鷹の前の雀

 莉佳はいつになく緊張していた。

 陽菜詩の何気ない一言で、莉佳は結斗を彼氏として見れなくなっていた。

 まさかね、そんなはず、ない、よね……と、心の中で言い聞かせるので精いっぱい。


 結斗はと言うといつもと変わらない。

 莉佳は改めて、さっきの話は陽菜詩の勘違いか、奇跡的な偶然かであってくれと願う。

 だが、彼に真相を聞けないままアパートに到着してしまった。


 莉佳は結斗にエスコートされるまま、先に部屋へと入る。

 莉佳に続いて結斗も玄関へと入り、その後ろでガチャリと鍵を閉める音が響く。

 昨日も、その前の日も莉佳はこの部屋にいた。

 自宅よりもよっぽど心が穏やかに過ごせる場所だった。

 しかし今はどうだろう。

 全く落ち着かない。足が動かない。これ以上前に進めない。


 玄関を上がったところで立ち止まる莉佳を不思議に思ったのか、結斗が声をかける。


「部屋、入らないの?」

「……」


 莉佳は声が出せなかった。

 すると結斗が、ふっと鼻先で笑い楽しそうに話しかけてきた。


「ねぇ! もう気付いてるんでしょ、俺の事」


 それはいつもの優しい声色とは全く異なるものだった。

 まるで別人。

 軽蔑を含んだような冷たい声。

 莉佳の背筋が凍る。

 やっとの思いで絞りだしたのは今にも消え入りそうな「どう、いうこと……」という一言だった。


 戦慄する莉佳の様子が見たいのか、結斗は莉佳の前に回り込んでくる。

 そして冷めきった視線を莉佳に向け、呆れたような声を発する。


「ホント君って……一から一〇まで説明されないと分かんないんだね」


 怖い。

 目の前に立っている人は誰?

 こんな人知らない。

 そう思うほど別人と化した結斗は乾いた声で続ける。


「まぁいいや、全部説明してあげる。って言っても、この状況的にある程度検討はついてると思うけど! 答え合わせと行こうか!」


 そう言って笑う結斗の笑顔はまるでピエロ。

 ここから彼の独壇場の幕開けとなる。


「君が一番気になってるであろうことから話そうか! 俺が古閑になったのは一年位前で、その前までは鵜鷹。君がいじめてた鵜鷹美結はだよ。そんでアザミは俺! 目的はもうわかってると思うけど、美結のいじめに関わった奴らに罰を与えること」


 莉佳は何も言えない。

 だって結斗はアザミ事件を警戒して、莉佳を自宅まで送ってくれていたのに……。

 信じたくなくて拒絶しようとするが、現実はそれを許さない。


「俺がアザミだって、ヒント出してたつもりなんだけど分かんなかった?」


 意味が分からず何も答えられない莉佳に反して、結斗は風船を子どもに配ろうとする道化師の如く生き生きしている。

 、と言って彼が指さす方に視線を向けると、そこには莉佳がこの部屋にくるから飾ったと言っていた小さなドライフラワーのブーケ。


「君さぁ、中央にある真ん丸の花が可愛いって言ってたけど、あれ何て花か知ってる? っていうんだよ! 君にもう少し教養があればこの部屋に来た時すぐに気付けたのにね! んで! 花言葉にはさ、いい意味だけじゃなく良くないイメージの言葉もあるんだ。アザミの場合はね……」


 結斗はそこで間を置いた。

 聞き漏らすなという意思の表れなのか、莉佳の全神経が注がれる状況を整えてから再開する。


「報復。復讐」


 恐ろしく冷たい声と視線に、莉佳の身体は震えた。

 未だかつてこんなにも明確な軽蔑を莉佳は向けられたことがない。

 そうかと思えば、結斗はまた楽しそうな様子で説明を再開するから恐怖は増す一方だった。


「次に君が知りたいのは、高城と千国の件かな? もちろんあれも俺! アイツらが鍵持ってんの知ってたから、あえてあそこに連れてった。少し懲らしめるつもりだったんだけどね、耐えきれなくなったみたいで飛び降りちゃったってわけ!」


 結斗に悪びれる様子は全くない。


「俺が何でこんな事してるか分かる?」

「……」


 莉佳が答えられずに俯いていると、結斗は下から覗き込み無理やりに視線を合わせて来た。

 そして質問を続ける。

 黙秘は絶対に認めない、とでもいうかのような圧と共に。


「聞こえてるよねぇ? 俺がこんな事してる理由、分かってんでしょ?」

「美結、を、いじめたから……」

「正解!」


 莉佳がやっとの思いで答えたその過去は、彼女がどうしても結斗やまひろ達に隠したいことだった。


「いじめに関わった奴らには痛い目を味わってもらった。いじめをやってた奴らには死ぬほど後悔させてやった。まぁ、一人は実際死んだけど。そんで最後! いじめの首謀者だった君は、この後どうなるでしょうか?」


 美結をいじめると言い出したのも、いじめの指示を出していたのも実は莉佳だった。

 結斗はどういうわけかそこまで調べ上げていた。

 もう言い逃れは出来ない。

 柚鶴と杏奈でもあの仕打ちだ、殺されてもおかしくない!


 自身の身に危険が迫っている事も充分ショックだったが、結斗の次の言葉は莉佳をさらに絶望させた。


「あ! 言っとくけど、君に近付いたのは全部この瞬間ときのためだから!」


 莉佳は言葉を失う。

 莉佳に恋心を覚えさせた彼は、はじめから莉佳への好意など持ち合わせていなかったのだ。

 結斗と出会ってからの四か月が莉佳の中で溢れた。

 鼻の奥がツンと痛む。

 が、結斗の追い打ちは止まらない。


「俺今まで君に一度でも好きって言ったことあったっけ?」


 ……そう言えば言われていない、一度も。

 告白されたときでさえも、好きだとは言われていない。

 はじめての恋愛で完全に舞い上がっていた莉佳の落ち度。

 自分が結斗を想う気持ちと同じくらい、彼も莉佳を想ってくれていると勝手に信じ込んでいた。

 そんなこと、一度も言われていなかったのに。


「俺は君が一番傷つく方法を考えた。君の心をへし折って、絶望させるにはどうしたらいいか考えた。結果、心から信頼させて裏切るのが一番だと思った」


 効果は覿面てきめんかな、と笑う結斗に歯向かう精神力なんてものは、莉佳にはなかった。

 ただただ「ごめんなさい……」と呟くことしかできない。

 しかしこの言葉が結斗の地雷を踏み抜いたらしい。


 先ほどまでの狂気的な怒りとは異なる激情を結斗は見せた。


「ごめんなさい? 何に謝ってんのか知らねぇけど、謝って済むわけねぇだろ! 美結は死んでんだぞ‼」


 鵜鷹美結が死んだ?

 知らなった。


「君さ、高城が死んだときなんて言ったか覚えてる?」

「…………」

「あれ、喋んなくなっちゃった。もう限界? まぁ、いいや。あんとき君『知り合いが亡くなるの、はじめてで驚いた』って言ったんだよ!」


 言われて思い出す。

 確かに言った。

 紛れもなく莉佳が残した言葉だった。


「高城がはじめてじゃない。お前らにいじめられた美結は二年前に自殺した。原因はお前らだよ! 死ぬまで追い込んだ自覚も無しか? お前らが忘れててもなぁ、やられた方は一生忘れない! 一度口にした言葉が、過去の行いが消えることはないんだよ‼」


 その通りだ。

 過去は消えない。

 過ちをなかったことにはできない。


「何の覚悟もない奴らがさぁ! 徒らに人を傷つけて、玩具にして、発散して! 玩具がなくなったらそんな悪戯あそびをしてたことすら忘れて‼ 自分たちだけは何事も無かったかのように普通に暮らしてるっておかしいと思わない? そんな奴らが何も知らずに平穏に生きてていいと思う? いいわけないよねぇ?」


 機関銃による連続射撃で、身体を穴ぼこにされたような気分だった。

 もう限界だ、これ以上聞きたくない。

 でも今私がこんな目に遭っているのは、全て自分が蒔いた種だ。

 因果応報。

 かつて美結に対して放った悪意が、兄の結斗から自分の元に戻って来ただけ。

 もういい、これでいいんだ。


 莉佳は生気を失い、瞳からは光が消えた。

 目を閉じる直前、莉佳は結斗の両手が自分の首へ伸びてきているのを見た。

 殺されると思った。

 そして、彼になら殺されても良いと思った。


 莉佳は最期に図々しくも結斗に初めての我儘を言った。


「早く殺して……」


 莉佳は自身の首に掛かった結斗の両手が、そこを締めあげるのを待った。

 痛いだろうか、苦しいだろうか、首の骨が折れたりするのだろうか。

 不思議と怖さはなく、全てを受け入れていた。

 もう何も感じない。


 ……しかし、いくら待てども結斗の手に力が入ることはなかった。

 それどころか、彼の手は莉佳の首から離れる。

 莉佳が静かに目を開けると、結斗は両の手を上げ立っていた。

 そして「や~めた!」と莉佳の殺害中止を宣言したのである。


 なんで、と尋ねようと莉佳が息を吸ったその時、二人の沈黙を引き裂くように玄関のチャイムが響く。

 さらにドアを叩く音とともに「古閑! いるんだろ! ドアを開けろ‼」という杉下の声が聞こえる。


 警察がドアを隔てたすぐそこに来ているというのに、結斗に焦る様子は皆無で「はいはい、今開けますよ~」と前々から約束していた友人を招き入れるかのような態度を見せている。

 どうやら莉佳への制裁はここで終わりらしい。

 急に膝の力が抜け、莉佳はその場にへたり込んだ。

 が、莉佳は自分の考えの甘さと、鵜鷹結斗のたばかりの綿密さを痛感することとなる。


 結斗は再びピエロのような笑顔を張りつけ、莉佳の前にしゃがみ込んだ。

 そして最後の爆弾を残していった。


「もしかしてこれで終わりだと思ってる?」


 ……これ以上何があるというのだろう。

 隠したかった過去は全て暴かれていて、心から信頼していた初めての恋人は復讐のために気があるフリをしていただけだった。

 心が折れるには充分の報いは向けたはず。

 これ以上何が……。


 ドンドンドン!

 ドンドンドンドン‼


 ドアを叩く音は大きくなる一方だが、結斗は構わず続ける。


「まだ分かってないみたいだからヒント! そもそも俺が君に近付けたのはなんでだと思う? どうやって君があの図書館で勉強してるって知ったと思う?」


 莉佳は、もうやめて、と思った。

 その先はもう言わないで欲しい。


「君が一番苦手な生物を俺がたまたま得意だった、なんてこの状況でも本気であると思ってる?」


 これ以上は本当に聞きたくない、と思った。

 しかし結斗がやめてくれるはずがなかった。

 彼はこの日一番の嬉しそうな声で言う。


「いたんだよ、協力者が。ね」


 ドンドンドン!

 ドンドンドンドン‼


 莉佳の心は完全に折れた。

 結斗は満足したのか、騒がしいドアを平然と開けた。

 杉下を含む数名の大人たちが1Kの室内へなだれ込む。


 九月二十九日、十七時二十一分

 古閑結斗 拘束。

 柿崎莉佳 保護。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る