追憶の5月①

 五月三日。

 昼休憩を終え自習スペースに戻ると三席程しか空いておらず、莉佳は入り口から一番近くの空席に座ることにした。

 長テーブルの左半分を使うことになった莉佳は、ここのルールに倣い右半分の使用者に会釈する。


 右側の席では大学生らしき男性が分厚い参考書に視線を落としていたが、莉佳に気付くと顔を上げ会釈を返す。

 僅かに口角を上げる仕草があまりにも自然で、人の良さが伺える。

 艶のある黒髪には軽くパーマがあてられているのか、ふわふわと子犬のように柔らかそうだ。


 集中して課題を進めていると右側の男性が荷物を片付け始めたので、莉佳は自習スペース前方にある壁掛け時計に目をやった。

 十七時を少し過ぎた所で、莉佳が帰るまであと一時間程ある。

 この残り時間なら今進めている課題を終わらせられるかもしれない、と頭の中で簡単な時間配分を考える。

 ある程度固まり気合いを入れ直そうと一伸びしたところで、視界の右側にが映った。


 いつの間にか大学生はいなくなっていたが、かわりに彼が座っていた椅子の下にカードが落ちていた。

 拾ってみるとそれは学生証だった。


 ──京橋大学 生命科学部一年 古閑結斗こが ゆいと──


 顔写真を見て先ほどまでこの椅子に座っていた男性の物だと確信する。

 図書館のスタッフへ届けようかと思ったが、ここで無くしたと気付けなかった場合困るかもしれない。

 多分まだ近くにいるはず。

 そう思い、莉佳は勉強道具をそのままに自習スペースを出て図書館の出入り口へ向かう。


 席に着く時チラっと見えた黒いリュックを目印に古閑結斗を探した。

 館内の人にも目を向けながら歩いたが、それらしきリュックの男性は見つからない。

 次に出入り口へ目をやると、ちょうど探しているリュックの男性が自動ドアを通るところだった。


 声をかけて呼び止めたいが生憎ここは私語厳禁で有名な図書館。

 大声を出したら多くの視線を独占してしまう。

 ここに通えなくなるのは困る、と莉佳は足早に出入り口に向かった。

 外に出たら走って追いかけて学生証を渡そう。


 そう思っていたのだが、自動ドアの向こうはまさかの大雨。

 折りたたみ傘を持ってはいるが、それは自習スペースに置いて来た鞄の中だ。

 結構な本降りの中走って彼の所まで行けば、確実に濡れる。

 それは避けたい。

 莉佳は仕方なく屋根で濡れないギリギリのところまで出て、彼の名を呼んでみることにした。

 雨の音にかき消されないよう、できるだけ大きな声で。


「古閑さん‼」


 知り合いを呼ぶにもこんな大声出したことないな、と思うボリュームで叫ぶと彼は歩みを止めた。

 ただ、図書館から莉佳に呼ばれている事には気づいていないようできょろきょろしている。

 このまま行ってしまわれては追いかけるしかなくなる、と莉佳はもう一度彼を呼ぶ。


「古閑さん!古閑さーん‼」


 知らない少女がなぜか自分の名前を叫んでいる。

 本人からしたら理解しがたい状況ではあるが、かろうじて莉佳の存在に気付いた彼は傘を差しながら小走りで図書館の方へ戻って来た。


「……えっと、何か?」


 明らかに困惑している結斗に、莉佳は学生証を差し出した。


「これ、自習スペースの椅子の下に落ちてました。私隣に座ってた者です」

「あっ! 俺の学生証! あれ⁉ 全然気付かなかった、ありがとう」

「いえ。では」

「あぁ、待って待って! 君、明日もここ来る?」

「……まぁ」

「じゃ、お礼させて!」

「いえ、そんなつもりじゃないので……」

「いやいや! これ無くしてたら俺大学入れなくなるから本当に助かった! 出来れば今すぐお礼したいんだけど、今からゼミの集まりがあってすぐに行かなきゃいけないんだ! だから明日! 絶対お礼させて!」

「え? いや、あの」

「本当にありがとう! それじゃ!」


 そういうと結斗はあっという間に走り去ってしまった。

 彼の勢いに圧倒され何も出来なかった莉佳は、キレイな走り方だなぁ、と感心しながら黙って彼を見送り、自習スペースに戻り残りの課題に取り掛かる。

 先ほどの時間配分の計画は思いっきり狂い、予定の半分しか進められなかった。


 五月四日。

 莉佳はいつも通り九時から自習スペースで課題に取り組んでいた。

 自習スペースは一〇時過ぎから徐々に混みだして座れない時もある。

 逆に開館してから少しの間は席を選びやすい。


 一番後ろの席が空いている場合、莉佳はいつもそこを選ぶ。

 真剣に何かに取り組んでいる人の背中を見ていると、自分ももっと頑張らなくては! と気合いが入るからだ。


 お目当ての席が空いていたその日、壁側を午前の席と定め荷物を広げていく。

 壁側に座るとすぐ横を人が通ることがないので、途中で集中が切れにくい。

 莉佳は昨日、拾った学生証を渡そうと結斗を追いかけたおかげで課題を予定通り進められなかった。

 図書館で間に合わなかった分は家に帰り終わらせたから良いのだが、今日はきちんと予定通り進めたい。


 しかし、朝一で取り組む教科は生物。

 莉佳は生物が一番苦手で、早速躓いていた。

 授業では用語や規則を覚えていればまだついていけていたが、応用ばかりの課題ではそうはいかない。

 根本を理解していなければ正解にはたどり着けず、提示されるグラフや実験内容からどういった結果になるかの考察にかなり時間がかかってしまう。


 今のうちに何とかしておかなければ確実に手遅れになる。

 危機感を感じていた莉佳は、その日の午前は生物に集中しようと決めていた。

 が、志半ばで早くも心が折れそうになる。


(……これ、一人でやるにはもう限界なんじゃ……。

 誰かに解説してもらわないと無理な気がする。

 学校に行ったら先生いるかな?

 質問まとめて聞きに行きたいけど、あ、でも今日制服じゃないからダメか)


 シャーペンの動きがピタリと止まり、莉佳はしばらくの間考えあぐねていた。

 課題が全く進められない。

 すると横から一枚の紙が差し出された。

 見るとそこには『生物? 俺で良ければアドバイスできるかも』と書かれていた。


 紙の奥に視線を送ると差出人は昨日の大学生、古閑結斗。

 彼が隣に座っていた事に気付いていなかった莉佳は驚いた。

 しかしそれ以上に、今は彼の申し出がありがたくてすぐに『いいんですか? 基礎でつまづいて少し困っています……』と筆談で応じた。


 まだ人は少ないとはいえ、図書館の自習室でお喋りはご法度。

 一番後ろの席なら一枚の紙をやり取りする様子を他の人に見られる事はないし、筆談なら声を出さずにコミュニケーションが取れる。

 二人は何度か紙を行き来させたのち、荷物をまとめて同時に席を立つ。

 会話が許されているスペースに移動することにした。

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