友人と恋人

 柿崎莉佳の朝は早い。


 結斗に自宅まで送ってもらった翌日もいつも通り早朝四時半に起きた莉佳は、覚醒するためシャワーを浴びる。

 母の男が家にいる間は落ち着いて入浴などできないため、仕方なく早朝にシャワーを浴びるようになった。

 昔は寝る前に入浴できないことに不満を感じていたが、身体が芯から温まるとどうしても睡魔がやってくる。

 そしてその睡魔は勉強の邪魔でしかない。

 逆に起き掛けに熱いシャワーを浴びれば眠気から醒める。

 今の莉佳にとっては好都合であることに気付いてからは、男が来ない日でもルーティンを変えることはしなかった。

 禍が転じて福となったわけだ。


 これまで母が連れてきた男たちは一人として、決して泊まってはいかなかった。

 稀に日付が変わるまで居ることもあるが、決まって夜のうちに柿崎家を出ていく。

 きっと帰る家が、帰らなければならない家があるのだろう。

 莉佳にはどうでもいいことだった。


 十五分ほどでシャワーを済ませたら鎖骨が隠れる位の長さの髪を乾かし、弁当作りに取り掛かる。

 なるべくお金をかけずに、しかし最低限の栄養は採れるよう試行錯誤している。

 弁当を作り終え後片付けをすると大体五時半。

 ここから制服に着替え身支度を整え、六時過ぎには家を出る。


 普段は長袖のシャツの袖をまくって着ているが、さすがに最近は暑すぎるので半袖に変えた。

 シャツの裾を綺麗にスカートにしまい込むと、ウエストの細さが際立つ。

 身長一五八センチの莉佳の体重は、理想的な数値には七キロ程足りていない。

 ファスナー式の結ばなくていいネクタイを付け、髪はヘアアイロンでつやを出す。

 仕上げのヘアオイルからはほんのりと甘い香りが漂う。

 学校用の最低限のナチュラルメイクを施せば、思わず二度見してしまうような女子高生の完成だ。

 母はいつだって起きてこない。

 誰にも会わずに済むこの時間は、莉佳が唯一自宅で気が休まる時だった。


 通学に掛かる一時間半は勉強に充てる。

 はじめは揺れ動く乗り物で参考書を読むのに苦労したが、身体とは不思議なもので存外すぐに慣れて平気になる。

 必要に迫られれば大抵の問題はクリアできるのだろうか。

 今日もいつも通りの朝を過ごし、莉佳は七時四十五分頃に常盤台高校に到着した。

 授業が始まるのは九時からだが、特進科の生徒達の多くは八時頃には教室に集まり授業に備えている。

 前日の復習をする者、友人に教えを乞う者、予習に充てる者、やることはそれぞれだがみな朝から勉強モードは全開なのだ。


 ハードルが高いと空気が殺伐としそうなものだけれど、まだ一年生ということもあってか教室内の空気はそこまで重くない。

 二年になればガラッと変わるのかもしれないが、それでもこのクラスの雰囲気は悪くないと思う。

 生徒同士のいざこざもないし、これだけ勉強に追われている割にはみな心に余裕があるように見える。

 まひろも陽菜詩もイラついているところなど見たことがない。

 いつも穏やかで優しい。

 家庭の裕福さは心の豊かさに比例するのかもしれない。


 ◇


 この日の講習も最初から最後までなかなかハードな内容だった。

 莉佳は脳の疲弊を感じながら帰る準備をする。

 スマホを覗けば“いつもの場所で待ってる”の文字が表示されていた。

 疲れ切った脳内に結斗の声が再生される。

 今まではコーヒーショップで待ち合わせをしても駅で別れていたため、僅かな時間しか一緒にいられなかった。

 しかし今日から約一週間、夏休みの間だけではあるが結斗は莉佳を一時間半以上離れた自宅まで送ってくれるという。


 思わぬ形で恋人と過ごせる時間が増えたことを、当然莉佳は喜んでいた。

 恋愛初心者の莉佳は、基本的に自分の恋愛事情についてあけすけに話すことはしない。

 しかし、なんせ経験がないため何かと困ったときには専らまひろと陽菜詩に相談しアドバイスをもらっていた。

 二人は莉佳の大切な友人だ。

 だから二人には、結斗と一緒に帰ることになった経緯を報告した。


 莉佳の元同級生たちが襲撃されていると知り心配してくれた二人は、もちろんその報告を喜んだ。

 陽菜詩は「ひとまずは安心」と胸をなでおろし、まひろは「さすが結斗君! 優しい!」と彼を絶賛する。


 二人への報告を終えた莉佳は、いつもの場所で結斗と合流した。

 付き添いのまひろが一緒なのはいつものことだが、今日は陽菜詩も一緒だった。

 たまたま部活が休みだった陽菜詩が「私も莉佳の彼氏に会ってみたい」と言い出したのだ。

 特に断る理由もないが念のため結斗に確認すると、二つ返事で承諾してくれたためこの場が成立した。


「えっと……こちら友達の陽菜詩。普段は部活があって一緒に帰れないんだけど、今日はたまたま休みだったの」

「はじめまして! 莉佳から何度か話を聞いてたから会えてうれしいよ。よろしくね」

「こちら彼氏の結斗君。大学生で……えぇっと、よく、勉強を見てもらってます」

「はじめまして。私も莉佳から結斗さんのこと聞いてます。莉佳のこと、家まで送ってくれるって聞いて安心しました!」


 互いの紹介を仲介する莉佳よりも、初対面の結斗と陽菜詩の方が堂々としているのが面白いのか、まひろはクスクスと笑っている。

 まひろは人懐っこい性格で愛嬌もあり結斗とすぐに親しくなれたが、体育会系の陽菜詩も負けず劣らず年上相手に臆さず爽やかな対応を見せていた。

 突然現れた彼女の友人に結斗は多少戸惑ってもいいはずなのに、いくつか会話を交わせばまるで前から知り合いだったかのような和やかな空気になっている。

 人当たりがよく暖かい三人に莉佳は安心感を覚えた。


 その日から夏休み最終日まで、結斗は毎日莉佳を自宅の前まで送り届けた。

 幸い不審者に遭遇することもなく、二人はただただ恋人らしい時間を過ごしていた。

 夏休みが終わると結斗も大学が始まるため、バイトを日中にずらすことができない。

 莉佳を自宅まで送れない日は気が気じゃなかったが、木部あかねの事件以降アザミに襲われる者は一人もいない。

 被害が小さい事件だったため元々そこまで注目度は高くなかったし、危機感が薄れるのに時間はかからなかった。

 多くの人の頭からアザミ事件が消えて新たな情報が入っていく中で、二十一歳若手警官の杉下は犯人逮捕のために動き続けた。

 そしてその歩みは確実にアザミへと近付いていた。

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