暗鬼、迫る
二手に分かれて莉佳の保護に奔走した塚田と杉下だったが、結果的にどちらも失敗に終わった。
杉下は常盤台高校近辺を探し回ったが、莉佳を見つけることはできず。
一方で柿崎家へと向かった塚田は少しの間近くで莉佳の帰宅を待ってみたが、一向に帰ってくる気配がない。
十八時過ぎ、母親らしき人物が帰宅したため事情を伝え莉佳の帰宅時間を訪ねた。
するとここで塚田の数時間は無駄だったことが判明する。
「莉佳なら帰ってきませんよ」
塚田は面を食らう。
娘に危険が迫るかもしれないというのに、なぜこの母親はこんなにも落ち着いているのだ?
そして、帰ってこないとはどういうことなのか。
十六歳の莉佳の母親であれば四〇歳前後くらいだろうが、香織は三〇代前半といっても通用するくらいに若々しく、そして女らしかった。
塚田は香織に莉佳の行方を尋ねるが「友達の家に泊めてもらうって言ってたけど、誰のとこかは知りません」という。
結局この日莉佳の保護は叶わず、翌日杉下が登校前の莉佳をもう一度説得することになった。
しかしこの計画もまた、失敗に終わる。
◇
九月二十九日。
莉佳はいつもより一時間程早く登校した。
特進科の生徒は皆大体始業の一時間前を目途に登校してくる。
そのさらに一時間前とはつまり、午前七時前。
バスケ部の朝練がある日、六時半には校舎に入れることを莉佳は以前陽菜詩から聞いていた。
そして今日、朝練があることも確認済みだ。
さすがに午前七時前に登校するとは思わなかったのか、そもそも莉佳への接触は諦めたのか理由は分からないが、莉佳は杉下との遭遇を回避した。
校舎内に入ってしまえば安心だ。
莉佳はそのまま午前の授業を終え、昼休みを迎えた。
そして現在、いつもの三人で机を寄せて昼食を取っている。
登校時間の繰り上げを提案したのは、結斗だった。
莉佳が杉下にもう会いたくないというので、帰りは結斗が裏門へ迎えに行き、そこからこっそり出ることになっている。
莉佳が結斗や陽菜詩たちに隠している過去、それはいじめの加害者だったことである。
八月から続く不審な事件事故に、元同級生が次々と巻き込まれている。
一緒になっていじめをしていた柚鶴と杏奈は、いじめの現場だった屋上から飛び降りた。
私は鵜鷹美結をいじめていた。
次は私だ。
警察が自分を保護しに来たことで信憑性も増した。
目の前で笑顔で昼食を取る友人たち、そして誰より心配してくれている結斗には知られたくない。
だから杉下との接触は避けたいというのが莉佳の考えだった。
あれから事件は起きていない。
莉佳が自宅を離れているのだから当然だ。
アザミが緑山中の近辺をいくら探しても、そこに莉佳はいない。
莉佳が現在結斗のアパートにいることを知っているのは、まひろと陽菜詩のみ。
仮に莉佳を保護するために警察が自宅を訪れたとしても、母は莉佳の行き先を教えることができない。
だって、知らないのだから。
莉佳は心の中で大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせるようにして呟き、不安を取り除こうと努めた。
そうしていると陽菜詩が何かを思い出したらしく「そういえば」と莉佳に質問を投げかける。
「結斗さんって、高校の時陸上やってた?」
答えはイエス。
結斗と初めて会った日。
学生証を受け取った後急いで去っていく結斗の走る姿があまりに綺麗で、強く印象に残っていた莉佳は付き合ってからそのことを話題にあげた。
すると「高校時代陸上をやっていたからそのせいかも」と結斗ははにかみながら答えた。
しかし高校二年の時に怪我が原因で思うように走れなくなり、レギュラーは諦めサポートに回ったと言っていた。
「やってたって言ってた。途中で怪我したから選手として活動したのは高校二年の夏までだったみたいだけど」
「やっぱり! 私、中一の時高校陸上の全国大会にお兄ちゃんが出ることになったから観に行ったんだけど、そのとき結斗さんのこと見てたんだよ!」
陽菜詩が中一ということは、結斗は当時高一。
まだ現役で走っていた頃だ。
全国大会に出場していた事は結斗から聞いていなかったため、莉佳は驚いた。
「うちのお兄ちゃん、その時高三でさ。最後の大会だからってすごい気合い入れて二〇〇メートル走に出たの! でもめちゃくちゃ速い選手がいて、優勝逃しちゃったんだ」
「もしかしてそのめちゃくちゃ速い選手って、結斗君だったりして~」
少し興奮した様子でまひろが予想する。
「正解! 結斗さん高一なのに優勝したんだよ」
「すごーい」
「そうなんだ、知らなかった」
結斗は過去の栄光をひけらかすような人ではないため、莉佳に黙っていたのだろう。
思わぬ形で昔の彼を知れて莉佳は嬉しくなった。
「私あの時、場内アナウンスとか全く聞いてなくて。電光掲示板だけ見てたから結斗って“ゆうと”って読むと思ってたんだよね」
「あ~、たしかに“ゆいと”って読む方がめずらしいかもね~」
「でしょ? だから莉佳から“
「へぇ~、すごい巡り合わせだね~」
どうやら先日初めて結斗と対面した陽菜詩は、三年前に開催された高校陸上全国大会の応援席からフィールドを駆ける結斗の姿を見ていたらしい。
そんな偶然もあるのか、と感心しながら、今日の帰りに結斗に教えてあげようと莉佳は考えていた。
しかし、次の瞬間そんな考えは消え去り、莉佳の頭の中は真っ白になる。
「ホントびっくりしたよ! まさか莉佳の彼氏があの鵜鷹選手だったなんてね!」
莉佳は心臓を握りつぶされるような息苦しさを感じた。
え? 今なんて言ったの?
……鵜鷹選手?
ついさっき思い出した鵜鷹美結の顔が再びよぎる。
いつの間にか昼休みも残り十五分。
三人はまたいつものように机を元の位置に戻し、授業の準備に取り掛かる。
莉佳は手が勝手に動いているだけの状態で、思考は完全に別の所にあった。
どういうこと?
結斗の苗字は古閑だ。学生証だって見た。
鵜鷹なわけない。
きっと、陽菜詩の、記憶違い、か、何かで……。
教室内は快適な温度のはずなのに手先が冷たい。
季節が進み半袖から長袖に戻したシャツの下では変な汗が伝う。
息が苦しい。
が、クラスメイトは皆授業の準備に入り誰も気付かない。
唯一莉佳の異変を察知したのは、またもや飛鳥だった。
相変わらず平坦な声で飛鳥は莉佳を呼ぶ。
「……柿崎さん」
「…………」
「柿崎さん」
「えっ、あ、なに?」
「……大丈夫? 顔色悪いよ」
「あ、いや。何でもない」
「何でもないようには見えないけど」
この不安を聞いて欲しい。
この気持ち悪さを吐き出したい。
そんな思いはあったが、無関係の飛鳥に迷惑をかけるわけにはいかない。
縋りつきたい気持ちを必死で抑えて「ごめんね、大丈夫だから気にしないで」と小さく返した。
まひろや陽菜詩だったら、大丈夫なわけない! と保健室へ連れ出してくれたかもしれない。
しかし飛鳥はこちらが大丈夫といえば、それ以上は踏み込んでこない。
一瞬顔を顰めたが「そう」と言って、彼女はいつものように背筋を伸ばして席に着く。
午後の授業は何も入ってこなかった。
放課後。
まひろには朝の時点で、今日は裏門から出ると告げてあったのでそこまで一緒にきてくれた。
きっとまひろなりに、昨日の事を気にしているのだろう。
莉佳を一人にしないように、と気遣ってのことだった。
莉佳は迷っていた。
正門へ行けば杉下が来ている可能性がある。
「彼氏が、昔いじめてた子の兄かもしれない」と言えば保護してもらえるはずだ。
もしかすると杉下は莉佳より先にその可能性に気付き、昨日声をかけてくれたのかもしれない。
正門へ行こうか……。
しかし、結斗は前に兄弟はいない、一人だと言っていた。
莉佳は結斗が嘘をついているとは思えない。
いや、思いたくないの方が正しいかもしれない。
「奇跡みたいな偶然だけど、それは俺じゃないよ」といつものように優しく笑って、陽菜詩の話を否定して欲しい。
……確かめたい。
結局莉佳は裏門へ回った。
妙に緊張して結斗の顔を直視できない。
二人と別れたまひろは一人正門から校舎をあとにする。
◇
朝の張り込みが空振りに終わった杉下は、帰りこそは絶対に莉佳を保護しなければと身を隠すこともせず、堂々と正門前で待っていた。
しかし現れたのは、まひろ一人。
急を要している杉下はまひろに声をかける。
「君、昨日柿崎さんと一緒にいた子だよね? 今日は一緒じゃないの?」
「えっと……」
鞄の持ち手を握る指に力が入る。
警戒しているのだろう。
本来杉下は、相手を急かしたり無理に話を聞きだすようなことはしない。
相手のペースに合わせて、話しやすい状況を作り出してから対話に持って行くタイプだ。
しかしこの時ばかりは違った。
杉下は柿崎莉佳を今すぐに保護しなくてはならない。
もしかすると、昨日彼女を保護できなかった時点でもう取り返しのつかないことになっているのかもしれない。
何故なら彼女のそばにいた男が──。
──杉下は、前日の塚田との通話を反芻する。
鵜鷹美結の三歳上の兄がアザミである可能性を危惧し、杉下はアザミが緑山中付近に潜伏し莉佳を狙っていると考え捜索しようとした。
「俺、緑山中の方に行って調べてみます。ここからタクシーなら……一時間位で行けるかと」
「分かった、こっちももう少し調べてみる」
ここまでは良かった。
しかし次の塚田の一言で杉下は息をのんだ。
「美結の兄貴の名前だがな、古閑結斗だ」
てっきり兄の姓も鵜鷹だと決めつけていた杉下は肩透かしを食らった。
兄は両親の離婚後、母について行き苗字が変わっていた。
しかし本当の意味で杉下が泡を食ったのは彼の名前の方だ。
塚田からの情報を聞く数分前、杉下と莉佳が話している時に現れた男に対して莉佳は「結斗君なんでここに?」と言った。
確かに言っていた。
杉下はこの男と対面していたのだ。
あの様子を見るに、莉佳は結斗が鵜鷹美結の兄であることに気付いていなかった。
つまり莉佳は知らないうちに復讐者の手中に納まっていたのだ。
今すぐあの二人を離さなければならない。
莉佳を結斗の元に行かせてはならない!
──杉下はまひろにもう一度訴えた。
「頼む、柿崎さんの居場所を知っていたら今すぐ教えて欲しい! 早急に彼女を保護しないと手遅れになるかもしれないんだ!」
杉下の迫力に負けたか、友人を心配する心が勝ったか、いずれにせよまひろはおずおずと答えた。
「ついさっき、裏門から帰りました。彼氏と一緒に」
遅かった! またやられた!
杉下はまひろがいる手前、苛立ちが声に出るのを必死に抑える。
アザミは緑山中近辺で莉佳を探していると思っていた。
しかし実際は誰よりも彼女のそばにいたのだ。恋人として。
クソッ!
莉佳が結斗と一緒にいると分かれば、次にすべき杉下の行動は彼らを見つけ出すこと。
いつまでも後悔と嫌悪に浸っているわけにはいかない。
沸騰しそうな頭を制して杉下はまひろに尋ねた。
「柿崎さんと彼氏が行きそうな場所に心当たりはないかな?」
「……多分、結斗君の家だと……」
「家の場所は知ってる?」
「京橋大学の近くって言ってました。莉佳、学校が近くなって喜んでたから間違いないと思います」
「学校が近くなった?」
「莉佳の自宅、ここから一時間半以上かかるから通学が大変そうなんです。でも今は、結斗君の家から通ってるからすごく楽だって「柿崎さんは彼氏のとこに泊ってるってことかい?」
まひろが言い終わる前に杉下は口を挟んでしまった。
おおよそ考えられる最悪の展開だ。
結斗と杉下は昨日対面している。
警察が莉佳を保護しようとしていることを知ったはずだ。
となると、すぐにでも莉佳に手をかけてもおかしくない。
情報を提供してくれたまひろに礼を伝えた杉下はすぐに塚田に連絡し、京橋大学付近の住宅に古閑結斗と繋がるものがないか調べて欲しいと要請した。
その場を離れる際、まひろは泣きそうな顔で杉下に声をかけて来た。
「あの……。莉佳は、大丈夫でしょうか。莉佳を……守ってあげてください」
心から彼女を心配しているのが伝わる。
これまで冷静さを欠いていた杉下は小さくふっと息を吐き、まひろと視線を合わせた。
「大丈夫。柿崎さんは僕たちがきっと保護するから」
その言葉を聞いたまひろは、よろしくお願いします、と杉下に告げ帰って行った。
まひろの後ろ姿を見送り、杉下は裏門の方へと走り出す。
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