どうか、杞憂であれと願う

 八月下旬のある昼下がり、私立常盤台高校特進科一年の柿崎莉佳は浮かない表情でスマホに視線を落としていた。

 快適な温度で冷房が作動している一年F組の教室は、三十五度を超える外から比べれば天国だ。

 しかし、中では九時から十八時まで地獄のような特別夏期講習が開かれている。

 これは特進科の夏休みの風物詩とも言える。


 昼休みを迎えた莉佳は机の上に弁当を置いていた。

 この弁当は莉佳が自分で作ったものだ。

 弁当を包むランチョンマットはまだ結ばれたままで、莉佳は未だスマホを見つめる。

 机を向かい合わせにして寄せるのはいつもと同じ顔ぶれ。

 莉佳の右斜め前に座るショートボブでアイドル風の容姿をしているのが三ツ橋まひろ、左斜め前に座るロングヘアをポニーテールにまとめた高身長美人が東條陽菜詩とうじょうひなた

 入学当初からすぐに気が合った三人はいつも一緒に昼食を食べている。


 莉佳が在籍する常盤台高校は有名な進学校で、その中でも特進科は毎年多くの生徒を名門大学に輩出している。

 そのためカリキュラムはキツイし、学費は相当高い。

 裕福な家庭の子どもたちが集まるのは自然な流れだったし、それはまひろと陽菜詩も例外ではない。

 ただ、莉佳はたった二枠しかない特待生として入学したため学費免除を受けている。

 タイプが違う美女二人に劣らない容姿、常に成績上位をキープする秀才である莉佳を含む彼女たちは一年生ながら校内で目を引く存在だった。


「莉佳も早くご飯食べないと、昼休み終わっちゃうよ~?」


 そう声を掛けるのはおっとりとした話し方が特徴的なまひろ。

 自身の弁当に入っていた卵焼きを嬉しそうに頬張りながら、莉佳に声を掛ける。

 小ぶりの弁当箱の中身は彩りがよく、とても女の子らしい。

 ハッとした莉佳はそうだね、と答えながら先ほどまでの不安そうな表情を一変させ、ランチョンマットの結び目に手をかける。


「ちょっと考え事してて……。急いで食べなきゃ!」


 スマホは裏返しにして机の上に置いた。

 シンプルな弁当箱には、ピーマンのおかか炒め、赤いウインナー、にんじんのラぺ、ミニオムレツが入っている。

 莉佳は白いご飯に小袋のふりかけをかけ、小さくいただきますと呟いてから食べはじめた。


「あんなに授業で色々詰め込まれたのに、よく考え事なんてできるね~。私疲れちゃったよ~」

「考え事ってもしかしてアザミ事件のこと?」


 視線をまっすぐ莉佳に向けて疑問を投げかける陽菜詩。

 手には食べかけのおにぎり。

 おにぎりに具材が入っているからか、弁当箱にはミニハンバーグやホウレン草の胡麻和えなどのおかずが軽めに入っている。


 学業最優先の特進科生徒はほぼ部活動に入らない。

 だからと言って自由な青春を謳歌しているわけではなく、放課後はそれぞれ塾や家庭教師、自主学習など勉強の時間に充てている。

 中には最低限の学習時間で最大限の結果を残す者もいるが、それは人並み外れた集中力や記憶力があってのことだろう。

 大抵の生徒は常盤台高校で過ごす三年間のほとんどを勉強に費やす。

 しかし、陽菜詩は特進科にしては珍しいタイプのスポーツマンで、バスケ部に入部している。

 常盤台高校のバスケ部と言えば、全国大会常連の強豪校。

 今年もインターハイ出場を目標に日々汗を流している。

 そんな環境で陽菜詩は一年生で唯一レギュラー入りしている程の実力者だ。


 陽菜詩はスポーツ推薦で別のクラスへの在籍を提案されたらしいが、学業と部活を必ず両立すると強く訴え教師陣の反対を押し切り特進科に在籍となった。

 特進科に籍を置く条件として本来なら免除される筆記試験を受け、提示された点数を大きく上回る結果を残し受験を突破している。

 特進科の生徒が運動部に入ってはいけない規則などもちろんないし、過去には部活をしながら大学受験を成功させた先輩もいるらしい。

 ただそれは同好会レベルの部活動での話であって、全国を狙う部活でレギュラーとして活動しながら特進科の授業についていくなど前代未聞だった。


「莉佳の中学ってたしか、緑山中だったよね?」

「あれぇ? そうだっけ?」

「入学初日、自己紹介する時出身中学も言わされたじゃん。緑山って聞き慣れない名前だったから印象に残ってたんだ。緑山からウチに来てるの、莉佳だけだよね?」

「陽菜詩は本当に記憶力がいいねぇ」


 今度は彩りとして入れられたブロッコリーに箸を伸ばしながら話すまひろの言葉通り、陽菜詩は些細なこともインプットを怠らない。

 学業と部活のスケジュール管理に抜けはないし、忘れ物や課題の未提出も一切ない。

 傍から見れば天才的な完璧少女。

 しかし、陽菜詩は類まれなる記憶力を持って生まれたわけではない。

 彼女が有名進学校の生徒と超強豪のバスケ部レギュラーを両立できているのは、影ながら人の何十倍も努力を続けているからである。

 ただ、陽菜詩はそれをおくびにも出さない。

 その謙虚な努力家という人間性が、莉佳は好きだった。


「あー、うん……。緑山は私の母校」

「襲われてるのは去年の卒業生。ってことは……」

「私の同級生が被害に遭ってる」

「うわ~、こわいねぇ。襲われたのは莉佳のお友達?」

「そんなに接点があったわけじゃないけど……、同じ中学の同級生だからもちろん会話くらいはしたことあるよ」

「結構騒ぎになってる感じ?」

「うーん、どうだろ。私あんまり中学の同級生と会う機会ないからなぁ……。でもこんな風に注意喚起の投稿してる知り合いも結構いるし注目されてる方だと思う」


 そう言って莉佳は先ほど裏返して机に置いたスマホを再び手に取り、SNSの投稿画面を2人に見せた。


【拡散希望】去年緑山中学を卒業した人、夜道歩く時気を付けて! アザミに襲われる!


「アザミって本名じゃないよねぇ?」

「多分。でも毎回名乗ってるみたい。夜道、一人になると後ろから声掛けてくるんだって」

「夜道って! 莉佳危ないじゃん!」

「まぁね……。でも、学校から家まで遠いし帰りが遅くなるのは仕方ないよ」

「えぇー! 心配だよぉ! 一緒に帰れる人、誰かいないの? 帰る方向が同じ人とかさぁ!」


 莉佳の家から常盤台高校までは、電車とバスを乗り継いで片道一時間半以上かかる。

 中学の同級生たちはみな自宅から自転車やバス一本で通える範囲に進学しているため、通学路が一緒になる人は誰もいない。

 朝は六時頃に家を出て、帰りは二〇時を過ぎることもある。

 そのため莉佳が自宅の近くで同級生と会う機会は滅多にない。

 往復三時間を超える通学は決して楽ではないが、莉佳は高校の近くに部屋を借りることなく通学している。


 アザミと名乗る犯人の標的がなのだとしたら、もちろん莉佳も含まれる。

 そして莉佳は日常的に、バス停から家まで歩いて五分程の距離をで帰っている。

 そう考えると不安になるのも当然だが、こればかりはどうしようもない。

「なるべく遅くならないようにするし、いざとなったら走るし!」と苦笑いしながら話す莉佳を、陽菜詩は心配そうに見つめることしかできなかった。

 しかし、突然まひろが大発明でもしたかのように声を上げる。

 少し、いやかなり大袈裟ではあったが、周りも笑顔にするような明るいまひろのことも、莉佳は好きだった。


「そうだ! 結斗ゆいと君に家まで送ってもらえばいいんじゃない?」


 自信満々のまひろだったが、この提案に莉佳は軽くむせながら異議を唱える構えを見せる。


「だって男の人が一緒なら安心でしょ? 陽菜詩はどう思う?」

「その手があったか! まひろ、天才!」

「でしょ~」


 陽菜詩までもが賛成するものだから、莉佳は慌てて止めに入る。


「そんな事頼めないよ! 結斗君忙しいし、迷惑かけたくないもん」

「こ~んなに可愛い彼女に『怖いからおうちまで送ってほしいな♡』って頼まれて断る彼氏なんて、いないと思うけどなぁ」

「いやいや、言えないよ! そんな事」

「断ったら私が許さない」

「陽菜詩は何に怒ってるの⁉」

「いいじゃん、よく校門近くまで迎えに来てるんだし~」

「どうせ今日も来るんでしょ?」

「そうだけどー……。いや、でも! 彼氏って言っても付き合ってからまだ三か月位しか経ってないし、会う時は勉強がメインだし! そもそもそんな頻繁に会ってるわけじゃないから、送ってほしいなんてそんな……!」


 先ほどまでの落ち着きはどこへやら、莉佳は急に頬を赤らめ早口で喋り出す。

 そんな莉佳の様子を口元を緩めて眺めるまひろと陽菜詩。

 進学校で常日頃から勉学に励む彼女たちも、話題が恋愛事となれば年相応の女子高生らしい反応となる。

 それ位の青春を楽しむ権利は守られて然るべきだろう。

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