保健室の密談
常盤台高校では二学期がはじまるとすぐに模試が行われる。
進学校に入った時点で勉強漬けの毎日は覚悟しているし、テストの点数で順位付けされることにも慣れてくる。
しかし、慣れたらストレスを感じないかと言うとそんなわけはない。
各教科と総合の上位一〇名は得点とともに名前が掲載される。
莉佳はその名簿の前に立つ時、毎回胃に穴が空く思いだった。
総合で上位に入るのはもちろん、教科別でも一つも落とせない。
全てに名前が載っている事が当たり前でなくてはならない。
模試の成績が貼り出される日、莉佳は不安でほとんど眠れなかった。
こればかりは何度経験しても同じように苦しむだろう。
結果は総合二位。
教科別でも全てに名前が載っていた。
自分の名前を見て安堵する莉佳は、緊張のあまり止まっていた呼吸を再開する。
周りの生徒たちのざわつく声がようやく耳に入るようになった。
今回も上位を独占したのは飛鳥と莉佳だった。
もちろん総合一位は飛鳥。
教科別の成績は生物だけ莉佳が一位、それ以外の一位には全て飛鳥の名前が記載されていた。
お疲れ、と労うまひろと陽菜詩の声を聞き、莉佳は今回もなんとかハードルを越えたことを実感する。
しかし、もし次がダメだったら……とすぐに不安が押し寄せる。
成績が落ちれば学費の免除が受けられなくなる。
その先の地獄がチラつく限り、莉佳に安心する余裕などない。
せっかく上位の成績を残したというのに、気分は悪くなる一方だった。
まひろたちはまだ名簿を見ていたが、莉佳は血の気が引く感じがして先に教室に戻った。
席に座り静かに呼吸を整えるといくらか楽になったが、ひどく喉の渇きを感じる。
そういえば朝から何も飲んでいない。
校舎一階に設置されている自販機まで行けばいいのだが、一年生の教室は四階にある。
今動くのは正直きつい。
動けたとしても今から買いに行って、五分後の授業開始までに戻って来られる自信がない。
莉佳は水分補給を諦め、そのまま授業を受けることにした。
しかしこの判断がよくなかった。
時計の針が進むのに比例して気分が悪くなる。
どうにか気を紛らわせようとするも、何の効果もない。
シャツの下で変な汗が流れるのを感じる。
教師の声がだんだんと遠くなる。
このままではまずいと思いつつも、体調不良を訴えるために授業を止める勇気はない。
莉佳にできるのは、真剣に授業を受けるクラスメイトの邪魔をせずただチャイムが鳴るのを待つことのみだ。
もはや教師の話は何も入ってこないが、このまま耐えてやり過ごせば誰にも異変に気付かれないまま一人でコッソリ保健室に行ける。
そう思っていたが、彼女の異常を感じ取る者がいた。
それは教壇に立ちこちらを見ている教師でも、普段仲良くしている友人でもなく、前の席に座る飛鳥だった。
「先生」
学年一位の才女に突然解説を遮られた教師は、一瞬不安そうな顔を浮かべる。
率先して発言するタイプではない彼女の声にクラスメイトは驚きを隠せない。
しかし瞬間的に注目を集めた少女は、複数の視線に動じることなく続けた。
「柿崎さんが体調悪いみたいなので保健室に連れて行きます」
堂々と宣言した飛鳥は教師の返答を待たず席を立ち、一人では立ち上がれない莉佳を支える。
「大丈夫か、誰か手伝った方が……」と言いかける教師に「大丈夫です」と返し、飛鳥は教室を出た。
飛鳥のこの行動に教室にいる誰もが驚いた。
しかし一番驚いたのは莉佳本人だ。
だが、今は理由を問う余裕がない。
思わぬ救いの手をただ掴むことしかできなかった。
「……ごめん」
「気にしなくていい」
廊下を歩く二人の会話はそれだけだった。
◇
保健室は無人。
そこにいるべきはずの養護教諭の姿は見当たらず、かわりに【すぐ戻ります】と書かれたボードが机の上に置かれていた。
鍵がかかっていないということは入って待っていても問題ないと判断した飛鳥は、保健室のベッドで莉佳を休ませる。
その無駄のない動きに莉佳はただ身を委ねた。
お礼を言おうとした莉佳だったが、飛鳥は何も言わず保健室を出て行ってしまった。
「そりゃそうだ、早く授業に戻りたいだろうし……」と納得すると同時に「あとでちゃんとお礼言わなきゃ……」と思ったところで莉佳は眠りに落ちた。
しばらくして莉佳は人の気配がして目が覚めた。
仕切りのカーテンで姿は見えないが、養護教諭が戻ってきたのだろう。
莉佳がゆっくり身体を起こすと枕元にあったスポーツドリンクがわずかに転がった。
買った覚えのないそれに触れてみるとよく冷えている。
ペットボトルの周りに水滴はついていないから買ったばかりのようだ。
まひろか陽菜詩が届けてくれた?
というか自分はどのくらい寝ていたのだろう。
疑問を解決しようとカーテンの向こうにいる養護教諭に「あの……」と声をかけた。
莉佳の声に反応するように人影が近づき、カーテンが開かれる。
するとそこにいたのは意外な人物。
「……えっ!?飛鳥さん?」
莉佳をベッドに寝かせ早々に教室に戻ったはずの飛鳥は表情を崩さない。
「それ、飲めそう?」
「え?……あ、これもしかして飛鳥さんが買ってきてくれたの?」
そんなわけないかと思いつつも聞いてみると、飛鳥は「うん」と答えた。
そのまま抑揚のない彼女の声が続く。
「先生、まだ戻ってこないから一応。具合悪い人を一人にできないし。水分補給した方がいいかと思ってそれ買ってきたんだけど、戻ってきたら柿崎さん眠ってたから」
「あ、ありがとう。あの、私、どれくらい寝てたのかな?」
「一〇分も経ってない」
「そっか。随分長く寝たような感覚だったんだけど、そんな経ってないんだ。よかった」
会話のキャッチボールはそこで終了。
質問すれば普通に返してくれるが、飛鳥から話題を振ることはないようだ。
しばしの静寂。
これ以上飛鳥をここに引き留め授業を抜けさせるわけにはいかない。
そう思った莉佳は養護教諭には自分から説明するから、と飛鳥に退室を促した。
当然「それじゃあ」と保健室を出ていくと思っての提案だったが、飛鳥はそうはしなかった。
「そんな無責任なことはできない」
淀みなく答える飛鳥から莉佳は目が離せなかった。
莉佳と飛鳥の共通点は特待生ということくらい。
偶然席が前後になっただけのクラスメイト。
ただそれだけ。
話してみたい気持ちはあっても、彼女の周りには厚い壁があるようで声をかけられなかった。
でも今なら、自分の意思でここに残ってくれている今なら……。
「あの……聞いてもいいかな?」
「なに?」
「っ、どうして私の具合が悪いって分かったの?」
「音」
「音?」
「うん。柿崎さんいつも板書以外にも色々ノート取ってるでしょ? でも今日はその音が全然しなかったからおかしいなって思った。授業前、私が席に着く時にはもう顔色悪かったし。呼吸が乱れる音も小さいけど聞こえてきたから具合悪いんだろうなって」
「そう、だったんだ。飛鳥さんはすごいね……」
少しの余裕もなく授業を受けていた莉佳にとって、飛鳥の答えは衝撃的なものだった。
莉佳は仮に後ろの席のクラスメイトが自分と同じように体調を崩したとして、それを音の変化で気付けるか考える。
無理だ。
そもそもクラスメイトたちが普段どんな風にノートを取っているかなど、気にしたことがない。
変化に気付けるか以前に、比較対象となるものがないのだ。
これを機に飛鳥との距離が少しでも縮まればと思ったが、逆に手を伸ばしても届かない位ずっと先にいるように感じた。
遠い存在だと思ったからか、以前から聞いてみたいと思っていたからか、理由は分からないが莉佳は飛鳥に問う。
「飛鳥さん、勉強つらくない?」
それは現状に苦痛を感じている人間からしか出ない問いだった。
そしてこの場合、求める返答は“同調”。
自分よりもすごい人が、自分と同じ悩みを抱えているのを知って安心したいのだ。
つらいと言って欲しい、毎日必死だと本音を漏らして欲しい。
追い込まれているのは自分だけではないと知り安堵したい。
しかし莉佳の淡い期待はアッサリと打ち砕かれる。
「勉強するのが当たり前だから別につらいとか思わない。
相変わらず平坦なその声からはやはり感情を読み取るのが難しいが、強がっている訳ではないことは間違いない。
飛鳥は現状に苦しんではいない。
それが事実だった。
莉佳は急に恥ずかしくなり慌てて謝罪する。
「そ、そうだよね!ゴメン、変な事聞いて……」
飛鳥の言う通りだった。
特待生として学費の免除を受けるには、それ相応の重荷がのしかかる。
そんなことは当たり前で、最初から分かっていたことだ。
三年間プレッシャーと戦い続けるのは当然の責務で、それでも進学すると決めたのは自分自身じゃないか。
入学からたった半年で弱音を吐いてどうする。
しかもそれを他者と共有して安心したいなど、なんて情けない。
先ほどの問いを取り消したくなるが、一度口にした言葉が消えることはない。
ひどく後悔した莉佳がこの場の空気をどうすべきか悩んでいると、飛鳥の口が開いた。
「私んち、父子家庭なんだけど父親がクズでさ。子どもに金使いたくないって理由で義務教育が終わったら働けってスタンスなの。私一人なら別にそれでも良かったんだけど、八歳年下の妹には不自由な思いをさせたくなくてね」
飛鳥に妹がいることも、家庭環境に恵まれていないことも初耳だった。
「妹に夢ややりたいことができた時、背中を押せるくらい稼げるようになりたい。良い学校に行った方が良い企業に就職できるチャンスは増えるから、大学も特待生で入るつもり。だからこんなとこでつらいとか言ってる場合じゃない。元々父親はあてにしてなかったから中学の頃から学費が免除になる高校狙って勉強はしてたし、それが続くってだけ」
奇しくも自分と似た理由でここに入学した飛鳥だが、覚悟が違う。
背負っているものが違う。
飛鳥にとってここは単なる通過点でしかないのだ。
「この話をしたのは、柿崎さんが何か悩んでそうだったから。私さっき勉強はつらくないって言ったけど、それは大変じゃないって意味ではない。特待生で居続けるために成績キープするのは簡単じゃないし、普通にお金払って通えたらどれだけ気が楽かって思う。でも子どもは親を選べないからね、仕方ないって納得するしかなかった」
飛鳥の言葉は頭を何度も縦に振りたくなるくらい、よく理解できた。
「柿崎さんがどんな事情抱えてるのかは知らないけど、何かしらの理由があるからこんな追い詰められる環境で頑張ってるんじゃないのかなって。もしそうなら……」
そこまで言って飛鳥は初めて口ごもる。
今まで表情を変えず淡々と話し続けていた彼女は次の言葉を詰まらせたが、少し考えて再び口を開いた。
「柿崎さんの気持ち全部分かるとはとても言えないけど、みんなにとっての“普通”を手に入れる大変さなら私も知ってるから」
莉佳の視界がぼやける。
悩みを、プレッシャーを、重圧を共有できる人がいることを知った莉佳は、自身の肩にのしかかっていた重りが軽くなった気がした。
ありがとう、と言いたいのに上手く言葉が出てこない。
そこに話が一段落つくのを見計らったかのようなタイミングで養護教諭が戻って来た。
「あら、ごめんね~。大分待った?」と尋ねる保健室の主に「いえ」と答える飛鳥は簡単に莉佳の状態を告げる。
養護教諭への説明責任を果たした彼女は莉佳に「それじゃ」と声をかけ保健室を出ようとした。
が、ベッドの前で足を止め莉佳に視線を向ける。
「絶対に譲れない目的のためなら、大抵の事は我慢できるし最後までやり通せるよ」
飛鳥はそう言い残し、今度こそ本当に保健室をあとにした。
莉佳はその時はじめて飛鳥の言葉に感情を見た。
あれは飛鳥の心からの本音だったのだと思う。
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