さんも」
莉佳は息を吞んだ。
飛鳥が何を言っているのか、理解に苦しむ。
昨日から理解が追い付かないことばかり起きている。
飛鳥がこんなことを言い出すなんておかしい。
だって、こんな……。
こんな言い方、まるで……飛鳥が本当の協力者を知っているみたいじゃないか。
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