焦心と初恋

 普段は教師の解説の声とノートを取る音が響き渡る教室だが、休み時間ともなればその堅苦しさからは解放される。

 ただし、やはり特進科となると授業の前に前回分の内容を振り返ったり、あらかじめ教科書や参考書に目を通したりする生徒も多い。

 いつもなら莉佳たちも昼休みを十五分程残して自席に戻り、次の授業の準備に入る。


 しかしこの日は莉佳の彼氏が話題に上がり思いのほか盛り上がった結果、気付けば時計は午後の始業一〇分前となっていた。

 アザミ事件について話していたときよりも明るくなった三人の声色の中へ、明らかな異色が入り込む。


「話し込んでるとこ申し訳ないんだけど、そろそろ机返してもらってもいい?」


 ほとんど抑揚のないその声に、莉佳たちは一気に現実に引き戻される。


「あっ、もうこんな時間⁉ 飛鳥さん、ごめんねぇ!」


 飛鳥の机を借りて昼食を食べていたまひろは謝りながら急いで弁当箱を片付ける。

 ポーチから取り出した除菌シートで机を綺麗に拭き元の位置に戻したら、個包装のチョコレート菓子を一つ机に乗せた。


「飛鳥さん、いつも机貸してくれてありがとう。今日は返すの遅くなっちゃって本当にごめんね」

「ん、大丈夫」

「今日のお菓子は新作だよ~」

「いつも気使わなくていいのに」

「使ってないよ~。美味しかったから食べてみてね! 勉強で疲れたときの糖分補給になるよ」

「……ありがと」

「こちらこそ~」


 莉佳の前の席に座る飛鳥は、昼休みになるといつも教室を出ていく。

 以前まひろが一緒に昼食を食べないかと声を掛けたが『静かな場所で一人で食べたいから』と言っていた。

 その際、飛鳥から自分の机を使って構わないと提案されたまひろはその言葉に素直に甘えるかわりに、毎回お礼としてチョコレートやクッキー、飴などをひとつ机の上に置いている。

 はじめは戸惑っていた飛鳥も、屈託のないまひろの笑顔を向けられ続けては受け入れるのも時間の問題だった。


 まひろが自席に戻ると同時に、陽菜詩も借りていた机を片付け飛鳥にごめんね、と声をかけ自席に戻っていく。

 莉佳は食べ切れなかった弁当を急いで片付け、前の席で着席し次の授業の準備をしている飛鳥に声をかけた。


「飛鳥さん、ごめんね。次からは気を付けるから」

「そんな気にしてないから大丈夫」


 軽く首を回し視線だけを後ろに向けた飛鳥の声はやはり平坦なものだった。

 怒っている様子は感じられないが、この話はこれで終わりと遮断されたようだ。


 である飛鳥のことを、莉佳はほとんど何も知らない。

 それは莉佳に限ったことではなく、おそらくクラスの誰も飛鳥の人となりを詳しくは知らないだろう。

 飛鳥は誰とも行動をともにしない。

 話しかけられれば応えるが、必要最低限。

 表情が崩れることもないため、感情が読み取りにくい。

 どうしても彼女との間に厚い壁を感じてしまうし、それは接近を拒絶しているようで声を掛けることが憚られる。

 稀にその壁の厚さをもろともせず懐に入るまひろのような人間がいるのも事実だが。


 莉佳は内心、同じ特待生である飛鳥と話してみたいと思っていた。

 特待生にしか分からないプレッシャーを、飛鳥と共有できるのではないかと淡い期待を抱いていた。

 しかし、常に知識を増やし続けなくてはならない環境下で他人に時間を奪われることがどれ程迷惑かを莉佳はよく分かっているからこそ、不躾に声を掛けることができなかった。


 莉佳は自分よりも成績が良い飛鳥の背中を見つめる。

 置いて行かれてはならない、ついて行かなくてはならないと焦る気持ちを鎮め、気持ちを切り替える。

 授業が始まってしまえば余計なことを考えている余裕などない。


 分かっていることが前提で進められる授業は、一度躓けば追いつけないスピードで進行していく。

 口頭のみで済まされる解説を聞き漏らさずに咀嚼し、同時に自分なりにかみ砕きメモを取る。

 あとで改めて整理する必要があると感じた部分には印をつけておく。

 一日中頭をフル稼働させっぱなしでいると、最後の授業が終わるころにはさすがに脳が疲弊しているのを感じる。

 しかし、今日もやり切ったぞ、と気を抜くことはできない。

 次の授業までに完璧に理解しておくにはすぐに復習しなくてはならないし、予習もしておかないとあのスピード感の授業にはついていけない。

 気を抜ける瞬間などない莉佳はいつも崖っぷちに立たされているような気分だった。


 ◇


 十八時、授業終了を知らせるチャイムとともに教室の緊張感がやっと緩む。

 なんと陽菜詩はこれからバスケ部の練習に顔を出すという。

 途中参加になるため満足に動けないそうだが、フォーメーションや攻防パターンなど確認事項は山ほどあるからと言っていた。


 まひろは「あまり無理しちゃダメだよ~」と、昼休み飛鳥にあげた物と同じチョコレートを陽菜詩に渡す。

 陽菜詩とは一階の階段で別れ、莉佳とまひろは二人で校舎を出た。

 向かうは常盤台高校のそばにあるコーヒーショップ。

 外の様子がよく見える窓際の席で、大学一年の古閑結斗こがゆいとは莉佳が現れるのを待っていた。


 結斗と莉佳の待ち合わせ場所は大抵このコーヒーショップである。

 莉佳に気付いた結斗は軽く手を上げ、テーブルに広げていたであろう荷物を片付け席を立つ。

 恋人との待ち合わせという行為にまだ慣れていない莉佳は、未だに毎回恥ずかしそうにしながら遠慮がちに手を振り返している。

 一方で誰とでもすぐに打ち解けられるまひろは、結斗ともすぐに親しくなっていた。

 外で待つ莉佳と付き添いのまひろのもとに結斗が駆け寄る。


「莉佳、まひろちゃん。今日も講習大変だったねぇ! 疲れたでしょ?」

「もう頭パンクしそうだよ~! ねぇ、莉佳」

「そうだね、今日は難しいとこ多かったし大変だったね」

「じゃあ頑張ってきた2人にコレあげる」


 そう言いながら結斗が差し出してきたのは、コーヒーショップで販売しているクッキーだった。


「え、私にもくれるの? ありがとう」

「いえいえ! 莉佳からまひろちゃんは甘いものが好きって聞いてたからチョコチップのクッキーにしたんだけど、大丈夫かな?」

「もちろん大丈夫っ! ありがとう」

「喜んでもらえて良かった。莉佳は前に好きだって言ってたシナモン入りのにしたよ」

「ありがとう」


 言葉こそ少ないものの、莉佳が喜んでいるのは彼女の表情を見れば一目瞭然だった。

 その控えめに恥じらう様子は結斗はもちろん、同性のまひろの目も釘付けにするほどに魅力が溢れていた。


 学校では見せることの無い莉佳の横顔を目にしたまひろは、これ以上二人の貴重な時間を邪魔してはいけないと、別れの挨拶を交わしたちまちその場を去った。

 莉佳が言えないであろうの代弁も忘れずに。


「ねぇ莉佳。『怖いからおうちまで送ってほしい』って、どういうこと?」

「いや、えぇっと……」


 まひろの言葉をそっくりそのまま繰り返し問う結斗を前に、莉佳は視線を落とした。

 心なしかいつもより結斗の声のトーンが低い気がして不安になる。

 中学の元同級生が立て続けに襲われているからといって、次が自分である確証はない。

 そんな不確かなことを言って迷惑をかけたくない、面倒な奴だと思われたくないとの思いから何と返せばよいか分からず口籠っていると、結斗のため息が聞こえたものだから莉佳はさらに委縮する。


 呆れられたと感じた莉佳は慌てて顔を上げ、ひとまず謝ろうと思った。

 それが何に対する謝罪なのかも分からないないままに。

 しかし莉佳が顔を上げると、彼女の目線に合わせるように覗き込む結斗の顔があった。


「言いにくいことなら無理に聞くつもりはないよ。恋人だからってなんでも共有すればいいってもんじゃないしね! でもさ、何かあるなら迷わず一番に俺を頼ってよ」


 てっきり結斗の機嫌を損ねてしまったと思っていたところに思わぬ言葉が聞こえてきて、莉佳は目を丸くした。

 固まる莉佳の頭にポンと手を乗せた結斗はいつもの柔らかい声に戻り、それじゃ行きますか~、と笑顔を向ける。


「行くってどこに」と尋ねれば「家まで送るよ」と返してくれる。

「でもバイトは」と問えば「今日はちょうど休みなんだ」と答えてくれる。

「ウチ遠いけど……」と躊躇えば「それだけ長く一緒にいられる」と微笑んでくれる。

 莉佳の数少ない引き出しにはもう断る理由なんて一つも入っていなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る