“はじめて”は君と

 莉佳は自宅に向かう道中でアザミ事件のこと、元同級生たちが襲われたことを結斗に話した。

 事件については結斗も風の噂程度に知っていたが、そこまで気にしていなかった。

 しかし莉佳が緑山中の卒業生だと知った途端、危機感を募らせる。


「気付かなくてごめん」と謝る結斗だったが彼は莉佳の出身中学を知らなかった。

 自宅に来たこともないため、通っていた中学を特定することもできない。

 莉佳が言わない限り、気付けないのは当然だ。

 結斗が気に病むことなど何もない。

 にもかかわらず、言い出せないであろう莉佳の性格を分かっているからこそ、結斗は自分から気付けなかったことを悔いているのだろう。


 結局、二人が莉佳の自宅前に到着したのは二〇時を少し過ぎていた。

 結斗が莉佳を自宅まで送るのは今回が初めてだったため、莉佳がルートを案内する形での移動となる。

 結斗は一人の帰り道で迷わないようにと目印を見つけながら歩いた。


「遠いのに家まで送ってくれて本当にありがとう」

「いつもより長く一緒にいられて嬉しかったよ」


 サラッと言ってのける結斗とは対照的に、真っ直ぐ向けられる好意に莉佳の心臓は大きく跳ね上がっていた。

 一度加速した鼓動はなかなか静まらない。

 今が暗い夜道でなければ紅潮した頬を結斗に見られるところだった。


「莉佳、今日もこのあと勉強?」

「うん、そのつもり」

「そっか、あんま無理しないようにね」

「ありがとう」

「じゃ、俺帰るわ! 莉佳の勉強時間削っちゃ悪いし」

「……わかった」


 本当はもう少しだけ一緒にいたい気持ちを抑えて莉佳は答える。

 気を付けて帰ってね、と伝えようと息を吸った瞬間、彼の香りが鼻をかすめた。

 気付けば莉佳は結斗の腕の中にいた。

 何がどうなったか分からず硬直していると、頭の少し上の方から結斗の声が降ってくる。


「もー、勘弁して……」

「……結斗君?」

「あんな寂しそうな顔見せられたら帰したくなくなる」


 驚いた莉佳が顔を上げ目を合わせようとすれば、頭に結斗の手が乗っかり優しく彼の胸元にうずめられる。

 結斗は「今こっち見ないで……」と弱々しく呟いた。

 その余裕のなさに新鮮味と感じた莉佳は、大人しく彼の手引きに従うことにした。

 時間にしてほんの数秒。

 莉佳から離れた結斗は、家に着いたら連絡すると伝え二人で歩いてきた道を一人で戻っていった。


 本当は結斗の後ろ姿が見えなくなるまで眺めていたかった莉佳だが、それじゃ家まで送った意味がないと言われ、しぶしぶ結斗が見ている前で自宅へ入った。


 ──玄関の扉1枚で莉佳の世界は激変する。

 外はまるで自分が少女漫画の主人公かと思ってしまうほどに鮮やかだったが、家に一歩足を踏み入れればそこはモノクロームの世界だった。

 ごく普通の戸建て住宅。

 莉佳はこの空間が嫌いだ。


 自室へ行くには母がいるリビングを通らなくてはならない。

 母だけならばまだいいのだが、そこには母よりも先に声を掛けてくる男がいた。


「莉佳ちゃんおかえり~」

「……」


 その男に声を掛けられた瞬間、莉佳の顔からは表情が消え瞬く間に虚無感に包まれた。

 黙っている莉佳に、今度は母親がぶっきらぼうに声を掛ける。


「返事」

「……ただいま」

「相変わらず愛想悪いわね、昔はこんな子じゃなかったのに」


“昔はこんな子じゃなかった?”

 誰のせいでこうなったと思ってんの、と心の中で一人静かに悪態をつきながら文句を言う母の横を通り、男とは目を合わせず莉佳は自室へと向かう。


「ごめんね~、感じの悪い娘で」

「ちょうど反抗したい年頃なんだろ。それに気が強い女は嫌いじゃない」

「したたか過ぎる女にハマると痛い目見るわよ」

「美人にならいくらでも絞られたいもんなんだよ、男ってのは」


 莉佳は背後で交わされる男女の薄っぺらい会話が不快でしかたなかった。


 この家には四年前まで父親がいた。

 夫婦仲は良かったように見えていたし、母は父から一途に愛されていると信じていた。

 しかし父は母よりも若い女に夢中になった結果、家を出て行った。

 養育費を払わないかわりに自宅を母に譲ったらしい。

 離婚後、荒れて酔いつぶれた母が言っていた。


 それから母は絶えず男を作るようになり、年頃の娘がいる自宅に平気で男を上げた。

 その数、一人や二人ではない。

 母にとっては自分の男でも、莉佳にとっては“知らない人”であり“異物”でしかない。

 しかし精神が不安定になった母の行動を咎めても意味がないことは分かっていたし、脆弱になった母から男を奪った後の面倒さを考えると放っておくのが一番だった。


 だから家にいる知らない男と母がであることは嫌でも察しがつく。

 母の女の部分も、男のニヤついた表情も見たくない。

 気持ち悪い。

 一刻も早くこの場から離れたい。

 その一心で自室へ急ぐが、母の一言でその足の動きはピタリと止まる。


「あの子、なかなかいい男じゃない」

「……え、見たの?」

「家の前で抱き合っといて文句言うんじゃないわよ? 別にアンタが誰とどこで何してようと構わないけど、学費の免除がなくなったら高校やめてもらうからね? 払えないから」

「分かってる‼」


 母の言葉を遮るように答え、今度こそ自室へ向かう。

 少し乱暴にドアを閉め、苛立ちを治めようと深く息を吐いた。


 莉佳は早く家を出たかった。

 しかし高校の近くに部屋を借りたくても、母の稼ぎをあてにはできない。

 そんな莉佳にとって遠い高校へ通うことは、家にいる時間が減る理由になるため全く苦にならなかった。


 母は自分の稼ぎから最低限の生活費を抜くと、残りはほとんど自分の好きなように使ってしまう。

 だから莉佳は絶対に学費の免除を外されるわけにはいかない。

 外されてしまえば高校には通えなくなるだろう。

 そうなればおそらく、働くか出ていくかの二択を迫られることになる。

 どちらにせよ働かなくてはならないが、中卒の女の働き口など限られる。


 莉佳はなんとしてもこの三年間を耐え、卒業と同時に家を出て奨学金を貰いながら大学へ通い、良い企業に就職すると決めている。

 そうすれば金に困ることもなく、自由になれる。

 そのためにはどうしても成績を落とすわけにはいかないのだ。


 深呼吸を繰り返し苛立ちを鎮めた莉佳は部屋着に着替えて机に向かう。

 今日の授業の復習と明日の予習をしなくてはならない。

 まひろや陽菜詩、結斗と過ごす時間を守るためにも。

 授業中にあとで整理しようと思い印をつけたページを開いたとき、ふと前の席に座る飛鳥の姿が浮かんだ。

 同じ特待生である飛鳥も、同じようなプレッシャーを感じていたりするのだろうかと気になったが、きっと本人には聞けずに終わるだろう。

 そんな事を考えるよりも集中しよう、と気持ちを切り替え勉強に身を入れた。


 ◇


 二十二時半を過ぎた頃、スマホが短く振動する。

 結斗から“家に着いた”とのメッセージだった。

 夕方の待ち合わせから数えると約四時間半。

 思わぬ遠出をさせられた結斗だったが、迷惑そうな素振りは一切見せずこうして律儀に連絡をしてくれる。

 その優しさに莉佳の表情もわずかに緩み、ペンをスマホに握り替え返信しようとした。

 しかし莉佳が返信するよりも先に“少し話せる?” “勉強中だったら気にせず断って”とメッセージが続けて届く。

 莉佳は自分から通話ボタンを押した。


「ごめん、勉強中だったよね?」

「ううん、ちょうど休憩しようと思ったところ」

「よかった! 実はバイト調整できたからしばらく家まで送るよ」

「えっ⁉ 遠いしさすがに悪いよ……。今日だって結斗君が家に着くのこんなに遅くなっちゃったし」

「それは全然気にしなくて大丈夫! バイトの日はもっと遅いし」

「でも……」

「莉佳は帰り道俺が一緒なの迷惑?」

「まさか! 迷惑なわけない!」

「じゃあ一緒に帰ろ? っつーか、莉佳の周りで物騒な事件が起きてるって聞いたら心配で一人で帰らせらんないよ。今日一緒に帰ったとき思ったけど、バス停から家まであんま人通らないし街灯も少ないじゃん。万が一襲われたときに逃げ込めるような店とかコンビニもなかったし!」


 結斗は一人で帰るとき道に迷わないように目印を見つけると言いながら、実は最悪の状況を想定して莉佳一人でも危険を回避できるか考えていた。

 莉佳と別れてから一人で通りを一、二本ずらして歩いてみたが、安全と言える道は見当たらない。

 だから残り少ない夏休み期間は夜のシフトを昼間に変えて、自分が莉佳を家の前まで送ることにした。

 莉佳が遠慮するのは分かっていたが、そこはやや強引になってでも押し通すつもりだ。


「莉佳は俺に申し訳ないって思うかもしれないけど、俺的には一緒の時間が増えるから嬉しいんだけど! 講習で分かんないとこがあれば移動中教えられるし!」

「……本当にいいの? 遠いよ?」

「夕方にも言ったじゃん! 迷わず一番に俺を頼って欲しいって。けどもし断られたら……莉佳に防犯ブザー無理やり五個くらい持たせる」

「ふふ」

「んで、こっそり莉佳の跡つけて家に入るまで見届ける! 最悪俺が不審者に間違えられる可能性あるけど」

「それは困るなぁ」

「でしょ? だから、ちゃんと俺に送らせて?」

「……じゃあ、よろしくお願いします」

「ん。任せて」


 あまり長話になるのも良くないと思ったのか、結斗はその後早々に話を切り上げる。

 莉佳を納得させるという一番の目的を果たせたのだから、これ以上彼女の勉強時間を奪うのはよそうとの思いからだろう。


 通話を終えた莉佳は結斗とのメッセージ画面を見つめたまま、彼と出会ってからの事を思い返していた。

 莉佳にとって結斗はである。

 だから彼と付き合ってからの数か月、莉佳ははじめての連続だった。

 待ち合わせも、頭を撫でられるのも、抱きしめられるのもはじめての経験だった。

 嫌われたくないと思うのも、呆れられたくないと思うのもはじめての気持ちだった。

 もっと一緒にいたいと思うのも、少しで良いから会いたいと思うのもはじめての欲だった。


 きっとこれから、もっとたくさんのはじめてを知っていくのだろう。

 そしてそれは全部結斗とが良い、と莉佳は願っていた。

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