第3話 アイスコーヒーと氷なしのりんごジュース
彼女の言った通り周辺のお店は通院で来た人やお見舞いに来たであろう人たちで溢れかえっていた。結局、院内にあったコンビニで適当におにぎりとお茶を買い近くの公園に設置されたベンチで済ませることとした。
まだ、四月の上旬だというのに桜の花びらは散り始め見頃の時期は過ぎ去っていた。花見なんて言えるほどでもないがまだ残った桜が散っていくところを楽しみながらおにぎりを頬張る。
最後の一口を口に入れ、お茶で流し込む。近くにゴミ箱はなく持ち帰る羽目になったが、春の心地よい風と桜を見ながら食べられたのだからそのぐらいの代償は払ってもいい。
さっきした約束を忘れるわけもなく来た道を辿る。ここで引き返さずに帰ることだってできる。今日ちょっと話しただけのほぼ知らない人だ。その誘いにまんまと乗る必要はないはず。それでも、それは人間として悪いと思うのは自分の優しさというよりも彼女の醸し出す雰囲気の良さによるものだろう。
数時間前に来た入り口を再びくぐることになるなんてここに予想外のできごとだ。昼過ぎの病院は受付時間が過ぎたのか人も随分と減り、朝の忙しさはなくなっていた。
記憶を頼りに向かう部屋。まだまだ新しい記憶と言うこともあってかすんなりと到着することができた。そこには確かにさっき見た名札がかかっていて、僕の記憶としっかりリンクした。
いざ入ろうとすると本当に来てよかったのかと優柔不断な部分が沸々と湧いてきたが、ここまで来てしまって引き返すのも変だと思い意を決してドアを三回ほどノックした。なかからは間延びした返事が返ってきてそっと扉を開いた。
「いらっしゃい。本当に来たんですね。」
少し顔色がよくなっていたことぐらいが唯一変わったことでそれ以外の彼女から醸し出される雰囲気は何も変わらず初めて会ったときと同じ印象を抱いた。
「こっちから折れたのに来ないのも悪いと思って―。」
「いい人ですね。さあ、行きましょう。」
少し浮き足立った感じで颯爽と出て行く彼女を追いかけて、さっきまでのあの体調の悪さはどこへ行ったのかと疑いたくなるほど足取りは軽くてあっという間に院内にある喫茶店に到着した。
どこにでもあるチェーンのカフェだが病院内でも展開していることに驚く。近くにはヘアサロンまであってもうここだけで生活の全ては賄えるほどだ。
「何にします?」
「あっ。アイスコーヒーで。」
充実した設備に感心していたらぼうっとしてしまっていた。
「サイズはどうします?」
「Mサイズで大丈夫です。」
「はい。わかりました。買って来ちゃいますね。」
そう言ってお会計に向かう後ろ姿を見ているとやっぱり払わせてしまう罪悪感がちょっと出てきてしまった。
店内はまだまだお昼を過ぎたばかりでゆっくりとティータイムを楽しむお客さんでいっぱいだ。座るところを店の外から探していると片方にコーヒー、もう片方にはリンゴジュースだろうか商品を持った彼女がやってきた。
「はい。これアイスコーヒーです。ミルクとか欲しかったですか?」
「いえ、このままで大丈夫です。ありがとうございます。」
受け取ったコーヒーはまだまだ冷たくて、ホットでもよかったかもと後悔する。
「店内座れなさそうですね。」
「そうですね。まだ昼過ぎたばっかりですからね。」
「しょうがない。戻ります。それは美味しくいただいてください。では。」
そう言って戻ろうとする彼女を引き留めずにはいられなかった。それはほんの少し前に見た光景をはっきりと覚えてしまっていたからまた同じことを繰り返すのではと不安が募った結果だ。
「あの、よかったら僕も一緒に。」
「私の目的は果たしたので大丈夫ですよ。」
「いや、あのとき“話相手になってくれませんか?”って言ってたじゃないですか。僕でよければ話相手になりますよ。そんなおもしろい話できないですけど。」
そう言った僕の咄嗟の嘘だけど彼女の顔は今日会ったなかで一番輝かしい顔をしていた。一方の僕はきっと無愛想な顔だ。こういうときに表情を作り出すのは昔から苦手で上手く笑えない。
「よく覚えてましたね。あれ、冗談で言ったつもりだったんですけど暇なのでお願いします。じゃあ、行きましょう。」
本日、三度目も同じ扉を開けることになるなんて想像もしていなかった。三回目となれば
さすがに少し見慣れてきて新鮮さはなくなっていた。
「どうぞ、ここかけてください。この机も自由に使ってください。」
僕はベッドサイドに置かれた丸椅子に、彼女はベッドに腰掛けて向かい合う形となった。窓に背を向けている彼女の髪は窓から入る光で少し茶色っぽい。
「改めまして、私は“あさかげ さくら”です。漢字は―こうです。」
机の上にあった付箋にさらさらと書いて見せてきた。小ぶりで整ったバランスで書かれた文字は部屋の前にあるネームプレートで見た文字と一致し、やっと読み方の答え合わせができてすっきりした。
「桜に夢で“さくら”って読めないですよね。でも気に入ってるのでそこはどうでもいいです。」
「素敵な名前だと思いますよ。名字もかっこいいですし。名前自体がすごいキレイです。」
「確かに言われてみれば、幻想的なイメージのものばかり集まった名前ですね。」
そんな話でもどこか楽しそうで口角が上がりっぱなしで、見ていてこっちまで悪いきはしない。その包み隠さない自然な姿がなぜか惹きつけられる。
「僕は森下桜翔です。ああ、これで桜翔。」
お世辞にもキレイとは言えない字を彼女の字の下に並べて書いた。
「桜が入ってるから春生まれですか?」
「春と言えば春ですけど、5月なので桜の時期ではないですね。」
「そういうこともありますよね。」
言ったことをなかったことにしたいようにりんごジュースをひと口飲んでいた。
「そういうあなたこそ春生まれですか?」
「はい。3月なのでちょうど桜の時期生まれですね。春生まれっていうのもあるんですけど桜は1年の決まった時期にしか見られない。目が覚めたら夢からも覚める。桜も夢も一時(ひととき)しか見られない。儚いものだからこそ一瞬一瞬を大切にしてほしいと名付けられたみたいです。ちなみに桜を間近で見たことはないんですけどね。」
寂しそうで悔しそうな顔で言った。
「まだ、近くの公園の桜咲いてましたよ。もう大分(だいぶ)散ってましたけど。」
そう言うとさらに気まずそうな雰囲気が垣間見える。何か悪いことを言ってしまったと後悔した。
「もう桜の時期でしたか。今年も見逃してしまいました。また、来年です。」
「すみません。何か悪いことを言ってしまったみたいで―。」
「いえ、気にしないでください。別に悪いことなんて何もしてませんから」
彼女は僕の言ったことに対して否定してくれた。僕はここにたまたま来ただけで、彼女はここに入院している。ただそれだけの関係で、その理由は知らない。でも、そこまで踏み込む勇気はない。
「ああ、来年は見に行けるといいな。ちなみに大学生ですか?」
「はい。」
「やっぱり?ってことは同い年ぐらいかな?」
「次の誕生日で二十歳ですね。」
「じゃあ、タメだ。」
正直驚いた。小柄な背丈と小動物のような雰囲気からてっきり年下かと思った。
「いま、驚いた顔しましたね?よく言われるんですよ。年齢言うともっと下かと思ったって。本当にこの年齢なのでごまかしてませんよ。信じられないなら戸籍でも取ってきますか?」
完全に顔に出ていたのか見透かされた。
「確かに同い年には見えませんでした。高校生くらいかと。」
「同い年ってことは敬語使わなくてもいいですか?」
「好きにしてくれればかまいませんよ。」
気づけば机に置いたアイスコーヒーにはほんのり汗が出ていた。一方、彼女のりんごジュースは汗をかくことなく平然と置かれていた。
「もうこんな時間か。そろそろ巡回が来てしまうかもしれないです。いつもこのくらいの時間に来るので。」
そうか。ここは病院だったということを忘れかけていた。
「じゃあ、この辺で僕は失礼しようかな。」
「そうですね。付き合っていただいてありがとうございました。」
立ち上がって、コーヒー片手に部屋を出ようとした。最後まで自分から話を振ることはほとんどなく、コミュ力の高い彼女のおかげでなんとか会話が成り立っている形で終わろうとしていた。でも、どこか後ろ髪を引かれるような気がして止まず。
「朝影さん。」
「桜夢でいいですよ。むしろそう読んでください。」
「あっ。さ、桜夢―さん。また来てもいいですか。」
「ええ、いつでも来てください。ここで待ってますから。」
そう笑いながら言った。
後にこの出会いがかけがえのないものとなることをこのときの僕はまだ知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます